主権者のいない国

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  • 講談社
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  • / ISBN・EAN: 9784065216866

感想・レビュー・書評

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  • 不正・無能・腐敗でまみれているのに、いかにも名宰相のような振る舞いをする低レベルな安倍晋三への辛辣かつ正確な評価で、久々に溜飲を下げた。
    それを許してしまった国民の「成熟の拒否」は痛感するが、どうするべきだろうか。このままでは日本の国力が落ちて、中流国から脱する事が出来ない。

  • 最初は毒舌鋭くてなかなか面白いと思って読み進めるも、途中から萎えてくる。評論家が書いた本。この一言に尽きる。久しぶりに読破を断念した一冊。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/756514

  • 久々に読み応えのある本に邂逅した。

    著者の見解いついては賛否はあろうが、私にとっては合点のいくことが多かった。

    本書は、著者が今までに上梓した著作や文章をまとめたものである。
    それ故、似たような話が繰り返し出てくるなど、書籍としての全体のまとまりという点からすると重複が多く、もう少し削れるところは削っても良かったのかなと思うところもなくはない。

    ただ、文章や表現がやや難解であるため、私には繰り返し同じ話が出てきても自分の理解の助けにはなったようにも思う。

    そして、著者の基本的スタンスは、戦後の日本や日本人がいかに劣化してきたか、そしてその象徴が安倍政権であるというもの。

    この今日の困難性を戦前からの日本史上の出来事とパラレルに見る著者の視点が面白い。それらを著者の文章を引用しつつ、もう少し詳細に見てみよう。

    まず第二次安倍政権は長期政権といわれたが、その期間は8年。

    歴史を振り返れば、この8年とは日中戦争の開始(1937年7月)からポツダム宣言受諾(1945年8月)までの長さに等しい。

    著者によれば、
    「後戻り不可能な点を踏み越え、完全な破壊に至るまでの期間に等しい時が、第二次安倍政権発足以来、流れた」という。

    つまり、安倍政権は日本が莫大な国家的・国民的犠牲を払い、その結果玉砕した第二次世界大戦の8年という期間と同一であるのみならず、同様に国の破綻ともいえる状況を招来したという点でも同じだということか。

    また、今日のコロナ渦について、
    「今日の状況を日本史上の場面に擬えるならば、戦時中、サイパン陥落後に誰がどうやって東条英機を引きずり下ろすのかが課題となった局面に似ている。東条降ろしの実行者の一人が安倍晋三の祖父、岸信介であったことには運命の因縁を感じざるを得ない。

    かつ、このアナロジーは、国家的危機の瞬間を二つ並べてそこに類似性が見出されるという話ではない。(中略)私は、「戦前の国体」の歴史と「戦後の国体」(米国を天皇として戴く特殊な対米従属体制)の歴史との間に反復の関係を見出した。戦前と戦後、それぞれ約75年の期間で、「国体」は形成・確立され、いったんは相対的安定に達するが、その後に破局・崩壊を迎えるのである。

    戦前の天皇制国家は、おおよそ関東大震災と昭和の始まりの時期から、うち続く経済危機と対外緊張に直面し、そして全面戦争へと突入して、敗戦、破局を迎えた。(中略)この崩壊過程の戦後版は、1990年前後、すなわち昭和の終わりと東西対立終焉と経済成長の終わりという「三つの終わり」から始まって、今日に至るまで反復の軌道を描いている。平成時代が丸ごと「失われた30年」であるのは、それが「戦後の国体」の崩壊期であるからにほかならない。

    以上の歴史観に即せば、安倍政権は東条政権の反復としてみることができる。両者とも、国体の崩壊過程の最終段階に当たり、その末期にふさわしい混乱と無能をさらけ出している。したがって、コロナ危機が安倍政権を打ち倒すとすれば、それは、単に一政権が退陣することのみを意味するのではない。それは、「戦後の国体」の終わりであり、つまりは「戦後の終わり」となるのであ」る。

    では、著者のいう「戦後の国体」とは何か?
    それを考える前にその対概念である「戦前の国体」について考えてみよう。

    それは、明治レジームが発明した「万世一系の天皇を中心とする国家体制」で、大いなる父たる天皇は臣民=国民を「赤子(せきし)」として愛しているのであって、支配しているのではない、つまり支配の事実を否認する支配であるところに、国家観念の際だった特徴があった。

    他方、「戦後の国体」は、無論天皇制ファシズムの温床と目された戦前の国体が、戦後もそのまま生き延びたわけではない。

    第二次世界大戦終結後、アメリカは天皇制を存続させることを通して日本を間接支配するプランを実行に移し、昭和天皇は、これに巧妙に応えるかたちで、敵だったアメリカの存在を積極的に受け入れることによって皇統断絶の危機を乗り切った。

    換言すれば、戦前の「国体」は敗戦によって一度解体されるが、戦後、天皇の位置にアメリカが代入されることによって再編されつつ生き延びてきたということであり、いつの間にか「星条旗(アメリカ)」は「菊(天皇)」の機能を果たすようになったのである。
    かくていまわれわれが目にしているのは、アメリカが事実上の天皇として機能する国体である。

    そして、安倍はじめ「親米保守」といわれる政治家が死守しようとしているのが、この「戦後の国体」に他ならない。

    著者の安倍評は極めて辛辣であるが、見事に的を射ている。

    私も安倍晋三には政治家としての資質がないとかねてより思っていたので、首肯し得る点が多い。

    たとえば、安部は二度首相の座に就いたが、いずれもその最後は旗色が悪くなった途端、自身の健康不良を理由に政権を投げ出したという点で共通する。
    にもかかわらず、首相退任後も院政を敷くかのごとく未だに政界に影響力を及ぼそうとしており、無責任極まりない。

    そして、この点について著者の指摘は、痛快なほどに辛辣で容赦ない。

    本来、国家のトップの健康不安は最高の国家機密のひとつであるところ、安倍は「関係の近い有力政治家と呼吸を合わせて、自分の病気を故意にアピールした。そして、8月28日の記者会見は、持病の再発により志半ばで職を辞さなければならいことになったという趣旨を、「神妙な」面持ちで語る場となった。

    ただ、実態は前述のとおり、種々の問題を抱える情勢下で、安倍晋三にとって火急の課題は、「いかにして身の安全を確保して政権を投げ出すか」というところに必然的に定まる。ここで下手を打てば、国民の批判は自民党本体にも及んで政権を失うかもしれない。あるいは、影響力を及ぼせない人物が総理総裁に就任するかもしれない。いずれの場合でも司直の手が自らの身に及ぶ可能性が高まる。

    ゆえに、このタイミングでの持病の悪化は、大変な好材料として機能する。大衆の感情のモードを「もう引っ込め、馬鹿野郎」から「色々あったけれど、病気は気の毒だ。長い間、お疲れ様でした。」へと転換されること、これが安倍の自己保身のために決定的に重要な事柄となったのである。」という具合だ(笑)。

    これはさすがに国民を愚弄しすぎているといいたくなったが、辞意表明後の世論調査(共同通信)によれば、政権支持率は20ポイントも上昇したという。

    また不思議なのは、世間がこのような安倍政権を支持し、そればかりか退陣後の今(2021年7月)でも、「次期首相にふさわしい人は」という日本経済新聞のアンケートで、河野太郎、小泉進次郎、石破茂についで第4位に入っている(2021年6月28日夕刊)。

    そもそもベストスリーの顔ぶれも何かなあ、という感じではあるものの、その驚きをも上回る安倍4位。

    この私の疑問に対する著者の回答はつぎの通りである。

    2011年3月に発生した東日本大震災による原発事故、その当時は民主党管政権であった。
    その無策や失政については論を待たないが、このような民主党政権への一種の狂気、病的な水準にまで達した「否認」、そしてその反動、反射的効果として第二次安倍政権は発足した。

    違う言い方をすれば、この国家的危機を救う一種のヒーロとしての像を国民は安倍晋三に見たのである。

    そして、それが安倍晋三であったことは必然であると著者は言う。

    「彼の人生と人格が、空疎で空虚であり、さらに悪いことには己の無内容を認めることができない怯懦(きょうだ)、自己の虚しさに対する否認によって貫かれており、それゆえに、彼こそがこの国民的否認劇の主役を張るのにはまさに適任であった。彼が、原発事故をきっかけとして一挙に表面化した戦後日本の矛盾に目をつむったまま「平和と繁栄の日本」の幻影に浸り続けたいという国民的欲望の体現者であったからこそ、超長期政権を維持でき、「体制」まで築き上げることとなったと言える。」

    なるほど、この解釈は素晴らしく、合点がいく。

    そしてこの現象を国民に視点を移してみると、いわゆる反韓、反中勢力の台頭・跋扈ということになる。

    GDPなどの経済指標において、もはや中国に追い抜かされ、韓国にも追い抜かされつつある現在、これこそまさに、「平和と繁栄の日本」の幻影に浸り続けたい国民には受け入れがたい事実である。

    「このような日本に今訪れているのは、「戦後の国体」の完全な耐用年数切れ、崩壊の時代である。
    安倍政権とは、その本質において、歴史に逆行しながら「戦後の国体」を手段を選ばず維持する努力であり、安倍の動機は、世襲によって手に入れた「戦後の国体」の領袖の地位が彼個人の虚栄心を満たすものだということに尽きる。

    この知性において愚劣を極め品性において下劣を極めた宰相を戴く政権が長期政権となったのは、日本国民の多くもまた、安倍同様に、「日本はアジアで唯一の先進国(一等国)」であるという、今や通用し得ない虚偽意識に耽溺しているからこそ、これに支持を与えてきたからであろう。」

    そう、著者は安倍を批判しているようで、実はそれを生み出してきた我々日本国民を批判しているのである。
    それは、本書のタイトル『主権者のいない国』に明らかである。

    しかしながら、私はこの点に反論を試みたい。

    安倍の言動しかり、政治というものはメディアを通じて国民に知らされる。

    安倍が腐っているのはその通りかもしれないが、その腐った安倍をのさばらせていたメディアこそが私は悪であると思う(もちろん、メディアも広い意味では「国民」の側に入るのかもしれないが・・・。なお、このメディアの責任について著者は、「安倍的なるもの」を作り出したのはメディアではないといい、同情的であるのは不思議だ)。

    また、メディア同様に立憲民主党など野党も同罪である。

    第二次安倍政権末期は、モリカケ問題に桜を見る会、さらには検察庁法改正案問題などまさに不祥事のデパート状態であった。

    このような事実上、死に体の内閣にも関わらず、これを葬り去ることができなかった野党。
    国会での党首討論などでも枝野は枝葉末節の質疑を繰り返し、本質には全く迫れない。
    自民党に買収や口止めでもされているのかと疑いたくなるほどだ。
    もはや彼らの存在意義はない。

    このように安倍の醜悪さはさることながら、メディアと野党の腐敗も国民の劣化を招いた大きな原因であると私は考える。
    この三者は(当事者間に通謀の意思があったかは不明だが)、まさに共犯者である。

    その結果が、『主権者のいない国』なのであろう。

    ただ、このタイトル、なんと悲しい響きをたたえているのであろう。
    あたかも第二次世界大戦の空爆後の東京の風景にも似た、厭世的な情景である。

    では、この救いはないのか??

    それは本書の最後に簡単にそして極めて抽象的に書かれている。

    「内政外政ともに数々の困難が立ちはだかるいま、私たちに欠けているのは、それらを乗り越える知恵なのではなく、それを自らに引き受けようとする精神態度である。真の困難は、政治制度の出来不出来云々以前に、主権者たろうとする気概がないことにある。
    安倍政権に功績があったとすれば、そのことを証明してくれたことであった。
    そして、主権者たることとは、政治的権利を与えられることによって可能になるのではない。
    それは、人間が自己の運命と自らの掌中に握ろうとする決意と努力のなかにしかない。
    私たちが私たち自身のかけがえのない人生を生きようとすること、つまりは人として当たり前の欲望に目覚めること、それが始まるとき、この国を覆っている癪気(しゃっき)は消えて亡くなるはずだ。」

    安倍批判に比べると大分、抽象的で空想的・感情論的で、つまりトーンダウンの感が否めない。

    真っ暗なトンネルに引きずり込まれ、そこから光は一筋も見えませんでした、といわれたような気分である。

    もちろん、具体的に今日の困難な状況を解決する方法を披瀝できるのであれば、それこそ為政者となり日本を改革していく資質があるということになろうが、そんな人はそういないということを図らずも本書は示した。

    この点、内田樹氏は悲観的状況も肯定的に受け入れ生きていこうという別の角度からの心の所作のようなものを暗示してくれており、この点では内田氏の言説の方が納得感が強い。

    ただ、本書が提起した問題は重要で、今後の自分自身の検討課題としていきたい。

    まずは、今週末(2021年7月4日)投票日となる都議会議員選挙へ投票に行こう。

  • "かつて、「戦前の国体」が崩壊の最終過程を驀進していたとき(つまり、十五年戦争の末期)、特権階級以外の国民の命は限りなく粗末に扱われ、あたかもそれは如何様にも処分可能なモノであるかのようだった。
     今日、それと全く同じ状況が生じているわけではもちろんない。(略)" 180ページ

    ここを読んで、ヒーっとなった。「全く同じ状況が生じている」ではないか。
    そうか、今は「戦後の国体」の崩壊の最終過程なのだな。そのことは何回も別の箇所で書かれている。「戦後の国体」が崩壊するのは良いのだけれど、その後に何が現れるのか。最悪なモノの後には、よりマシなものが現れて欲しいのだが。なんかまだ準備ができていないような気がするのだが。未来が見えない。

    この本の一番最後の部分
    "主権者たることとは、政治的権利を与えられることによって可能になるのではない。それは、人間が自己の運命を自らの掌中に握ろうとする決意と努力のなかにしかない。私たちが私たち自身のかけがえのない人生を生きようとすること、つまり人として当たり前の欲望に目覚めること、それが始まるとき、この国を覆っている癪気は消えてなくなるはずだ。"
    に個人的にグサリときた。

    コロナ禍でまいっているところに、オリンピックのアレコレも加わり、もうゲンナリしている。白井さんの本を読んで、あきらめてはいけない、立ち上がらなくてはいけないと改めて思った。

  • 東2法経図・6F開架:312.1A/Sh81s//K

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。思想史家、政治学者、京都精華大学教員。著書に『永続敗戦論─戦後日本の核心』(太田出版/講談社+α文庫)、『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)など。

「2022年 『撤退論 歴史のパラダイム転換にむけて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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