燃えあがる緑の木〈第2部〉揺れ動く(ヴァシレーション) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (361ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101126197

作品紹介・あらすじ

村人やジャーナリズムの攻撃がつづく一方、教会では、活気あふれる伊能三兄弟や、改悛したかつての糾弾者など、賛同者が次第に増えていった。一同が展望を語り合う喜びに満ちたひととき、イェーツの詩句が響き渡る。そして再び起きた奇蹟-。しかしギー兄さんの父「総領事」が突然の死を遂げ、新築なった礼拝堂で葬儀が行われた。魂の壮大な葛藤劇、いよいよ佳境に。

感想・レビュー・書評

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  • 第一部に生き続き、イェーツの”Vacillation”という詩を原動力として物語の登場人物たちが活き活きと動き回るわけです。
    しかし、第二部を経て、イェーツの独特なオカルティズム(神秘主義)から紡ぎ出されたこの詩が、徐々に僕の中で確かな質量を持ち始め、実際的になってきているのを感じます。
    最終章でアサの言葉で同じようなことを語られていますが、同じ“魂のこと”に取り組んだ「懐かしい年への手紙」では、取り組み方が知的で、ある程度机上の空論だったのに対し、本作はよりプラクティカルに“魂”に肉薄しているように思います。

    さて、主に第二章「中心の空洞」、第三章「正直いって神はあるんですか?」では、大江が唱えてきた「信仰を持たない者の祈り」がどういう祈りであるか、いったい何に祈っているのか、解き明かそうとする試みが行われています。
    第三章には、大江と同じく信仰を持たない僕が、これからの人生で“祈る”際に必ず想起するであろう一つの印象深い比喩が、ギー兄さんによって紐解かれます。その場面を以下に引用します。

    ——神という言葉を自分たちで定義することを恐がっていながら、しかもその周りを、尻尾に糸を結えられたトンボのように、グルグル廻りしているんじゃないですか?

    ——そうだね、糸の先のトンボのように、というたとえは実感があるなあ。
    (中略)自分がそこから逃れようとグルグル廻っている中心に、ほかならぬ神がいるように思えることもあるし、廻れば廻るほど神の不在を確かめているように感じることもあるものね。
    (中略)糸に結えられたトンボから逆転して、こちら側から、そのグルグル廻りの中心を囲い込んでいく。それがわれわれの祈りの、いまのところ唯一可能な実体かも知れない。

  • 神がいないとなれば、自分らに先のかたちの確かめ方はある 現にいま生きているということには強い要素がある
    強い不幸と受け止めることもある

    先のかたちの定まらぬ不安は避けられない
    ついグルグル廻りしてしまいながら、われわれは手さぐりを始めるのじゃないか//

    私たちは今 まさに 手さぐりをしている最中なのでは?

    第1章でよく分からなかったことが第2章ではっきりして、第3章で全てが明確になるのではないか と期待 信じることとは何か


  • 何か頼み事をするときにメイスケさんが持ち出されるのは構わない。だけど各々が体験する「一瞬よりはいくらか長いあいだ」を名付けることはできまいと私は思う。だけどイェイツの言葉の頻繁な引用、パンフレットに聖書と、ついには祈りの言葉が生まれそうになる、という「教会」が確固としたものになっていく、すべてに名前が付けられて儀式化して行く過程が私には非常に胸苦しい。教会を通じた集団的陶酔が劣るとは言えないとしても…この瞬間の体験は名付けられてはいけない、宗教化してはいけない…。3部まだ読んでないからハラハラしてる。

  • 大江健三郎 「 燃えあがる緑の木 」
    2部 揺れ動く(ヴァシレーション)

    2部は 宗教集団が イェーツの詩の世界観の象徴である「燃えあがる緑の木」のもとに集い、祈りの意味を見出す までの歩みを描いている

    登場人物が増えていくが、それぞれの人物の役割設定は明確。著者自身もK伯父として 息子ヒカル氏とともに登場し、自身の文学テーマとの関係性を明示している

    著者が伝えたかったのは「その場所で 時が循環し、死者と共に生きることにより、人間が続き、物語が作られる」だと思う

    祈りの意味
    神がいない教会が 中心が空洞な繭のような存在であっても、繭に向けて集中するだけで、充実した生き方をしていることになる。中心を囲い込んでいくことが、われわれの祈りの唯一可能な実体

    祈りの言葉「ただひとつの今の中に魂の日は生じる」


    イェーツの世界観
    *心は いつも動いている
    *一人の心には多数の心が流入してくる〜個の記憶は大きい記憶の一部
    *大いなる心と大いなる記憶は 象徴によって喚起される


  •  治癒能力の欠如でインチキ扱いされたところから再興する新興宗教の話。文体の独特さは慣れるとクセになる感じで読みにくさも全くないし、それよりも物語がグイグイとドライブしていくところに惹きつけられた。
     とくに教祖であるギー兄さんの父親である死期間近な総領事、ギー兄さんの糺弾者だったものの、心を変えて信仰し始めた亀井。この2人のおじさんの立ち振る舞いがオモシロい。それは2人が宗教に対して懐疑的なスタンスから、どっぷりハマるところまで駆け抜けて行くから。
    日本人の宗教との距離感を前提にしているので、これなら信仰するかもしれないという納得できる雰囲気があるからこそ説得力があった。お祈りのことを「集中」と呼び、偶像崇拝ではなく祈りの言葉がなかったり。
     そこそこfeelするなーと思ったところで、ある人から指摘される中心の空洞、究極的な責任者の不在=天皇制だよねという議論が展開。社会において、いつも責任者が不在となるのは、天皇制に端を発するとも読みとれるような内容でスリリング。そもそも神様って必要なんだっけ、勝手に出てくるだろ、わざわざ空洞を埋めなくていい。というのも日本ぽい。
     アイルランドの詩人イェーツを多く引用し、彼の言葉が思想のベースになっていく過程がオモシロかった。とくにサブタイトルにもなっている” vacillation ”2つの極値を揺れ動いて生きていくのが人生、という解釈のあたりはグレイが許されない白黒社会を生き抜いていく上では役に立つ思想なのかもしれない。揺れているからこそ人間だ。

  • 第1部で動き出した壮大な物語が、ここ第2部では”静”の様相を帯びる。内部に沈静化された魂の物語となっていくのだ。中期以降の大江の作品では作家自身が物語の語り手となっていたのだが、この3部作では、サッチャンが語り手となり、大江自身はK伯父さんとして客体化されて語られている。そうした「話法」の転換も、一層この物語の立体的な構造化に成功をもたらしているようだ。主題は、ますます「魂のこと」へと急傾斜してゆくが、この第2部の最終章は不穏な気配のままに終息する。この後に語られるのは、はたして恩寵の物語なのか。

  • 第3部に続きます。
    まだ感想は書けない。

    12.06.14

  • イェーツの詩をはじめ引用が多い。イェーツの詩や教会や魂のことを巡る対話が多々出てくる。宗教色が濃くはあるし引用される詩なども理解できているわけではないのだけど、物語世界に引き込まれるようにして読んだ。

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著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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