- Amazon.co.jp ・本 (258ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101183015
感想・レビュー・書評
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独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。
著者である高野さんは、このタイトルにもなった胸がつまる様な言葉を含めた、中学生から書き続けた
日記を残し、二十歳で鉄道自殺をされました。
学生紛争については、経験のない世代ですので、当時の状況を私は、理解できていないと思います。
ただ、自分が二十歳の頃にタイトルに惹かれて、手にとりました。彼女ほど、深い自己否定もなく、行動力もありませんでしたが、大人になりかけの、不自由さに共感する部分もありました。彼女は可愛く賢く、素敵なご家族もいました。それでも、最後の日記の翌日、鉄道自殺に及ぶのです。
再読して、本棚登録をして、新しい登録がたくさんあり、とても驚きました。皆さん、当時との状況は違っても、二十歳の葛藤を読み継いでいました。
二十歳は、誰も独りを思い未熟なのです。既に、親目線でしか読めませんが、決して独りでは無い事は忘れないで欲しいなと思います。
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彼女はこの日記が出版されいわゆる「名が知られた存在」になった。でも(闘争以外は)同年齢の私と同じところがいくつかあったので、読んでいるうちに彼女が自分の友達みたいな存在になっていった。だからこそ最後の詩を読むのが辛かった。
なぜ彼女が自殺を選んだのか、要因はいくつか考えられると思う。でも考えること自体ナンセンスなのではないかと思う。
ちなみに、読む時は物理的に独りで、できれば個室にいる時がおすすめ。 -
(自分のことについて色々書いちゃったの本当に失礼しました。場違いだと分かっていますがすみません…この人惨めだな、くだらないなと思われても書きたかったのです…)
自分にとっては日本人の書いた本を本気で読み始める原点となった本です。
元彼に別れの話を切り出されて一、二日間が経った日に、偶然とウェブで紹介文を見かけた。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。」この言葉に引き付けられない人は多分いないと思いますが…
恋について、人間について、「自分」について…
代弁してくれているような本なのです
今までぼんやりとしていた気持ちや考えも、行き先というか取り付けられる器というか、を得た。それが高野悦子さんのが書いた言葉なのです。
でもね、自分は日本語が本当に下手なんですから…高野悦子さんが書いたことを全部誤解していたとか、自分がただ勝手な思い込みをしていただけなんだとか、高野悦子さんのこと自分全然理解できない、社会背景も全然違うからとか…ちょっとこういう考え方をしたら虚しくなるのです…自分にとって何が真実なのだろう。手にしっかり掴んでいるものは本当にあるのだろうか。
現実と、家族と、自分と決別したかったのです。母と父は高校の頃から私のことヒネクレ者だと思っていたのかもしれない…双子の姉ともだんだん心が通じなくなった…そして自分に矛盾と嘘しかない…
燃え尽くしてこの世から消えたかった…
…でも自分は弱かった、今も精神が弱すぎ。
↑自分を否定することでみんなから許してもらいたのか?同情されたいのか?
元彼が曰く、私の悲観に何もない、私が物事の本質をちっとも見抜いていない。私の考えがくだらないつまらない…でも元彼はすごい人なんだ。元彼のことを考えるとどこか劣等感が込み上げちゃうほど元彼は自分にとって理想な人間だった。
めちゃくちゃな日本語で何を言いたいのか…
誰か教えて、物事の本質を、真実を。
こんな図々しいお願いをしている自分本当もう終わりだw
…この本との出会い、感謝しています。 -
もうこれまでに3回は読んでいるだろうか。
読むたびにレビューを書こうとして、しかしこの気持ちをどう表現すべきなのか
わからずに書くことを断念して、を繰り返して4回目の再読となる。
確か、初読は19歳のころ。そのころのわたしも日記帳にガリガリと
長い長い日記を書いていたのをぼんやりと覚えている。
23歳になるときを控えつつあるわたしには
過去に覚えたような衝撃を、この本からは受けられなかった。
簡単に言ってしまえばこれは、理想の高すぎるひとりの女子大生が
恋愛では男に遊ばれ、学生運動に曖昧な自己の輪郭を求めるがうまくいかず
絶望して自殺に至った日々を記した文章でしかない。
「メンタルヘルスブログ」のような公に向けられた文章ではないから
他者から読むと、心理描写やことがらの繋がりが粗い手記でしかない。
しかし、それでもこの日記が素晴らしいのは
完全にプライヴェートなものでありながらも、他者の目を意識しているかのように
内言が省かれずに正確に描かれている点にある。
できごとは、細かく書かれていない。唐突に指をカミソリで切ったりする。
つまり不可解なことは多い。
それでも、この文章からわたしたちがある感銘を受けるのは
そのときの気持ちをできる限り克明に記そうと彼女が努力しているからだ。
それは完全に自己のためであるが、その内容が――彼女にとっては不本意だろうが――
普遍的なものであったからだろう。
もうこの文章に自分を重ねて浸れるほどにはわたしは若くないし
ある一定の層にしかガツンと響くものはないというのはわかるから
星は3つにするけれど、きっとまた読み返すのだろうなと思う。
きっと彼女は、純粋すぎたのだろう。 -
もし今も彼女が生きていたら、
普通に就職・結婚し、子どもをもうけ、
「ウフフ、若かったわね」なんて笑うだろうか。
死を選ばなかった、同年代の人たちのように。
甘すぎたのか、あるいは厳しすぎたのか。
幼稚だったのか、あるいは大人すぎたのか。
読むたびに相反する感想を持ってしまう。
ただ、私が二十歳の頃はここまで悩み多くなかった。 -
あまりに切実だった。
純粋な少女にとって、上洛後目の当たりにした世間、大学、時代は余りに圧倒的であったに違いない。
唐突に現れた抱えきれぬような社会の多様性、そして必死に"自由・平等・真理"を求めつつも画一的な"実力排除・闘争"に教義を求めてしまう学生運動。
高野さんはこれらに違和感を抱きながらも、ひたむきに自己を見出そうともがいていた。
自分探しにおける彼女のアプローチは、自身も社会の中の1人として生きているという前提を失っているように思える(自覚しようと試みるものの自覚しきれていない)。自己は世界の全てから断絶された場所に存在する丸裸の自分であるといった前提が自ずからあり、その前提に基づいて自己の"定義化"をしようとした。
しかし世界からの断絶を前提とすれば、孤独は避けられない。視野狭窄に陥り、なおのこと自身をちっぽけな存在としか感ぜられなくなっていったのではないか。
屈折した孤独と思春期の性欲はベターハーフ論的幻想を生み出し、恋人というよりは自分を包容してくれるsomeoneへの欲求に繋がる。しかし、その思いは結ばれることはない。
さらに曖昧で崇高な理想は、その理想を達成できない自分という結果を招き、余計に苦しみはひどくなる。
その脆さの中、ふと覗く詩は美しい。
これこそが彼女の自我だろう。特に自然への感性は素晴らしく、こんなに清冽で素直な彼女の一面を彼女に愛してほしかった。
山が好きで音楽が好きで喫茶が好きなカッコちゃんも、自己の確立に悩む高野悦子もすべて、全て彼女なのである。そう気付き、someoneにではなく彼女自身に彼女をembraceして欲しかった。
さて、フォーマットが日記であることを除いても、彼女の文章はあまりに正直でリアルだ。己の未熟さをどう受け止めればよいかわからず、ひたすら現状への不満と焦燥を抱え、折合いの付け方も知らない。見つけ方も分からない。
すべてが悲しかった頃の自分の写し鏡のようだった。(このように感じた人も多いのではないか?)
だからこそ、読み継がれるのだろう。
私もあの頃の自分に、自分を愛せよと言ってやりたい。(自分を愛さずして他人を愛すことなどできない)
ちなみに最近は多少諦め方を覚えたものの、未だに人生との折合いの付け方は模索中である。 -
他人の日記を盗み見ている感覚にもなりました。
時代と言った一言で片付けてしまうには、あまりにもたくさんあるのですが、学生運動やストライキと今では想像でしかない現象があったのですね。
高野さんはとても頭の良い方で色々な言葉や表現を持ち合わせたいたようです。
終焉は疎外感と抑鬱でしょうか。
寄り添って耳を傾けて下さる方もいらしたでしょうに、残念な最後になられたようで読み終わった今も何かくすぐったい感覚が抜けません。
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関川夏央の「昭和時代回想」に高野悦子のことが書かれている。
以下引用。
「日記をつぶさに読めばわかるが、高野悦子は素直さ、明るさ、真面目さを併せ持った人である。いい職業人、いい奥さん、いい母親になれた人である。ただ野太さという資質、またはなにごとにつけ四捨五入ですませられる生活者の融通のみが欠けた彼女を、意味なく悩ませ焦燥させ、ついに死を選ばせたものは、六十年代後半という時代の空気に底流した軽薄な悪意である。かん高い「連帯」のかけ声こそ誠実と純粋を信じた若い女性にいたむべく孤絶をよびこみ、「性の解放」はどこにも達し得ない新たな迷路を出現させただけだったのである。」
高野悦子が亡くなったのは、1969年、20歳の時だった。関川夏央も、1969年に20歳だった。
それよりも10歳若い私には、その当時の時代の空気が分からないけれども、関川夏央が書いていることが的を得ているとすれば、すなわち、高野悦子が死を選んだ理由の1つが「時代の空気に底流した軽薄な悪意」であるとすれば、なんとも痛ましいことだ。
■2021年7月追記
思い立って再読。最初の感想を書いたのが2016年なので、約5年ぶりの再読。
再読してみて、上記に引用した関川夏央が書いた高野悦子評がすごく的を得ているのではないかと、あらためて感じた。
「時代の空気に底流した軽薄な悪意」が、高野悦子を、あるいは、当時の何人もいたはずの他の高野悦子を、「意味なく悩ませ憔悴させ」たのである。
痛ましいのは、「意味なく」の部分だ。日記が書かれたのが、1969年の1月から6月の間のこと。日記の途中から、聞き齧りの左翼用語や学生運動用語が頻出するようになる。彼女が内容をきちんと理解して書いているとは思えないが、そういった風に考えることを時代から要求されていたのだと、ある種の純粋な、高野悦子のような女子学生は感じたのであろう。しかし、当時の左翼運動は、どこにも行き着かなかった訳で、結局は、そのように感じたことに意味がなかったということであり、そこに痛ましさを感じざるを得ない。
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大人となった私たちには二十歳の頃がありました。
それはひとつとて同じ二十歳ではありません。
彼女の二十歳は彼女だけのもので、彼女だからこその二十歳の記録でした。
こんなふうに自分の思いを文章で書けるなんて素晴らしいです。素直でお茶目な女子大生の日記は、いつしか自分の内面を深く深く掘り下げて、未熟さ、孤独、醜さ、弱さにこそ、ぐいぐい突っ込んでいき痛みつけては真っ赤な血を流す、私の中でそんな印象に変わっていきました。それでも彼女の文章には最期まで崇高なものがありました。
眼鏡をかけ京都の街並みを自転車で走り回っていた彼女は、半年後には自らの命を絶ってしまいました。
感想を書きたいのに、どう書いていいのか分からない、たぶん私の心の中で昇華させていく、そういう本なんだと思いました。