1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉前編 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101001630

作品紹介・あらすじ

青豆は「さきがけ」のリーダーが最後に口にした言葉を覚えている。「君は重い試練をくぐり抜けなくてはならない。それをくぐり抜けたとき、ものごとのあるべき姿を目にするはずだ」。彼は何かを知っていた。とても大事なことを。──暗闇の中でうごめく追跡者牛河、天吾が迷いこんだ海辺の「猫の町」、青豆が宿した小さき生命……1Q84年、混沌の世界を貫く謎は、はたして解かれるのか。

感想・レビュー・書評

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  • 〈10-12〉前編 5
    ここから、各章の語部に牛河が加わる。
    牛河が、青豆と天吾の過去を調べて、二人の繋がりをたどる。このあたりは、読者は、もうほとんど知っているのだから、ちょっと二度手間。
    青豆は、この世界に入り込んだ場所に戻るが、入り口は閉ざされている。そして、聖母の様に胎内に生命を宿す。
    天吾は、昏睡状態となった父の看護にあたる。何故か、そこで空気さなぎに入った10歳の青豆を見る。いよいよ、青豆を探し出す決心をする。
    青豆は、潜伏先の近くの公園で天吾を見つける。
    さて、二人は出会うことができるのか?主題は、何であったかもう忘れてきてしまった。
    この巻は、看護婦が天吾を誘ったり、牛河が活発になったり、猫の街が出現したり、混沌が深まった。

  • 金属バット‥‥

  • 『BOOK2』までは「1Q84」世界にある「さきがけ」や、そこにある謎としての「空気さなぎ」、「リトル・ピープル」、さらには、自分の考えに凝り固まっている人たちのキモチワルさが一見正しいことのように語られるストーリーだったが。
    そんな『1Q84』も、『BOOK3』では天吾と青豆をめぐる、たんなるラブストーリーへとなだれ込んでいく。

    ていうか、たんなるラブストーリーというより、ほぼ昔のトレンディドラマ(←死語w)だ。
    村上春樹という人は、好むと好まざるに関わらず時代から逃れられない人なんだろうなーって気がしてしょうがないんだけど、この『1Q84』という小説は90年代の「月9」とか「トレンディドラマ」と言われたあのカルチャーにもろ影響を受けているように思う。

    もちろん、村上春樹は90年代のトレンディドラマなんか見ていないだろう。
    いや、意外と見てたのかなぁーw
    ていうのは、ソニーの元CEOの平井一夫氏は現在63歳らしいのだが、テレビドラマの1回目だけは見て、これはOK、これは見ないと決めているってことなんだけど。
    それは、平井氏いわく、ドラマというのは今の社会をトピック的に反映しているところがあるから、それをみることで、「なるほど。こういう考え方が今あるんだ」とか、「こういう風に描写されるんだ」という風に見て、ワクワク楽しんでいるらしいのだ。
    今のドラマなんて、自分は全く見る気がしないんだけどw
    でも、本当に優秀な人っていうのは、むしろ、そんな風に世の中のことを広い視野で許容力を持って見ているものなんじゃないだろうか。
    そう考えると、村上春樹が90年代にトレンディドラマを見ていても全然おかしくはないように思うのだ。
    もっとも、村上春樹という人はカッコつけの権化みたいな人だから。
    トレンディドラマを見ていたなんて、口が裂けても言わないだろうけどさ(爆)

    ま、それはそれとして。
    村上春樹が90年代のトレンディドラマを見ていないにせよ、見たにせよ、著者は時代の影響を無意識に受けてしまうタイプだから。90年代に放送され、多くの人が見ていた数々のトレンディドラマによってつくりだされた時代の空気を吸うことによって、『1Q84』はこういうストーリーになったんじゃないかな?
    そういう意味で、この『1Q84』という小説は、90年代というリトルピープルによってつくられた空気さなぎと言えるのかもしれない。


    そんな『BOOKS3』だが、『BOOKS2:後編』から★を2つ増やしたのは、たんなるラブストーリーとして読むならば、これはこれで面白く読めると思ったからだ(^^ゞ
    あと、『BOOK3』は牛河のパートが入ることで、他の主要登場人物のように何かを信じすぎている、言わば「1Q84世界」に染まっていない普通の人の視点が入るようになったことで、ストーリーがどこか風通しよくなった気がするのもよかったように思う。
    牛河は、天吾や青豆のように自分の考えに凝り固まっていないから、読者もその後のストーリーをいろいろ想像できるのだ。

    「猫の町」のエピソードが、やっぱりいい。
    設定では「猫の町」=「1Q84世界」ということになっているのだけれど、そもそも「猫の町」は「1Q84世界」でのストーリーに出てくる千倉のことだ。
    でも、「1Q84世界」に迷い込んだ青豆は高円寺で天吾と再会することになるのだから、天吾の住む高円寺も「1Q84世界」ということになる。
    なのに千倉が「猫の町(=1Q84世界)」という異空間のように語られるのは、そこに天吾の出生の秘密(天吾の本当の両親は誰?)を知っているらしい天吾の父親がいるからだろう。
    天吾は、子供の時、集金を容易にする目的で毎週末に連れて歩かされたことで父親を嫌っていて、また、それが原因である時から関係を絶っている。
    さらに、父親は認知症で施設にいる。
    普通、人は(それが親であろうと)そんなところに行きたくはない。
    出来ることなら、行きたくないところには、ずっと行かないで済ませたいのが人情だ。

    つまり。
    他の村上春樹の小説に出てくる、主人公に都合のいいことだけを言ってくれる女性と同じ存在である、ふかえりは、だからこそ、父親のいる千倉を「1Q84世界」だ(ふかえりがどういう言葉でそれを表現したのかは忘れたw)、としたんじゃないだろうか?
    そう考えると、父親のいる千倉は「1Q84世界」というよりは、天吾が地に足の着いた生活(=普通の大人として生きること)をしなきゃならない世界を象徴しているんじゃないかって気がするんだよね。
    だからこそ、天吾は千倉に行きたくなくて、今まで足を向けなかった。

    でも、大人になることなんて、別に大したことじゃない。
    大人になることなんて、誰だって出来る。
    だって、なるしかないんだもん(^^ゞ
    大人って、なってみればわかるけど、意外と子供の時より楽だったりする(爆)
    もちろん、社会的にもプライベートでも義務や責任が課されるから大変は大変だけど、でも、その人それぞれの身の丈にあった楽しみや幸せもあるわけだ。
    つまり、それを象徴するのが安達クミという、ラブストーリーのヒロインなんかじゃないごくごく普通の女性ということなんだろう。
    その安達クミは、天吾にこう言う。
    「たまにはそういうのも人間には必要なんだよ。
     おいしいものをたらふく食べて、お酒を飲んで、大きな声で歌を歌って、
     他愛のないおしゃべりをして。
     でもさ、天吾くんにもそういうことってあるのかな。
     アタマを思いっきり発散するようなことって」と。

    でも、そんな安達クミは、ずっと認知症の父親に会いに来なかった天吾に対して最初は素っ気ない態度だった。
    つまり、最初、安達クミは、村上春樹の小説によく出てくる、主人公の男に都合のいいことだけを言ってくれる女性キャラクターではなかった。
    そんな安達クミが、天吾にそんなことを言うくらい親しみを感じるようになったのは、天吾が普通の人と同じように父親に向き合ったからだ。
    天吾のことを、普通のまっとうな大人の男だと認めたからこそ、天吾に好意を持ったわけだ。
    さらに言えば、安達クミの同僚の看護師たちも同じように思ったからこそ、一緒に焼き肉を食べて、その後は自然に天吾と安達クミが二人きりになるように仕向けたわけだ。

    そんな安達クミも、小説「空気さなぎ」を読んでいる。
    でも、“人の精神を芯から静かに蝕んでいく”と感じた青豆と違って、安達クミはそれを、「私はね、あの本がすごおく好きなの。夏に買って三回も読んだよ。私が三回も読み直す本なんてまったく珍しいんだよ」と言う。
    しかも、
    「初めてハッシシやりながら思ったのは、なんか空気さなぎの中に入ったみたいだなってこと。自分が何かに包まれて誕生を待っている”、“私にはマザが見える。空気さなぎは中から外側をある程度見ることができるの。外側から中は見えないんだけどね。そういう仕組みになっているらしいんだ。でもマザの顔つきまではわからない。輪郭がぼんやり見えるだけ。でもそれがわたしのマザだってことはわかる。はっきりと感じるんだ」
    と、それに対して全然ポジティブだ。
    (安達クミの口調が他の村上春樹の小説に出てくる主要女性登場人物のそれでなく、今の普通の女性の口調に近いのはどういう意図があるんだろう?)

    たぶん、それは「さきがけ」のリーダーが青豆に言った、
    「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めていない。真実というのは大方の場合(中略)強い痛みを伴うものだ。(中略)人々が必要としているのは、(中略)美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」
    「多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することでかろうじて正気を保っている」
    ということに通ずるのだろう。
    安達クミが「あの本がすごおく好きなの」と言うも、小松が「芥川賞なんて必要ない」というくらい売れている(世間に受け入れられている)のも、小説「空気さなぎ」という本が、“人々が必要とする美しく心地良いお話”で、“多くの人々が、(それによって)自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定ししてくれることで正気を保てる”からだということになる(…って、なんだか、まるで村上春樹の小説のようだw) 。


    そんな小説「空気さなぎ」は、果たして悪しき本なのか?
    青豆が感じたように、“人の精神を芯から静かに蝕んでいく”内容なのか?
    たぶん、それは青豆の感じたことが「正解」なのだろう。
    でも、青豆の感じたことが「正解」だとしても、安達クミをはじめ、小説「空気さなぎ」に飛びついた人たち、つまり、自分たちのような普通の人たちは、その「正解」では生きていけない。
    なぜなら、
    「真実というのは大方の場合(中略)強い痛みを伴うものだ。(中略)人々が必要としているのは、(中略)美しく心地良いお話」であり、「多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することでかろうじて正気を保っている」からだ。
    だからこそ、いつの世にも「宗教は成立する」し。テレビやマスコミ、ネットは人々に耳障りのいいことだけ囁き、映画やドラマ、小説はきれいな話ばかりなんだろう。

    つまり、小説「空気さなぎ」は、どこにでもいる普通の人である安達クミが「あの本がすごおく好きなの」と言うからこそ、あるいは、芥川賞なんていらないくらい売れているからこそ、“人の精神を芯から静かに蝕んでいく”悪しき本だということになる。
    よって、この『1Q84』という小説も、特別な存在である主人公たちが結ばれる、たんなるきれいなラブストーリになって、ベストセラーになった(^^)/

    いや。たんなるラブストーリーとして読んじゃうならば、『1Q84』は決してつまらない話ではない。
    むしろ、読むことを楽しく受け入れることが出来る、かなり面白い小説だ。
    だからこそ、それは青豆や天吾のように特別な人ではない自分のような普通の人は心の糧としてそれを求めるということなんじゃないだろうか?

    たださ。
    ラブストーリーの主人公として、ラストにきれいに結ばれる天吾と青豆がミョーに変な人なんだよねw
    天吾ときたら、”勃起は完璧だった”、“あの雷雨の夜の勃起が完全すぎた”、“それはいつもよりずっと硬く、ずっと大きな勃起だった”って、自分のソレに魅入られているばかりだし(ーー;)
    青豆は青豆で、“もし私が性行為抜きで妊娠したのだとしたら、その相手が天吾以外のいったい誰であり得るだろう?”だ┐(´д`)┌
    もはや、この二人は小説の主人公としては画期的と言っていいくらいの変な人キャラなのだ。
    読者としては、
    オマエらって、この小説の主人公とヒロインなんだぞ。少しは、そういう自覚を持てよ! とツッコミたくなるっていうかー。
    オマエら。いい加減オトナになれっ!って話だ(爆)


    とはいうものの、主人公が大人になっちゃったら、お話は終わりだし。
    なにより、村上春樹の小説に、大人の男の主人公は求められていないってことなのだろう(^^ゞ
    それは、まさに「さきがけ」のリーダーの言う、
    「人々が必要としているのは、(中略)美しく心地良いお話」であり、「多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することでかろうじて正気を保っている」ということなのだ。

    そういえば、こんなこと書いている自分も「BOOK3:後編」のラストのなんともおめでたい展開に吹き出しながらも、「まぁー、よかった、よかった。めでたし、めでたし。アハハ」と心の中で拍手することで、かろうじて正気を保ったんだっけ(爆)

  • 全部で6冊あるうちの5冊目。
    391ページ。先が気になる度★4。

    色々な展開をすんなり受け入れてしまっている。
    5冊読んできて世界観ができあがっているからだろう。
    私はSFが好きではないが、この世界観は好きだ。

    あと1冊しかないのに物語は完結するのか。
    完結するのは確定しているけど、どうなるのか全然予想できない。
    すごく楽しみ。

  • 圧倒的な牛河巻。見た目こそ醜悪だがプロの仕事をする的な人物好きすぎるだろ村上春樹。「これが振り出しに戻るということなのか?多分そういうことなのだろう。これ以上失うべきものは何もない。自分の命のほかには。とてもわかりやすい。暗闇の中で牛河は薄い刃物のような笑みを浮かべた」このシーンにシビれた。牛河が牛河たりえるには容貌の醜さを受け入れるしかなかった。というよりむしろ牛河をここまで懐疑的な思索者に押し上げたのは彼の容貌の醜さそのもの。理詰めでソリッドな証拠を足で集める。そう言った泥臭い作業に裏打ちされたある種天才的な嗅覚。天吾の監視を通じて、牛河はどんな事実をもぎ取ることができるのか。続きが気になる。

    終盤の老婦人が青豆に老いについて語るシーンが印象的。「しかし歳月はすべての人間から平等に少しずつ命を奪っていきます。人は時期が来て死ぬのではありません。内側から徐々に死んでいき、やがて最終的な決済の期日を迎えるのです。誰もそこから逃れることはできません。人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。」
    やっぱり死は生の対極としてではなくその一部として存在しているんですね。

  • 深まる深まる。物語がすすむにつれて、文体が心地よくなってくる。
    ここにきて視点となる者が増えて、サスペンスドラマ感が増す。
    主体の2人に対して、ある種の対義語として客体と呼んでみるが、ともかく外からの視点が今後どのように作用していくのだろうか。
    面白い点はこの1Q84年という場(時と場を要素にもつ空間)において、2つの月に端的に表される舞台の変化(それはとてもシームレスに行われているので、作中の主要人物である2人を含め我々読者もまったく継ぎ目がわかっていない)は、主体の2人のみが知覚するところであり、その知覚するものとしての主体(いわば認識とのずれ)が織り成す不可思議な物語であった本作が、客体の主人公があらわれたことで世界が確定した感があるということだ。これにより1984年は確かにあの高速で青豆が聞いたシンフォニエッタをきっかけにして1Q84年に移行し、元の次元からは切り離されたことがわかってくる。同様に客体にとってはやはりなんの違和感もなく別の世界に移行がなされていることもわかる。

    ともあれ物語は深まり、佳境を向かえてきた。
    それぞれの物語(主体の2人だけでなく、登場人物の全員にとっての物語を指す)がどのような終息あるいは収束を向かえるのか期待が高まる。

  • いろんな物事は、人の内側で変化するもの。
    結末がとても気になる。

  • 牛河のパートがここにきて加わる。
    BOOK1,2のような感じとは変わって進み方が変わった。どちらかといえば丁寧に今までの出来事をちゃんと振り返って、これから何が起こるのか起ころうとしているのかという感じ。それを楽しみにBOOK3後半に行こうと思う。

  • やっぱり面白い。ここまで長いのに読ませる技術は流石…

  • この巻から、前回登場していた牛河も視点として語られるようになった。

    牛河もまた事情があって孤独を抱える人間だった。
    この視点として語られる3人の孤独には意味があるんだろうか。

    いよいよ次が最終巻。
    この物語はどんな結末を迎えるのだろう。
    読みたいような。読みたくないような。

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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