- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101185019
感想・レビュー・書評
-
健康な生活、あるいは常識に基づいた人生というものがもしもあるとすればそうしたノーマルさからこぼれ落ちる人生もあるはずで、それを人は病気と呼ぶのだろう。だが、それは数の論理で決められてしまっているものである以上、病むことを生きるしかない人の生活においては病んだ状態こそがノーマルとも言えるのではないか。杳子は今の目で見れば確実に病んだ側に入る人間だろうが、彼女のこだわりや言葉の空回りは彼女にとっては切実な問題であり、主人公は反発しながらも彼女の病の重力圏に近づいていく果敢さを秘めているのだと読む。ゆえに崇高だ
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
“内向の世代”としてどんどん深化していった中期以降の古井由吉とは内容を異にする初期の大名作。
当時より観察力・透明な筆致は完成しているが、何より表題の『杳子』のひたむきな表現に心が動く。
他作を同様にお薦めは出来ないが、本書に関しては戦後の必読書と言いたい。 -
「杳子」
大学生の時にしばらくお付き合いをしていた女性は小柄で可愛らしく、真面目で読書家、友達思いのキュートな人だった。
彼女が北海道へ一人旅に出かけた時に、私は多分何かに嫉妬したのだろう。
彼女が私より旅行を選んだような気がした。
その頃から私は自分の中にあるウジウジとした女々しい思いを彼女に少しずつ吐き出すようになっていたと思う。
私は彼女の本質を知らなかっただろう。そして自分の女々しい思いをぶつけることが彼女の心から私を遠ざけるのだという事を知らなかった。
この作品の「杳子」は心を病んでいるのだけれど、自分が病んでいる事を知っている。そして彼女を取り巻く世の中と人々は彼女を救い出すことができない。
動けなくなった山の「底」で杳子は彼女を救える男に出会い、助けを求める。
男は杳子を救えるのは自分の他いないと知る。
男と杳子は2人だけの空間を作りその中で抱き合いながら生きていくことになるのだろう。
「妻隠(つまごみ)」
妻隠とは一体どういう意味なのだろうか。
辞書を引いても作品を読み終えてもわからない。
多分会社の組合運動に加わっていた男性が、その時の疲れからだろうか体調を崩して1週間近くの休みを取る。
その間会社勤めの身では見ることのなかった日常が目の前に広がる。
果たして自分と妻はどこにいるのか?
自分を包む現実の世界で自分達はどの様に見られ、どの様に生きているのか?
今の自分達の生き方は世の中を構成する真っ当な生き方なのか、疑問が沸く。
気になる事:
妻隠の中に「独壇場」という表現が有る。
本来なら独擅場で独壇場はその誤用だとされていたけれど、今では作家も使うほど正しい言葉として認識されているのだろうか? -
<杳子>
何処までも暗(杳)く儚き幼さは、一人を蠱惑する。
昏迷してゆく感情。無邪気さと蜷局を巻く病魔。
蝕み、蝕まれ、重なり合う毎に成熟してゆく蟲を、伴に飼う事。
純白と仄暗い暗澹の世界が、…忙しなく過ぎ往く喧騒の中の狂気の秘密裏に在るが故、"極普通な営み"は淫靡さを孕む。
苛立ちと云う名の奈落の耀。
岩をつたい、危うさに震い怯え、果てし無く堕ちてゆく事への悲しき快楽。
男性が疼痛に喘ぎ乍らも尚…否、それ故に歪曲された愛に耽溺してゆく心が、少し理解出来る様な気がした。
簡易な語句を用い乍らも独特の表現が、濁り切った仄めく極彩色を、茫漠と滴らせる。それでいてその重い滴は、確かな輪郭を有っている。
擬態と比喩の絶妙な文が、如何にも世界を相応しい容に創り上げる。
感受と視点、心描写の連なりが、痛々しくもどかしく、"苛立ち"を与えながらも読者でさえも嵌めてゆく。つらさを、じわりじわりと痛感させる。
<妻隠>
孤高の気高さを全身に染み入らせた様な礼子。
互いに交わり合い、深く関わったが故に、自信が相手の半身に持ってゆかれて融和したが故に、恋愛よりも濃密な関係となる。…それは酷く淋しい事なのかも知れない。
「未練ほどのやさしいものでなく」と云った形容が余りに残酷で、それで居て儚く美しい情の如く心に響いた。
頼り無い夫としっかりした妻、という単純なものでなく、
御互いに別の足場から相手を優しく見守る様な距離感を携え、
独りでは無いが故に余りに悲しく意味を孕んだ「孤立」した二人は、共有する空間に雁字絡めにされても抵抗する事さえ諦めた様な、疲れきった様な哀愁を映し出す。
ストーリー性の薄さが一層に、此の文の色を明瞭とさせている。
馴染んでくる様な、…此方も痛みを伴う話であったが、「肌目細やかさ」があり、最初の“杳子”より好きだと感じた。 -
ヨウコは精神を病んだ女性の描写が細かく、優れているのは分かるが読み進めるのに時間がかかる..妻籠は比較的ライトな語り口だが、危うさも兼ね備えている。描写が上手い。事あるごとに淫ら、という言葉が連発されているような。
-
『ピース又吉がむさぼり読む新潮文庫20冊』からピックアップした一冊。
閉ざされた世界での男女の恋愛というものは、かくも重くて暗いものなのか。そもそも恋愛とは実は明るいものではないのかもしれない。そんなことを考えながら読み終えたとき、又吉が帯の惹句に書いている「脳が揺れ…めまいを感じ」たという症状にワタシも見舞われた。 -
『辻』が面白かったので遡って読んでみたのですが、これはイマイチでした。てことは古井由吉に関しては初期作品より比較的最近の作品のほうが自分は相性が良いのかも。
精神的に病んでいる女性・杳子と、彼女を見守る男の恋愛ものといえば恋愛ものなのだろうけど、この杳子の病的な行動の数々が、とにかくリアルすぎて読むのが苦痛になるほど疲れます。
そしてその恋人の男のほうも、杳子のどこに惹かれているのかさっぱりわからず、病んでる女を自分が治してやりたい、助けてやりたい、という同情なのか優越感なのか、愛情というにはあまりにも上から目線の観察で、自身も気づいているようではあるけれど、杳子に対して自分が何かしてやれるという思い上がりや恩着せがましさが露骨すぎてちょっと不愉快。
結局彼自身も杳子ほど明確でないにせよ病んでいる部分が多少なりともあり、だからこそ杳子をどうにか助けてやりたいと思う反面、杳子の奇矯な行動を見て「俺はまだ大丈夫」と安心感を得ているのではないかと思うほどの冷酷さすら感じました。
登場人物を好きになれないことと、小説としての面白さは別物だとは思いますが、こういう作品が「文学的」なのは理解しつつも、好きかと問われればきっぱりキライと答えてしまいそう。性的なことに関する表現の仕方も、露骨な言葉は使っていないにも関わらず妙な嫌悪感を催してしまい、ちょっと苦手でした。 -
1970年下半期芥川賞受賞作。選考委員の間で「杳子」と「妻隠」で意見が分かれたまま、決しかねて両作での受賞となった。委員の一人、川端康成はこのことに苦言を呈していた。私は、やはり「杳子」を推す。徹頭徹尾、暗い小説だが他には類を見ない独特のリアリティがあり、読者をも傍観者にはさせておかない迫力に満ちている。作中では「彼」と語られ3人称体ではあるものの、いつしか(あるいは小説の冒頭からすでに)我々は「彼」の視点と思惟にとり込まれることになる。そして、その視点から見る「杳子」に、はたして我々は何をなし得るのか。
-
筆致に圧倒された。
だれかと関係を持つ、ともに生活を送る。
まったくの孤独ではないはずなのに、閉塞的なその関係によってより孤独が深まっていくような、そんな苦しさと寂しさと、やるせなさのようなもの。自分の中で上手く言語化できなかった感覚が、描かれていたような気がした。