ポエムに万歳! (新潮文庫 お 97-1)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101205519

作品紹介・あらすじ

書き手の「何か」が過剰に溢れた言葉。意図的に「何か」を隠すため、論理を捨てて抒情に流れた文章。そこに「ポエム」は現われる。感情過多で演出過剰な、鳥肌モノの自分語りは、もはや私生活ストリップだ。Jポップの歌詞や広告のコピーならまだ許せる。だが、いまやこの国では、ニュースや政治の言葉までもが「ポエム化」している! 名物コラムニストが不透明な時代を考察する。

感想・レビュー・書評

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  • 「ポエムは、書き手が、詩であれ、散文であれ、日記であれ、手紙であれ、とにかく何かを書こうとして、その「何か」になりきれなかったところのものだ」

    「たとえば、書き手が冷静さを失っていたり、逆に、本当の気持ちを隠そうとしてまわりくどい書き方をしていたりすると、そこにポエムが現出する」

    「・・・、照れかくしをしようとしている時、人はポエマーになるわけだ」

    「書き手が何かをごまかそうとする時、文体はポエムに近似する」

    「[ポエムの需要は]あるんじゃないですか。何かを直視したくないときとか、真っすぐに伝えたくないとか、ごまかしたいとき」

    「ところが「ポエム」では、何か意味を曖昧にしておいて、「この辺のこんな感じ」という提示の仕方で、つくる側がちゃんとつくり込まずに「ぽいよね」みたいなところで、安易につくられています」

    「で、ポエムが詩と違う点は、・・・、自分という存在そのものがテーマになってしまっていること」

    「ポエムというのは、それこそ、私が、私の、私へ、私はという、何か一人称の主語がむくむく出てくるもんです」

    「「伝わるか」という検証が一切なされていない感じがします。「伝えたい」はあるけれど」



    現実に於いて定在できる場所を切り拓くことができず、それゆえにいっそう思惟の中で膨張し過剰となり重苦しくなってしまわずにはいない自我。それを鎮静化させ以て現実の中で存在余地を確保しようと悶絶葛藤すればするほど、却って思考対象は自我そのものに占領されていく。

    そのとき、現実と折り合えずにいる自我の弱さ・卑小さ・浅ましさを直視できず、その苦悩が自分だけが抱きうる深遠なものであるかのように――ひいてはそうした苦悩を抱える自我そのものが他者と比較不可能な特権的な何かであるかのように――自己に対しても他者に対しても偽装しようとするとき、そこで垂れ流される意味深で思わせぶりな言葉の羅列が「ポエム」と称される。

    他者からの救済を期待して自分の苦悩を言葉で表現しようとしつつも、その苦悩の陳腐さ・凡庸さを見透かされることを、つまり自己が他者の意識の中でオブジェクト・レヴェルに引きずり降ろされるれることを、自己否定されてしまうことのように極度に恐れている。それゆえに、苦悩の表出は明確な意味を結ばないどこまでも迂遠で思わせぶりな「ポエム」となる。理解されることを願っているというよりも、不可解なまま心配だけされたがっているということ。

    ↑こういうやつ。

    いろいろ言い当てられたような気分。

  • 小田嶋隆が止まりません。
    単行本でも読みましたが、この度めでたく文庫本となったので、一も二もなく購入しました。
    著者は、「ポエム」が性質の悪い感冒のように社会に蔓延していると危惧します(いや、そうは言ってませんが、多分そういうことなのでしょう)。
    では、ポエムとは何か?
    実例を見ていただければ、たちどころに了解するでしょう。
    □□□
    俺が「サッカー」という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。
    8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。
    ―中略―
    サッカーはどんなときも俺の心の中心にあった。
    サッカーは本当に多くのものを授けてくれた。
    喜び、悲しみ、友、そして試練を与えてくれた。
    □□□
    中田永寿の引退声明文です。
    著者は「率直に申し上げて、私は気持ちが悪かった。鳥肌が立った。30歳間近の男が、ここまで臆面もなく自分語りをしてしまって、後の人生は大丈夫なのか、と、心配になった。」と余計な心配をしています笑。
    いや、私も余計な心配をしてしまいました。
    まあ、でも、その分野の第一線で活躍したアスリートだけに、引退に際して必要以上にノスタルジックになるのは、心の情動として致し方ないのかもしれません。
    ただ、この「ポエム」が、あらゆる場面で幅を利かせているというのが著者の見立て。
    たとえば、東日本大震災復興構想会議がまとめた「復興への提言」、五輪招致委員会のメッセージ、果てはニュース原稿(古館さんに非があるそうです)や朝日新聞の「天声人語」までもポエム化しているとあっては、看過できません。
    著者は、「書き手が何かを隠蔽しようとする時、文章はポエムの体裁を身に纏わざるを得ないのである。」と鋭い指摘をしています。
    これには納得。
    あと、端的に言って、書き手に訴えたいことがない場合や主題が明確でない場合も、文章がポエムに堕していくことを、私は経験を通して知っています。
    まあ、しかし、ポエム化の流れは止められなさそうです。
    そうであれば、いささかの皮肉を込めて叫ぼうではありませんか。
    「ポエムに万歳!」と。

  • P.2016/9/23

  • この文体と意味づけは何だろう、と思っていたものに明確な名前と解説が施されてスッキリした。皮肉が利いているけれど論は真っ当だとと思う。

    ポエムも上手く商品として仕上げればいわゆるエモい文になり、対談では境界について考察される。この種の文を自分が書けないのはなぜか、定義の線引きはどの辺なのか何となくわかった。繰り返し述べられているので読み終わる頃にじんわり掴める。

  • 我が国首相・安倍晋三はよく夕方6時から記者会見を開く。すると、私が
    唯一きちんと見ている夕方のテレビ・ニュースが官邸によってジャックさ
    れることとなる。

    仕方がないので見る。というか、顔を見たくないので聞く。用意された
    原稿を読んでいるだけなのに、何を言っているのか分からない。

    「全国放送を使ってポエムを読んでんじゃないよ」

    こんな風に突っ込んでいることが多い。首相だけではない。本書で著者
    が取り上げている元サッカー選手・中田英寿の引退表明のコメント(?)
    なんてニュースで読み上げられた時に「この人、大丈夫か?」と思った。

    ポエムが氾濫していると著者は言う。それは昔々と違って、インターネット
    が普及して誰もが「書く」という行為を気軽に出来るようになったから。

    そうだよな。インターネットがない時代、文章を書いて発表する場と言った
    らプロの物書きになるか、同人誌を作るか、自費出版するか、町内会の
    「お知らせ」に載せるかとかで、非常に限られた範囲だものね。

    ハードルが低くなった。その分、誰もが書いて発表できる。例え書いた
    内容が意味をなさなくても、書いた本人は満足。言葉遣いの間違い
    なんか気にしない。雰囲気さえ伝わればいい。これぞ、ポエムである。

    このポエムが生まれるに至った道筋を考察する過程が素晴らしいんだ。
    小田嶋さん、やっぱり冴えている。

    本書は月刊誌などに連載されたコラムをまとめた作品なので、ポエム
    以外にも「お笑い」や「高齢者の犯罪」などについても考察している。

    それでもポエムの章は身につまされるよ。だって、私自身、日々、こうし
    てネット上に「ポエム」を綴っているのだから。

    自分もそうだけれど、みんな結構、書くことが好きだよね。人によって
    内容の完成度は千差万別だけれどさ。

  • オダジマ節が好きな人向け本ですね。
    私もポエムは恥ずかしいと思っちゃう派なので、最近(といっても10年以上前からだけど)のポエム化する番組はあまり好きじゃない。最近は揺り戻しが来ている気がするので、この傾向が続くといいな。

  • 80年代に意識高い系パソコン雑誌Bug newsで著者の文章に魅了されてから、早くも30年経過。ちょっと面倒くさくてクセもあるけど、妙な説得力があり面白いオヤジ的文章・主張は相変わらず。オリンピックの話は慧眼でしたね。

  • SNSやblogで見られる「野放図な自分語り」。書き手の「何か」が過剰に溢れ出た言葉の羅列。論理も理屈もないがしろにされた、ただただ抒情に流れた文章。著者はそれらをひっくるめて「ポエム化」と定義。その最たる例として挙げるのは「中田英寿の現役引退メッセージ」。 僕は当時何かもぞもぞとした居心地の悪さをを感じていたものの、多くの人の絶賛の嵐の前に沈黙を決め込む。

    そう自己陶酔・感情過多に溢れ、気取った臆面の無さに激しく鼻白んだ。職業「旅人」を自認する人だから、さもありなんだけと。このもぞもぞ感を著者の小田嶋隆は「ポエム」という一言で、ズバッと切ってみせてくれた。

    この他では、私の嫌いな似非名言乱造家「相田みつを」も俎上に上げ、血祭りに。

    感動は受け手の心身が弱ってる時に訪れる体験。これを相田みつをは逆手に取り、ラジカルな言葉は一切封印し、かつて母親がよく言っていた凡庸な言葉に集約する。

    見事な論評。ちなみに僕が相田みつをを嫌うのはそのやり口。心のハンディキャップに着眼し、自身達筆でありながら、ヘタウマというケレンを用い、挙句に姓名の半分を平仮名にするわ、「お」を「を」にする芸の入り用。80年代の松任谷由実と同じ臭いがする。みうらじゅんもビックリな「ひとり電通」である。

    ゆえに、そんな見ず知らずの「狡い(こすい)」「あざとさ」の衣をまとったおっさんに諭されたくなんてないのである。我が意を得、貪るように一気読み。

    本書の文庫本化により、日本に溢れた「私が、私の、私へ…」という、一人称主語ポエムのおびただしい湧出の現実を広く知れ渡らせ、そして“鳥肌もののポエム”の抑止と羞恥心の覚醒に繋がればと良いのにと、願うばかり。溜飲下げ下げ、膝叩きまくりの精神浄化の一冊。

  • 2016/9/14

  • 20160910

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著者プロフィール

1956年東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業。食品メーカー勤務などを経て、テクニカルライターの草分けとなる。国内では稀有となったコラムニストの一人。
著作は、『我が心はICにあらず』(BNN、1988年、のち光文社文庫)をはじめ、『パソコンゲーマーは眠らない』(朝日新聞社、1992年、のち文庫)、『地雷を踏む勇気』(技術評論社、2011年)、『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社、2012年)、『ポエムに万歳!』(新潮社、2014年)、『ア・ピース・オブ・警句』(日経BP社、2020年)、『日本語を、取り戻す。』(亜紀書房、2020年)、『災間の唄』(サイゾー、2020年)、『小田嶋隆のコラムの向こう側』(ミシマ社、2022年)など多数がある。
また共著に『人生2割がちょうどいい』(岡康道、講談社、2009年)などの他、『9条どうでしょう』(内田樹・平川克美・町山智浩共著、毎日新聞社、2006年)などがある。
2022年、はじめての小説『東京四次元紀行』(イースト・プレス)を刊行、6月24日病気のため死去。

「2022年 『諦念後 男の老後の大問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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