- Amazon.co.jp ・本 (529ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101482279
作品紹介・あらすじ
『絶対音感』『星新一』の著者が選んだ次なるテーマは、〈心の病〉だった――。河合隼雄の箱庭療法を試み、中井久夫から絵画療法を受け、自らもカウンセリングを学んだ。心の治療のあり方に迫り、セラピストとクライエントの関係性を読み解く。そして五年間の取材ののち、〈私〉の心もまた、病を抱えていることに気づき……。現代を生きるすべての人に響く、傑作ドキュメンタリー!
感想・レビュー・書評
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著者が、心理学やカウンセリングの世界を取材し、掘り下げたルポルタージュ。しかしジャンルを「ルポルタージュ」とまとめてしまうのはちょっと違うかも、と思える。著者本人の物語も含まれているし、日本にカウンセリングが持ち込まれてから、「心の病を治す」という分野の仕事がどのように研究・発展してきたのかを掘り下げた、歴史書や分析書のようでもある。
今や「カウンセリング」という言葉は世の中に浸透して、精神病ではなくても心が不安定になったとき、誰でも「カウンセリングが必要かも」と考えたりする。あきらかに病気ではなく、いじめや職業(職場)との不一致など、環境による不安であっても「カウンセリング」で何とかしようと考えたり。
私も不安感に耐えかねて、職場が紹介している窓口に問い合わせたことがある。(実際に受診するまでには至らなかったが)。
今ではそのように一般的になった「カウンセリング」だが、日本に持ち込まれてまだ70年しかたっていないらしい。心の病を引き受けるのは医者(精神科医)なのか?心理学者なのか?教育者なのか?そもそもそのような線引きもなく、”自称セラピスト”のような人も多数存在した。今でも民間の団体が主催する研修を数時間受けた程度で、もっともらしい看板を掲げてセラピーやカウンセリングを行う人がいる。今では「臨床心理士」という国家資格があるが、資格を取るのは大変難しく、経験が必要なのにも関わらず、待遇はあまりよくない。
それでも現代社会には、心に不調を抱え、カウンセリングを求める人がたくさんいる。社会はどのように対応していけばよいのだろう?求められる「セラピスト」とは?
本書の大部分は、かつて注目を浴びた「箱庭療法」や「絵画構成法」といった芸術療法の解説や、河合隼雄に影響を受けた研究者たちを取材した内容が占めており、日本の”心の診療”がどのような歴史をたどって発展したかをひもといている。箱庭療法はいかにして日本に持ち込まれ、どのように発展したのか。どんな人がどんな箱庭を作ったかの興味深い事例も少々取り上げられている。私も箱庭療法にとても興味がある!やってみたい!・・・しかし、今はそのような手法は下火になったようで、認知行動療法が主流だ。(これは私も仕事上多少の知識はある)。
残念ながらカウンセラーとクライアントが箱庭や絵画を通して心に向き合い、深いところに降りていくような治療は、もう現在はできないということだ。時間がないから。一人のカウンセラーが一日に何十人も診ている。数分間の診察で、抗うつ剤や睡眠導入剤を処方して終わり。それが当たり前になってきている。
本書を読んで、本当に病気で、薬の処方が必要な場合でなければ、一番のセラピストは身近にいる親しい人なのではないかと私は思った。そばにいて、相手の話に耳を傾け、深く共感したり、一緒に悩み悲しんだりして時には深く降りていってしまい(時にそれは危険なことでもあるらしいが)、そして一緒に上がってくる。
今は心療内科などの看板を掲げるクリニックに行っても、そんなに時間をかけて話を聞いてもらえないのならば、よっぽど素人であろうとそばで話を聞いてくれる人の方が心の回復の支えになるだろう。
私の友人に、個人でサロンを経営しており、とてもカウンセリングマインドがあり聞き上手な人がいる。時々無性に彼女に会いたくなり、友人として、ときには顧客としてサロンに通っている。先日会ったとき、「ねえ、あなたはサロンをやっていくために、なにかカウンセリングの勉強や研修をしたの?」と聞いてみた。本人曰く、傾聴ボランティアをするときにほんの少し研修を受けたがたいしたものではなく、もともと人の話を聞くのが好きなのだと言っていた。
傾聴っていうのも、誰にでもできそうで、できないよな。やっぱり彼女はもともと、向いているんだろうな、人の心を癒やす、何かを持っているんだろうな、と思った。
そういう興味もあって本書を読みました。数十年前の研究や、心理学の歴史の記述などは少々難しかったけど、とても興味深く読めました。 -
仕事で、「心の病」のある人、あるいはその家族と話すことがある。
現状、苦しんでいる人がどのように悩み、もがき、治療を受けているのかはわからない。
私たちは、ただ、淡々と、その事実を記録して、案件の処理をするだけだからだ。
だから、各々に対して思い入れはしない。
けれども、たまたま私は治療をするほど追い詰められなかったけれど、かつて自傷したこともあるし、何度も自殺する方法について考えたこともある。
本が私を助けてくれたから、自力で立ち直ることができたが、それはあくまで私の体験であり、すべての人に有効な方法でもないし、共通する経験でもない。
だから、私は苦しむ人々がどんな治療を受け、どう関わりを持っているのか知りたいと思った。
心理療法士、精神科医はどんな思いで、相手と関わっているのだろう?
424〜425頁で女性患者がこう言った。
「この前箱庭を作ったとき、先生はこれで治せると思ったでしょう」
「私は別に治してほしくないのです。私はここに治してもらうために来ているのではありません」。
一瞬何を言っているのかわからなかったし、患者特有の意固地さなのかと思った。
しかし、「治さねばならぬ」という思いは、一体誰のためなのかを考えたとき、自分の子供を思った。
普通級ではなく、支援学級を勧められた時、教育委員会は、何のために、誰のために支援級と判定したのか、その時の怒りに似た感情を思い出したのだ。
「普通」とは何だ、誰のための「普通」なのか。
実際はそんな悠長なことを言っていられないかもしれない。
自傷や他害を起こさせないことは必要なことだし、実際に苦しんでいて治したいと思う患者も多いだろう。
だが、違うことは悪いこと、同じでなければ価値がないというのは、優生思想ではないか。
かつて、人類が何度も犯してきた過ちと同じことをまた、繰り返すのか。
なぜ生き物がこれだけ多様性を持ち、変異を起こしてきたか、私たちに足りないものは、そのゆとりなのだ。
人が人らしく生きるには遊びが必要だ。
心とは、多様性とは、生きるとは。
本書が問いかけるものは、広く、果てしない。 -
最相葉月(1963年~)氏は、関西学院大学法学部卒、広告会社、出版社、PR誌編集事務所勤務を経て、フリーのノンフィクションライター。『絶対音感』で小学館ノンフィクション大賞(1998年)、『星新一 一〇〇一話をつくった人』で講談社ノンフィクション賞(2007年)を受賞。そのほか、大佛次郎賞、日本SF大賞等を受賞。
本書は2014年に出版、2016年に文庫化された。
私はこれまで、著者のエッセイ集『なんといふ空』、『れるられる』、ノンフィクション作品『絶対音感』、『東京大学応援部物語』を読んできたが、その感性と徹底した取材スタイルが好きで、本書についても新古書店で見つけて手に取った。
本書は、「心理療法(=カウンセリング)」について、著者が「なぜ病むのかではなく、人の心がどう回復していくのか」に興味を持ったことをきっかけに、その歴史や方法、現場の様子を明らかにしたものである。
カウンセリングとは、20世紀初頭の米国に始まり、第二次大戦後に日本に持ち込まれたものだというが、本書では特に、日本のカウンセリングの歴史を作った、「箱庭療法」(砂を敷き詰めた箱におもちゃを配置して庭を作る方法)を使う心理学者・河合隼雄(1928~2007年)と、「風景構成法」(川や森や人の絵を、ある順序に従って描かせる方法)を使う精神科医・中井久夫(1934~2022年)の歩みを中心に、多数のセラピストを取材している。
また、著者は、臨床心理学を学ぶために、東洋英和女学院大学大学院と臨床部門併設の民間研修機関に通い、更には、自らの病(双極性障害Ⅱ型)についても明らかにしているのだが、そうした点は著者らしい。
読み終えて、これまでほとんど知らなかった心理療法の歴史を知ることができたが、中でも驚いたのは、河合隼雄の息子で同じく心理学者の河合俊雄が、「これまでの流れを見ていると、だいたい十年サイクルで心理的な症状が変化している・・・実は、発達障害だってそろそろ時代遅れになるかもしれないと考えているんです。生物学的な背景は絶対にありますから、傾向そのものは変わりませんけど・・・だいたい、あとになってわかるんです。それをいち早く捉えるのがわれわれセラピストの仕事ともいえますが」と語ったことである。つまり、クライエントの症状というのは、時代によってどんどん変化するというのだ。社会環境が変われば、それに対する人間の反応の仕方(=症状)が変わるのは、考えてみれば当然のことなのだが、改めて気付かされた。
そして、著者は最後に、クライエントとセラピストの関係の在り方について、次のように記している。
「この世の中に生きる限り、私たちは心の不調とは無縁ではいられない。医療だけでなく、社会的なサポートの充実が急がれる。ただ、よき同行者とめぐり会えたとしても、最後の最後は自分の力で立ち直っていくしかない。・・・心の病とは、暗闇の中で右往左往した挙句、ようやく探し当てた階段の踊り場のようなものなのかもしれない。踊り場でうずくまるクライエントのそばに、セラピストはいる。沈黙に耳を澄まし、クライエントから再び言葉が生まれるまで待ち続ける。クライエントが立ち上がったとき、彼らもまた立ち上がる。」
著者にして書き得た、心理療法とセラピストたちの歴史を知ることができる、力作ノンフィクションである。
(2023年2月了) -
私も15歳のときに読んだ「絶対音感」でノンフィクションの世界に華々しくデビューした著者の現時点での最新作となる本作は、<心の病>をテーマに、精神医学や心理学などがどのように発展してきて、どう人々の心を癒すのかについて書かれたルポルタージュである。
本書では、著者自らが両親の介護と死去に際して、自身も心の病を抱えていることを自覚しながら、自らも箱庭療法や絵画療法などを受けることで、深く治療の実態に迫っていく様子は強い説得力がある。5年間にも及ぶ取材と自らの治療を踏まえて書かれた本作は、そうした生々しい実態がわかりやすく描かれているともに、かつての治療では患者が喋りたくなければ10分間でも沈黙を続けられるような鷹揚な雰囲気があったが、近年の患者数の増大とそれに追いついていない医師・セラピストの人員数により、そうした治療が今や望めない等の問題提起がなされる。
個人的に強く関心を持ったのは、独自の絵画療法である風景構成法を生み出した精神科医の大家、中井久夫へのインタビューの中で、言語を操ることで、必然的に因果関係を作ってしまうという人間の根源的欲求について触れている点であった。
「言語は因果関係からなかなか抜け出せないのですね。因果関係を作ってしまうのはフィクションであり、治療を誤らせ、停滞させる、膠着させると考えられても当然だと思います。河合隼雄先生と交わした会話で、いい治療的会話の中に、脱因果的志向という条件を挙げたら多いに賛成していただけた。つまり因果論を表に出すな」ということです」(p366~367) -
本書にも記載があるが、イタリアの精神科病院の廃絶は世界初であり、数年前に映画にもなった。その事実を数年前に知った私はとても驚いた。いったいどういうことだと。しかし本書を読み、統合失調症は改善する、完治する人もいるということを知り、ショックを受けた。統合失調症は2種類ある。私の母は、幻聴や妄想に苦しめられるタイプで、幼いころから近くで母の症状を見てきた私にとって、その病気が治ることは奇跡だと思っていた。外泊の時、症状が悪くなると病院から医師や看護師が自宅に着て母に注射を打ち連れていく。とても長い長い廊下を歩き、その先の棟は、鉄の扉でかんぬきがさしてある・・母が亡くなりもう18年近くなるが、ずっとずっと、不治の病だと思っていた。
本書での圧巻は、医師の中井久夫の件だ。一昔前だったから可能だった時間の取り方、患者との接し方。
読み進めるほど心が震えた。この人のような先生に診てもらっていたら、母さんだって良くなっていたはずだ。母の人生の物語を私とふたりで紡いでいけたはずだ。
そして河合先生の深さ・広さは、いうまでもない。私は先生の著書をこの先も繰り返し読むだろう。
文庫版特別書き下ろしの、鹿児島でラグーナ出版という就労支援事業所を立ち上げた精神保健福祉士や医師やそこで働く精神疾患の人たちの話が興味深かった。統合失調症などの症状や苦しみを綴った文章を募集して掲載する雑誌を出版しているらしい。
中井氏が言っていた言葉は忘れてはならないと思う。
「言語は因果関係からなかなか抜けない。因果関係をつくってしまうのは、フィクションであり、治療を遅らせ停滞させる。河合先生と交わした会話で、いい治療的会話の中に、脱因果的思考という条件をあげたらおおいに賛成していただけた。つまり因果論を表に出すなということです。」
これは、人との関係にもあてはまると思う。言葉を交わしてもそこに寄りかかってはいけない。それは人を想うことに比例すると思う。 -
始終圧倒されっぱなしだった。登場するセラピストのみなさんの思慮深さや鋭さと、それをあますことなく表現する最相さんの筆致。
クライエントが回復することを、手放しで喜んではいけない。心の病と向き合うことの長く苦しく、ときどき光が差しこむ道のりを垣間見た。
口絵の、中井久夫さんの書いた風景構成法のイラストがとてもいい。じんわり、何でも受け入れてくれそうな風景。 -
言葉は引き出されるんじゃないんですよ。言葉というものは、自ずからその段階に達すれば出てくるものなんです。引き出されるのではなくてね。五歳ぐらいまで一言も話さない子どもたちはよくいます。それは、言葉以前のものが満たされていないのに、言葉だけしゃべらせてもダメという意味です。
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自分がこの種の本に興味を持つのはなんでなんだろう。自分の心でも、自分で分からない。心理士や精神科医なら、それを解き明かしてくれるのか?そんなものでもない気がする。
この厄介な心がもし壊れたら、自分でもどう対処したらいいか分からないだろう。
セラピストという仕事に多少の懐疑を持ちながらこの本を読み始めたが、真の意味でセラピストになれる資質のある人って、本来はすごく少ない気がする。
文庫の最後についてるラグーナ出版のエピソードが良かった。執筆時期が違うから当然かもしれないが、最相さんの筆も軽く、働いている人達のなんとも言えないアッケラカンな感じに救われた。