── 吉永 みち子《気がつけば騎手の女房 198410‥-198903‥ 集英社文庫》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4087494365
吉永家の人々 ~ 馬術・牧場・獣医・騎手の系譜 ~
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藤原 金益 公卿 17‥‥‥ 薩摩 17‥‥‥ ? /平家の臣に遡る系図は西南戦争で焼失
吉永 新九郎 曾祖父 18‥‥‥ 薩摩 19‥‥‥ ? /馬術指南/189, 吉永牧場創業
吉永 栄蔵 祖父 18‥‥‥ 薩摩 19‥‥‥ ? /九州初の開業獣医師
吉永 伝 正人の父 191,‥‥ 鹿児島 19‥‥‥ ? /
吉永 正人 騎手 19411018 鹿児島 20060911 64 /[19610311-19860309]“吉永スペシャル”
/163cm, 55kg「雨の日に、帽子のひさしから落ちてくる雨水が本当にうまい」
♀吉永 □ 正人の前妻 194,‥‥ ‥‥ 1974‥‥ ? /結婚&離婚/一男二女の母/旧姓=□□
吉永 良人 騎手 19480904 鹿児島 /[19700301-] 正人の弟/馬事公苑“花の15期生”
吉永 護 騎手 19731116 茨城 /[19920301-20081231] 正人&前妻の長男 [A] 168cm
♀吉永 みち子 作家 19500312 埼玉 /1977(27)結婚 198,‥‥ 離婚/旧姓=鈴木/一男の母
/1973 競馬紙「勝馬」/「日刊ゲンダイ」記者/1985 大宅 壮一賞
http://valuetrendnews.com/yoshinaga-michiko-mother-4222
♀鈴木 さちこ 異父姉 1936‥‥ ‥‥ 1943‥‥ 7 /病死
♀鈴木 □□ 母 19‥‥‥ 埼玉 19‥‥‥ ? /19‥(22)結婚
鈴木 □□ 実父 19‥‥‥ ‥‥ 1945‥‥ ? /
□□ □□ 異父 19‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? /
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…… 1985年に『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション
賞を受賞し、現在はコメンテーターや地方分権改革推進会議の委員など
を歴任する吉永みち子さんが、「死んで終わり」じゃない母との関係を
話した。
* * *
子どもの頃、靴を買ってもらうことになり、母が好きそうな赤を選ん
だ。母を喜ばそうと新しい靴を履いてスキップし、「春よ来い」を歌っ
た。すると母の顔から笑顔が消えた。いつもそうだった。突然、不機嫌
になって私を全身で拒む得体のしれない憎しみと怒りを感じ、不安だっ
た。
母はよく言った。「優しい子は死んで、優しくない子は生きている」
優しくない子が私だと何となくわかった。優しい子に負けないよう母
の機嫌を損ねないことばかりを考えた。家の中で気を抜いたことも熟睡
したこともない。
母の日記で、私に異父姉がいたことを知った。昭和11年に母は未婚で
姉を産み、世間の白い目と闘いながら育てたが、姉は7歳で病死した。
その後、母は22歳上の父と結婚して人生をやり直し、世間を見返したかっ
たのだろう。だから、私がちゃんとしていないと許さず、「優しい子=
姉が生きていたら」と思ったのだ。
それでも私はずっと母と離れられなかった。27歳で騎手の故・吉永正
人と結婚した時は父の遺産も自分の預金通帳も母に渡し、経済的に困ら
ないようにした。
私が40歳のある日、母の家に行くと、大きな市松人形が「さちこ」と
名付けられていた。亡き姉と同じだ。まだ姉がいいのか! 強烈に頭に
きた。永遠の理想である姉にはかなわない――思えば、あの時が、私が
母を喪失した瞬間かもしれない。
当時、私が日記に書き綴っていた望みは「母よりも一日も早く死ぬ」。
私を大切な娘だと思い知らせたかった。だから私が42歳の時、母が旅先
であっけなく死ぬと、「しまった!」と思った。
私は大きな喪失感を抱いたと同時に、清々しい青空も見えた。これで
葛藤や確執から解放される。しかし気づくと、私と母との関係は、私と
子どもたちに連鎖していた。変に気を使い、距離のある家族になってい
た。結局、私は母の影響を大きく受けている。母が死んでからも逃れら
れない。
母を最期まで頑なにさせたのは、私のせいでもある。母の世話をした
のは愛情ではなく、そうしないと何を言われるかわからないからだ。そ
んな私に母も安心を感じられなかったはずだ。もっと感情でぶつかれば
よかった。親子はお互いが鏡なのだから。
5年前、恐山のイタコを訪ねた。嘘でもいいから「いつも見守ってい
る」という母の言葉を聞き、現世でのつらい関係に終止符を打ちたかっ
た。あの世で穏やかに会えるようにと思った。だが、イタコに“降りて
きた”らしい母は、「優しい子と優しくない子がいる」と、一番聞きた
くない言葉を言った。別のイタコを訪ねると開口一番、「私も忙しいん
ですよ。どうぞ一人で生きていって」。私が望んだ優しい言葉は聞けな
かった。やりきれなさを息子にぶつけると、「それ、お母さんが、おば
あちゃんは“こう言うだろう”と思っていることだね」と言われた。
ハッとした。母の姿は、私自身が作り上げていてそれとずっと格闘し
ていたのかもしれない。
母の死後、ベッドに入ると部屋のドアが開きっぱなしだったことがあ
る。閉めに行くのが面倒で悶々としていると、すっとドアが動き、カチ
ャッと閉まった。
母だ、と思った。私は「ありがとね」とつぶやいた。母にお礼を言う
のは初めてだった。生きている間に言えば良かった。
没後20年以上経つが、今も気付かせられることがある。死んで終わり
じゃないのが、母と娘なのかも。
http://dot.asahi.com/news/domestic/2014031900060.html
《「死んで終わりじゃない」作家・吉永みち子と母の複雑な関係 20140328 週刊朝日》
(20141211)