- Amazon.co.jp ・本 (550ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101134178
感想・レビュー・書評
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(01)
普通には時代小説として読まれるだろう。また、文庫版の奥野健男の解説にあるようにビルドゥングスとして、また現代的にはサクセスのコツを含むビジネス小説として読まれるのかもしれない。
しかし、本書は文体論としても問題的なあり方をしており、驚きをもって読まれる。例えば、時系列あるいは空間系列に従うシークエンシャルな文脈の流れにあって、文脈から離れた回想や記憶の手がかりが、けっこう生々しい(*02)タイミングで突然に、普通のコンテクストからゆうとありえない角度からぶっこまれてる。こうした違和感のある文体、いってみればアバンギャルドな文体について、現代文学史の中では、川端康成の意想と比較しても面白いと思われる。
(02)
生々しさという形容から類推すれば、藩政時代の武家のエロスを会員制クラブあるいは秘密結社さながらの、魔窟な方面から描いてしまう件についても寡聞にしてちょっと知らない。戦国時代の女忍者や、中世の貴族、近世の町民や庶民(*03)といった典型ならあるあるなパターンであるが、そうではない時代と階級のエロスを描いている。主人公の夫婦関係や性愛のあり方についても異数(*04)といえるだろう。
(03)
匿名と顕名のありかたにも独特の徹底ぶりが発揮されている。つまり、名のない者が出てこないことの煩雑さのうちに物語が紡がれている。植物学の牧野富太郎が著者に範を垂れた雑木(*05)の有名性については有名なエピソードなのだろうか、本書での人名に対する偏執ぶりもかなり異様な部類に入るだろう。
この煩雑な顕名性は著者のポリフォニカルな語り口との関連で読まれてよいだろう。数章の並びの中に挟まれる断章あるいは幕間劇についても、脚本の柱のように立てられたシーンの下に繰り広げられる対話という構成は、神話的な情景すら帯びさせるにいたっている。
(04)
地の文にも面白味があって、普通の文体であれば、主人公が、云々と思った、何々と考えた、という構文なるところを、本書の場合、鉤括弧を付けない地の文で、科白のように言いかけて、やっぱり止めた、みたいな寸止め口調として現れている。科白にもなっていない、地の文にした主人公の思いでもない、宙吊りともいえるような、言いかけでやっぱり思いとどまってしまうこの寸止めな言葉については、近代私小説を解く鍵のひとつとなるだろう。
ちなみにこの寸止め感が主人公夫婦の寸止めな営みに通じることは言うまでもない。
(05)
植生を含む地勢という歴史地理の問題も含まれている。坂を呈示する標題からして地形地勢的であるが、橋、水路、山林、くぬぎの雑木を植栽した屋敷の趣味なども興味深い。エピローグとみなされる章で主人公はこれまで認識の外にあった緩い勾配に衝撃される。この一点をもってしても衝撃的な小説である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読み始めは、とにかく「うわー、長そう。読みずらいし、人物掴めねぇーよ」と毎回、山本周五郎の長編に手を出すたびに思うんだが、これも同様。序盤、流れに乗るまでは正直きつかった。
でもね、一度、主水正に感情移入(しにくいけど)した時点から、展開にスイスイ付いていけた。どっちかとゆーと、冗長な流れなんだが、話の中心に、一本の骨太な筋が通ってるあたりが凄い。
たんなる立身出世物語じゃなくて、一国を動かすマツリゴトとは斯く在るべし、といった忍耐と信念を感じさせる。
読後は一時的に信念の人と自己変革をもたらす。三日で元に戻ったがな。
心に残る作品だけど、まとまった時間がないと読みにくいので、どちらかとゆーと、周五郎のほかの人情系短編のほうが好みかも。
でも最後の登城のシーンはね、コイツはくるぜ?ジーンとね。 -
山本周五郎の長篇時代小説『ながい坂〈上〉〈下〉』を読みました。
『寝ぼけ署長』、『五瓣の椿』、『赤ひげ診療譚』、『おさん』に続き、山本周五郎の作品です。
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〈上〉
人生は、長い坂。
重い荷を背負って、一歩一歩、しっかりと確かめながら上るのだ。
徒士組の子に生まれた阿部小三郎は、幼少期に身分の差ゆえに受けた屈辱に深い憤りを覚え、人間として目覚める。その口惜しさをバネに文武に励み成長した小三郎は、名を三浦主水正と改め、藩中でも異例の抜擢を受ける。
藩主・飛騨守昌治が計画した大堰堤工事の責任者として、主水正は様々な妨害にも屈せず完成を目指し邁進する。
〈下〉
人間は善悪を同時に持っている。
一人の男の孤独で厳しい半生を描く周五郎文学の到達点。
突然の堰堤工事の中止。
城代家老の交代。
三浦主水正の命を狙う刺客。
その背後には藩主継承をめぐる陰謀が蠢いていた。
だが主水正は艱難に耐え藩政改革を進める。
身分で人が差別される不条理を二度と起こさぬために――。
重い荷を背負い長い坂を上り続ける、それが人生。
一人の男の孤独で厳しい半生を描く周五郎文学の到達点。
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新潮社から発行されている週刊誌『週刊新潮』に1964年(昭和39年)6月から1966年(昭和41年)1月に連載された作品… 山本周五郎の作品の中で『樅ノ木は残った』に次いで2番目に長い作品です。
憎む者は憎め、俺は俺の道を歩いてやる… 徒士組という下級武士の子に生まれた阿部小三郎は、8歳の時に偶然経験した屈辱的な事件に深く憤り、人間として目ざめる、、、
学問と武芸にはげむことでその屈辱をはねかえそうとした小三郎は、成長して名を三浦主水正(もんどのしょう)と改め、藩中でも異例の抜擢をうける… 若き主君、飛騨守昌治が計画した大堰堤工事の責任者として、主水正は、さまざまな妨害にもめげず、工事の完成をめざす。
身分の違いがなんだ、俺もお前も、同じ人間だ… 異例の出世をした主水正に対する藩内の風当たりは強く、心血をそそいだ堰堤工事は中止されてしまうが、それが実は、藩主継承をめぐる争いに根ざしたものであることを知る、、、
“人生"というながい坂を人間らしさを求めて、苦しみながらも一歩一歩踏みしめていく一人の男の孤独で厳しい半生を描いた山本周五郎の最後の長編小説。
下級武士の子に生まれた小三郎が、学問や武道等の実力や努力、そして強靭な克己心により困難を乗り越えて立身出世する展開… 上下巻で1,100ページ余りのボリュームですが、意外とサクサク読めました、、、
自ら求め選んだ道が現在の自分の立場を招く… 善意と悪意、潔癖と汚濁、勇気と臆病、貞節と不貞、その他もろもろ相反するものの総合が人間の実体、世の中はそういう人間の離合相剋によって動いてゆくもので、眼の前の状態だけで善悪の判断はできない… 江戸自体が舞台の物語ですが、現代の自分たちの生き方にも示唆を与えてくれる物語でした。
生き方や働き方について考えさせられましたね… 山本周五郎の人生観・哲学などが感じられる作品でした。 -
大昔に読んだんでしょうが、毎度の如く全く記憶になく。
厚い本ですがほとんど気にならない。登場人物全員に何か陰があって人間を描いているんだなと。まぁ現実社会でもそうです、疵がない人物はいない訳でして。
でもこの作家にはそれを認めつつ前に進まないといけない、誰もが生活していかないといけない、という単純な事実に対する強い決意を感じます。
例えば太宰とかにはこの手の感触を感じず、それはあくまで個人的な志向の問題になるのでしょうけれども、当方は間違いなくこの作家の態度に寄り添いたいかと。 -
人はときに、いつも自分の好むようには生きられない、ときには自分の望ましくないことにも全力を尽くさなくてはならないこともある。生き方に共感出来る。
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身分の低い家に生まれた阿部小三郎はある日今まで通行に使用していた橋が上士により破壊されてしまった姿を目にする。それでも何も言わず何も無かったかのようにそこを迂回する父の姿に成り上がりに心を燃やすのであった。。。
時代小説でありながら現代にも通ずるものを感じる作品でした。
一度読み始めたらなかなか読むことを止めることができず、一気に読み通してしまいました。 -
読了。レビューは最終巻で。