ウィトゲンシュタインと言語の限界 (講談社選書メチエ)

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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065283622

作品紹介・あらすじ

本書の著者ピエール・アド(1922-2010年)は、古代ギリシア思想や新プラトン主義の研究者として、コレージュ・ド・フランス教授を務めました。その著作は、古代哲学のみならず、フランシス・ベーコンやデカルトなどの17世紀思想、ゲーテ、ヘーゲルからニーチェ、ベルクソン、ハイデガーに至る19~20世紀の思想まで、幅広い知識に裏打ちされた類を見ない豊饒さをそなえています。その著作はヨーロッパの知識人に大きな影響を与えるとともに、アメリカでも多くの読者を獲得してきました。
ところが、日本では2020年に『イシスのヴェール』(法政大学出版局)が出版されるまで、訳書は1冊も存在せず、それゆえ注目を浴びることもなかったというのは、豊かな翻訳文化を育ててきた国では奇妙な欠落だったと言わざるをえません。2021年には『生き方としての哲学』(法政大学出版局)の邦訳が出版され、ようやく日本でもこの碩学の思想に触れる準備が整いつつあります。今こそ、アドがフランスで初めて本格的にウィトゲンシュタインを紹介した人物でもあること、そして唯一無二の解釈を残していたことを伝える本書を読むべき時だと言うことができるでしょう。
研究者にさえ顧みられずにきた本書に収められた論考は、『論理哲学論考』と『哲学探究』しか出版されていなかった時期に書かれたものにもかかわらず、後続の者が見出すことのできなかった側面を明確に浮かび上がらせるものにほかなりません。アドは深い教養に導かれて、ウィトゲンシュタインの思想の中に古代のストア派や懐疑主義、新プラトン主義とのつながりを、あるいはショーペンハウアーとのつながりを見て取ります。その結果、ウィトゲンシュタインの著作は独自の「哲学」を記述しただけのものでなく、第一級の「哲学史」でもあることを明らかにするのです。
本訳書では、アドの解釈の画期性をよりよく理解できるよう、気鋭のウィトゲンシュタイン研究者である古田徹也氏の重厚な「解説」を収録しました。さらに「訳者後記」では、合田正人氏がアドという人物を中心にした知的ネットワークの広大さを深い思い入れとともに綴っています。本書の中で、これまで知らなかったウィトゲンシュタインの顔を見ることができるでしょう。
今後のウィトゲンシュタイン研究にも大きな一石を投じることになる重要著作の邦訳を選書メチエの1冊としてお届けいたします。

[本書の内容]

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』における言語の限界についての考察
ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 I
ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 II
言語ゲームと哲学
解説 ウィトゲンシュタイン哲学の「新しい」相貌(古田徹也)
訳者後記

感想・レビュー・書評

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  • 哲学者ピエール・アドによる、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の読み解き。両者をヒントに自らの思考が深まる。張り合う訳ではないが、やはり哲学そのものが無意味な造語を弄ぶスノビッシュ、或いは文系学問の聖域化に流されている見方が拭えない。くだらない。故に、よりシンプルな現象論からこの世界を覗いてみた。

    以下は私自身の咀嚼した思考になるが。

    言語とは。
    「実存する事物の名称化」と「実存しない観念の名称化」、「それらを組み立てる文法」に分けられる。目が見えない人が事物を名称化するが如く、形の見えない観念を名称化する事も可能。

    思考の限界は言語の限界、というのは誤りだ。

    文語と口語に対し、思考語のようなものがある。顔が思い浮かぶが、名前が出てこない。つまり言語無き状態でも思考は可能。言語は他者との意思疎通には概ね必要だが、私的な思考には必ずしも必要がないものだ。人間以外の動物も思考する。

    思考とはつまり意識だが、意識とは、記憶を鍵として、身体欲求による内的知覚と外的知覚の双方を前提条件として生成される「解」のようなもの。記憶、つまり言語や非言語(イメージ)が伴わないものは無意識。熱くて手を引っ込める、空腹で反射的に目の前の食料を食べる。言語自体が記憶である事は、単語帳や暗記カードを思い出せば容易に理解できる。更に、言語無き映像の記憶もある。名前を忘れた芸能人、言語化していない思い出、音楽や絵画、ポルノなど。つまり、言語がなくとも、思考や意識は可能。唯一必要なのは、文法であり、チョムスキーの生成文法論や数学的論理の本質に通ずる。

    更に極論する。言語は脳内の検索インデックス、タグの役割であり、イメージにアクセスするためのツールに過ぎない。故に小説は脳内に映画をデコードするプログラムコードであるのだ。

    ー 私の言語の限界は、私の宇宙の限界を意味する。世界の限界は論理学の限界である。哲学は言語の悪しき使用、言語の病であって、それが数々の贋の問題や贋の命題、論理学的形式を欠いた命題を生み出すのだが、その命題は、論理学的文法に違反しているがゆえに、ありうべき事物の状態を決定することはない

    プレゼントを貰って嬉しい
    プレゼントを貰って楽しい には少し違和感。
    しかし、嬉しいと楽しいは共にポジティブな感情であり、厳密に区別しなくても通じる。幸せ、心地良い、最高だ、良い感じ、など言葉は複数あるが、どれも区別しなくても理解できる。喜びは犬の態度表現でもわかる。つまり言語化しなくても、身体の高揚感で記憶や思考は可能。細かな言語ゲームは、声紋のような個性化や強度設定以上にあまり意味はない。この世界は、いまだにその個性化や強度設定に人間関係構造を組み込ませる事に関心を持ち過ぎているし、言葉遣いの機微による自己表現に囚われ過ぎたり、言葉尻での攻防、感情影響が強すぎる傾向がある。発信側も受信側もこだわり過ぎで、原始的にさえ見える。

    意思疎通のための言語には、音量や強度も重要というのは、例えば、昭和のオッサンが「飯!」と奥さんに言う。飯という言語自体の意味より、声の大きさや強さで要求が伝わる。テキストでは、こうした言外の情報が伝えにくい。また、脳内で強さを表すのは、声量ではなく、反復数だ。嫌な事ほど繰り返し想起される。こうした事例からも言語の完全性は否定できる。「言外」という言葉もまた、言語の限界を示す一つの証拠である。

    斯様に、言語には限界があるし、それを絶対視して誤解や攻撃し合う社会は未熟ではあるが、その多様性は人間社会にアクシデントやランダム性を生むもの。いつか近代的なリンガフランカを生成するなら、敬語などは人間関係強度を可視化して組み込み、語彙を減らしたものになるだろうか。或いは、序列化への対処が早いだろうか。哲学は一部言葉遊びのようでもあるが、しかし、人間社会の本質的ソースコードに迫る話という点で、ウィトゲンシュタインの考察は意義深い。

  •  本書は2004年に出版された、フランス哲学者によるウィトゲンシュタイン(以下LW)評論の翻訳本。著者は既に鬼籍に入っているが、フランスにLWを紹介した最初の人物だという(ということは、それまでの現代フランス哲学はLWを何ら参照することがなかったのだろうか?)。専門である神学や古代ギリシア哲学、新プラトン主義の文脈からLWを論じているが、本文と解説で丁寧な解説がなされているためそれらの知識がなくとも読み進めることは可能。むしろ最近の哲学書のような重厚長大さがなく、本文も150頁程度とコンパクトであり読み易い。古田徹也氏による解説も充実しており理解を助けてくれる。

     内容に関しては古田氏も指摘している通り、徹頭徹尾LWを「論理実証主義者」と称したり(命題が論理的形式を満たすかどうかは事実との照合/検証により行うべき、というLWの主張からだと思われるが、LWは端的には「論理は事実や対象ではない(よって観察もされない)」と言っているのであり、観察可能性を重視する実証主義者とは立場が異なるのでは。「実践主義者」とでもしたほうが実態に即していると思う)、哲学的言語を「言語の悪用」と断じたり(のちに「青色本」解説文で論じられるように、哲学は日常言語と論理形式/ルールが異なるだけで悪用とは言えないのでは?)するなどやや違和感も感じたが、後者の論点からは例えば『論考』が自らを「最終的に無意味と見做されるべきもの(6.54)」とする理由が、「言語をその根本に求める哲学が、まさにその言語によっては自らを表現できないため」だということが明快に導かれており、わかりやすさという意味ではかなりいい線を行っているのではないかと思う。

     もちろん、本書の白眉はこれまでのLW論とは全く異なる視座からLW哲学に光を当てていることだ。『論考』終盤では神秘的なものに対する驚きの感情が述べられているのだが、僕にはこれがそれまで冷徹なまでにストイックに論理形式の語りえなさを記述していたLW像とは相容れないものののように思えて仕方がなかった。本書ではそのLWの感情こそが「事実に対する科学的記述とは疎遠な何か、実存的もしくは倫理的、美的秩序に位置付けられる何か」であり、まさに世界の外にあって「語りえない」ものだということを「示している」のだという。「言語の限界が世界の限界(言語の乗り越え不可能性)」、つまり「言語ー世界並行論」から逸脱した部分にLWは神秘さを見出しているのだということなのだが、これは少なくとも今まで僕が読んだLW論でははっきりと示されてこなかった視点であり、これにより『論考』をより一貫性ある形で読むことができるのではと思う(ただ、これをストア派のアパティア(超然さ)に引きつけて論じる部分はやや強引に思えたが…)。

     後半は、『哲学探求』における「語の意義とは、言語におけるその語の使用である(43節)」からくる言語ゲーム、なかんずく「日常言語中心主義」をめぐる考察が主。ここから外れた語の使用を実践する哲学を断罪しているが、上記の通り「青色本」解説によればLWが攻撃するのは「属するゲーム、及びルールを示さないままの語の使用」であり、必ずしも哲学のみを対象とするものではないように思える。が、いずれにせよ「語の使用」を意味の場とするLWの主張が、変化球を用いることなく多くの第一次資料からの引用をもって論じられており、前半に比べるとストレスなく読むことができる。
     
     ただ、『論考』『探求』の考察を通じて著者が抱いた大きな疑問「LWによって示された「論理形式」「言語ゲーム」などという表現は、どのような言語ゲームに属しているのか」についてはそのまま留め置かれたままである。これをラッセル流にメタ的に処理してよしとするのか、ゲーデル流に自己言及の連環として扱うのかというのは、考えるだに強烈に困難な問題であるように思える。

  • ヴィトゲンシュタインの標準的な理解を得るためになにか読もう、という人にまず勧めるようなものではないが、さすがにアドの書くものなだけあってふつうにおもしろい。というかアドがヴィトゲンシュタイン読んでたのを知らんかった。

  • 序:
    倫理学と神秘主義
    言語ゲームと哲学
    フランスで初めてウィトゲンシュタインについて話した人物
    文学としての倫理学
    神秘的なものの概念をどう説明するか
    忘我恍惚
    語りえないもの=しんぴてきなもの
    ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』における言語の限界についての考察
    ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 I
    ウィトゲンシュタイン 言語の哲学者 II
    言語ゲームと哲学
    解説 ウィトゲンシュタイン哲学の「新しい」相貌(古田徹也)
    訳者後記

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著者プロフィール

(Pierre Hadot)
1922年生。パリのカトリック家庭に生まれ,神学教育を受ける。15歳で高等神学校に進級,22歳で司祭の資格を得たのち,ソルボンヌで神学・哲学・文献学を学ぶ。27歳でCNRS(フランス国立科学研究センター)の研究員となり,宗教界を離れて哲学の道を選ぶ。文献学の研究を土台として,古代ギリシア思想と新プラトン主義,とくにプロティノス研究で著名となる。1963年にはEPHE(高等研究実習院)のディレクター,82年にはミシェル・フーコーの推薦もありコレージュ・ド・フランスの教授に就任。2010年没。著作に『プロティノス──純一なる眼差し』(Protin ou la simplicité du regard, 1963),『古代哲学とは何か』(Qu’est-ce que la philosophie antique?, 1995),『内面の砦──マルクス・アウレリウス『自省録』入門』(La Citadelle intérieure, 1992),『生を忘れるな──ゲーテと精神的修練の伝統』(N’oublie pas de vivre, 2008),『イシスのヴェール』(法政大学出版局)ほか多数。

「2021年 『生き方としての哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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