ダロウェイ夫人

  • 集英社
3.83
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087732986

作品紹介・あらすじ

人生のただその「瞬間」に飛び込んでゆきたい…死と生のよろこびにみちた、六月のロンドンのように美しい小説。世紀末から1920年代の英国の精神風土をえがきながら、「意識の流れ」の文体で、老いゆく女性の、あるいは老いゆかざるをえない人間の悲哀を、生命力にみちた六月のロンドンを背景に、美しくうたいあげた、20世紀文学の最高傑作。

感想・レビュー・書評

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  • 3度目くらいの通読。
    前と違うのは、【ダウントン・アビー』をラストまで見通したおかげで1920年代のロンドンをまるで知ってるかのように思い描けること、ほして、私がクラリッサとほとんど同じ年齢になったこと。
    有力者の昼食会に呼ばれなかっただけで落胆するとか、娘との間に感じる距離と焦りとか…わかる、わかるよ、クラリッサ! そして自分が物事を感じる心を擦り減らして鈍くなっている恐れも。
    彼女が最後に自殺するように記憶違いをしていた。映画の『The Hours』と混濁したわね…これも加齢だ。
    この本の装丁、とても好き。単行本で買っておいてよかった。

  • 六月の朝のロンドン。ビッグ・ベンの鐘の音が聞こえる。柔らかなヴェールのような灰白色の朝の空気の中に、クラリッサ・ダロウェイは飛びこんでゆく。今夜の夜会のための花を買いに。大戦は終わり、街は活気をとりもどしている。ウェストミンスターからセント・ジェイムズ公園へと歩を進めるクラリッサの目や耳に飛びこんでくる街の喧噪、馬車や自動車、ブラスバンド、辻音楽士の手回しオルガンの音――「このすべてのなかにわたしの愛するものがある、人生、ロンドン、六月のこの瞬間がある。」

    夫のリチャードは下院議員、今夜の夜会には首相も顔を出す。五十歳を過ぎ、クラリッサの髪にも白いものが目立つようになったが、魅力は相変わらず。彼女の生きがいは、人と人とを結びつけ、楽しい時間を与える夜会を催すこと。古い友人のピーター・ウオルシュはクラリッサを評して完全無欠の女主人になる素質があるといったものだ。

    そう、クラリッサは人生をロンドンを、人々を愛している。しかし、その一方で、彼女の心の中には死の想念がたえず浮かび上がってくる。「自分が外に、岸から遠く離れてひとりぼっちで沖にいるという、そんな感じにたえず襲われる。一日だって生きていくのは、ほんとうに、とても危険なことだ」「自分がいつかかならず跡形もなく消え失せ、その後もこのすべてがいままでどおりつづいていくとしても、どうでもいいことではないか?べつに腹立たしいことではない。」

    自分の周りにあふれる生き生きとした人々の生活を愛しながら、その一方で、自分の存在がなくても、これらは存在するだろうという覚めた認識がいつもつきまとう。それらが活気に溢れ、愛おしく思えば思うほど、自分はそれらから切り離されているといった感じがせまってくる。かつて、ブアトンの家で一夏をともにしたサリー・シートンのことを思い出す。彼女が一つ屋根の下にいることを考えると「いま死ねば、この上なく幸福だろう」と感じたのだった。あまりにも愛しすぎるから、そのひとときの過ぎ去るのがこわい。ピーターの求愛を退けたのも同じことだ。あまりにも、自分にとって近しすぎるから、長く続くことで、その関係の毀れるのを怖れずにいられない。

    誰かを愛し、ともに生きていくということは、長い間には、時には憎んだり、傷つけあったりすることを避けては通れない。信じるということの裏には疑いが、賞賛の背後には嫉妬が、コインの裏表のようにはりついているものだ。クラリッサは、美しいもの、よきものを愛するがゆえに自分のなかにもある、醜いもの、つまらないものをいつも抑圧して生きている。「それが私の自己(セルフ)なのだ。―とんがった、投げ矢のような、明確な自己。意識的な努力によって、自己になれという呼びかけによって、いくつかの部分が統合されたときに現れる自己。それがいかにほんとうの自分と異なるか、それと矛盾したものであるかは、わたしだけが知っている」。

    このような努力を常に自己に強いていれば、無意識の裡にその努力から解放されることを要求する欲望が育っても不思議はない。狂気か死か、いずれにせよつくられた自己から解き放たれ、ほんとうの自分にもどれるきっかけを心の奥底で必死に追い求めながら、つくられた完璧な自己を生きるという矛盾した毎日を送るクラリッサの心を誰も知らない。良き夫であるリチャードも、いつまでたっても大人にならないピーターも、家族には優しいが典型的な俗物であるヒューも。いまや肥った資産家夫人となったサリー・シートンも。

    人好きのする自分の像が、意識的な努力の成果であるなら、努力を止めれば、その像は汚され地に落ちてしまう。セプティマスの自殺を聞いたとき、クラリッサの心の中に起きる共感「一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これをその青年はまもったのだ。死は挑戦だ」という思いは痛切だ。事実、モダン・ライブラリー版への自序のなかで、ウルフは、初稿ではクラリッサが死ぬはずであったと打ち明けている。セプティマスが代わりに死ぬことで、クラリッサは生き続けてゆく。「もはや恐れるな、灼熱の太陽を」というシェイクスピアの詩を口ずさみながら、夜会の席にもどってゆくのだった。

    人は成長するにつれ「青春時代の勝利感をなくし、一日一日過ぎ去ってゆく生活のなかに自分を見失」ってゆく。大人になるためには捧げ物がいるのだ。しかし、窓の向こうの空を見て「あそこにわたしの一部がある」と感じることのできるものには、それでも「なお日がのぼり日が沈むときに、失ったものを見いだし衝撃的な歓喜をおぼえる」こともできる。それでよし、としようではないか。

  • たった一日のうちに、まるで水泡のように浮かんでは消えていく記憶や遠い憧れ、出会っていたかもしれない誰かとのすれ違い。そのひとつひとつが取り戻せない時間のなかにある、ということを教えてくれる小説。

  • 三浦瑠麗だったかがなにかで挙げてたので手に取った。登場人物が多く、一人称と三人称の入れ替わりの多さで読み込むにはなかなか時間がかかる。
    海外小説を読んでいると、文化の違いを感じることが多い。ちゃんと読めているようで、何も理解出来ていないような。自分の価値観がどこまで当時の思想価値観に当て嵌まるのか。流石にイギリスの当時の風習等を調べながら読む余裕は無いので、自分だけの特別な発見が見つかると良いが

  • ■一橋大学所在情報(HERMES-catalogへのリンク)
    【書籍】
    https://opac.lib.hit-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/0000146993

  • 神谷美恵子の『ヴァジニア・ウルフ研究』を読む前に、最低もう一作、ウルフの小説を読んでおきたかった。
    最初、河出書房新社の世界文学全集の『灯台へ』を読もうと思ったのだが、誰かに貸してあるようで、見つからない。
    そんな訳で、本書を手にした。/

    読み終わって驚いた。
    結末が思っていたものと違っていたのだ。
    テレビ人間の僕にはありがちなことなのだが、映画『めぐりあう時間たち』に引きずられてしまったようだ。
    同じように、映像作品だけ観て原作も読んだような気になっているものも、一つ一つ原作にあたってみなければならない。/


    ダロウェイ夫人、ピーター、セプティマス、それぞれの孤独が輪郭もくっきりと描かれている。
    こんなにも読み心地のいい「意識の流れ」があっただろうか?
    僕は、『波』よりも、こちらの方が好きかも知れない。
    別に、『波』が嫌いだという訳ではないが、こちらの方が登場人物の心に寄り添いやすいように思える。/


    また、本自体も紙の質感が柔らかくて、しっとりしていて、軽くて、手に持ったときのフィット感がたまらない。
    集英社版の単行本(丹治 愛訳、2003年)だが、残念ながら特にシリーズ作品ではないようだ。
    手が喜ぶ本というものがあるのを初めて知った。/


    話は脱線するが、先日、最後まで読むのを断念したケイト・アトキンソンの『マトリョーシカと消えた死体』と、本書の違いは何処にあるのだろうか?
    僕には、二つともよく似た文体で書かれているように思えた。
    だが、前者を読むのは苦痛に感じ、後者の文章は実に心地よく馴染んでくるのだ。
    確かに、両方とも「意識の流れ」の文体を採用しており、その方法は主要人物のみならず、周辺人物にも適用されている。
    だが、後者には主要人物と周辺人物の描き方には、明らかに濃淡が感じられる(諸々の人物たちの描写の間から、ダロウェイ夫人、セプティマスなどの焦点人物の姿がものの見事に立ち上がって来る)、一方、前者には遠近法の不在が強く印象に残った(まさに、「ブロディを探せ」状態に陥ってしまう)。
    つまり、全ての登場人物が、ほとんど同じ大きさに描かれていると感じてしまうのだ。/

    もう一つには、読む側の問題もあるだろう。
    僕は、『マトリョーシカ…』をミステリーとして読み始めたので、『失われた時を求めて』を読むとき、多くの人が冒頭のあの長々しき不眠の描写の部分で挫折してしまうように、数多の登場人物のどうでもいい心の動きの描写の洪水の中で、「失われたミステリーを求めて」立ち往生してしまったのだ。/


    《「ご覧なさいよ」と、彼女は哀願するように言った。ホームズ先生が実在するものに注意を向けさせなさい、ミュージック・ホールに連れていきなさい、クリケットをさせなさいと言っていたからだ。クリケットはとても素晴らしい野外スポーツです、とホームズ先生はおっしゃった。ご主人に最適のスポーツです、と。
    「ご覧なさいよ」と彼女はくりかえした。
    見よ、と見えざるものが彼に命じた。その声が交信しているのは、人類のなかでもっとも偉大な存在、生の世界から死の世界へ送られたばかりのセプティマス、人類社会を改新するためにやって来た主、人類社会を覆う毛布、日差し以外のなにものにも打ち負かされない雪の毛布のように横たわり、永遠に消え去ることなく永遠に苦悩するもの、贖罪の山羊、永遠の苦悩者。だけどぼくは望んでいない、永遠の苦悩、永遠の孤独なんかを。彼は手を振ってそれらを払いのけながら、うめいた。》

  • 1923年6月の瑞々しいロンドンを舞台に、様々な人々の思いが交錯する。
    若い人は今や未来に思いを馳せ、成熟した人々は過去を回想する。その甘美な青春が眩しかった。
    うつくしい小説。

  • いまいち入り込めず。

  • ひとりの女性のゆっくりと流れる一日の物語。神経の細い主人公の感覚が繊細に描かれている素晴らしい小説です。思春期の多感な時期にこの本と出会いました。今でも大切な本です。

  • 別訳で再読。

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著者プロフィール

1882年―1941年、イキリスのロンドンに生まれる。父レズリーは高名な批評家で、子ども時代から文化的な環境のもとで育つ。兄や兄の友人たちを含む「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれる文化集団の一員として青春を過ごし、グループのひとり、レナード・ウルフと結婚。30代なかばで作家デビューし、レナードと出版社「ホガース・プレス」を立ち上げ、「意識の流れ」の手法を使った作品を次々と発表していく。代表作に『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『波』など、短篇集に『月曜日か火曜日』『憑かれた家』、評論に『自分ひとりの部屋』などがある。

「2022年 『青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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