- Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065249444
作品紹介・あらすじ
「外なる世界と内なる心、という分別は誤りだと思う」
見たり聞いたりする知覚の風景が自分の「心の中」にある心象風景だと感じる人はまずいないだろう。しかし、痛みや気分、悲喜の感情、思い出や希望、空想や妄想、そして意志といわれるもの、これらはまぎれもなく自分の「心の中」のものだ、と人は感じている。
しかしそれは、人が抱く根本的な事実誤認ではないか?
世界そのものが悲しく喜ばしく恐ろしく、回想や希望も現在も、常にひとしく四次元の全宇宙世界の立ち現われなのである。
このことを、光学虚像や幻覚・幻像、時間と空間、幾何学、芸術、自由と意志などさまざまな角度からていねいに論じる。陥りがちな誤解をほぐしながら、日常と科学を重ねながら、「世界の一項目としての私」を「世界のあり方としての私」に組み変える。
世界そのものが、悲しく喜ばしく恐ろしい。
こうして「私」は抹殺され、私が復元されたのである。
解説: 野家啓一
本書の原本は『新視覚新論』(東京大学出版会、1982年)です。
【目次】
1 見ることと触れること
2 見えている
3 何が見えるのか
4 「表象」の空転
5 鏡像論
6 過去透視と脳透視
7 空間の時間性
8 自由と「重ね描き」
9 言い現わし、立ち現われ
10 心
感想・レビュー・書評
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1982(昭和57)年著。
以前読んだ大森荘蔵さんの著作は結構面白く読めて共感する部分も多かったのだが、本書の前半、「視覚」現象を巡って常識を覆すような論が展開される部分は、どうも首肯できずに苦しかった。文章は哲学書としては恐ろしく平易・明解な方で、言っていることは理解できるのだが、どうしても「いや、どうかな、違うんじゃないかな」と疑わしい気持ちになるのだった。
しかし本書後半、「視覚」を離れて心的現象全般について哲学的洞察が繰り広げられ始めると、これはなかなか面白く、かつ、同意できそうな点も多くなった。「立ちあらわれ」という独特のキーワードを軸に、「自分」と周囲の風景や事物との関わりを明らかにしていく。
果たして、大森さんの言うように、「像」(心象、仮象、イメージ、記憶など)ではなく想起された「そのもの」が「立ちあらわれている」のかどうか、これは今後、日常を生きながら自分で検討してみたいと思う。それくらい、本書後半に論述されたものは魅力的・刺激的なのだ。
最後の10章のみ、いきなり「ですます調」に文体が変わるのは後から付け加えられたからだろうが、この最終章に本書の核心はほぼ全て凝縮され、要約されていると感じた。この章だけでも、後日また読み返してみたいと思っている。詳細をみるコメント0件をすべて表示