- Amazon.co.jp ・本 (523ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102005057
感想・レビュー・書評
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病的と言ってもよいぐらいの親バカなゴリオ爺さん。親の死に目にも顔を見せないふたりの娘たち。どのような過程を経て、そのような娘たちに育ったのか明らかではないが、最後に遺された金のロケットは彼女たちにも純粋な時代があったことを物語る。その彼女たちが虚栄に満ちたパリの社交界に入ることになって、家族の悲劇に拍車がかかったように思われる。ヴォケー夫人の下宿屋と社交界の間を行き来するラスティニャックが、まだどちらの世界の住人にもなり切れずに良心を何とか保っているのが少し救われた。さすが名作。
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ゴリオ爺さんかわいそう。
ラスティニャックいい人だなぁ。
いろんな人のいる下宿屋の情景が目に浮かぶよう。 -
ライトノベルばかり読んでいても舌が麻痺しそうなのでまともな小説も読む
と自然に書いてしまうが
ライトノベルでないのにもライトノベル平均点に及ばない作品はいくらでもあるので
単に味付けの違いと思う
『マカロニほうれん荘』と『ドカベン』と『ブラックジャック』は同じ雑誌に掲載された
同じマンガ作品でも
まったく違うものなのと同じ
でバルザックの人間喜劇は小説では手塚治虫作品みたいなものである
200年越しに読み継がれている名作だが
手塚治虫作品の最高峰が比べて劣っているわけではない
けれど歌劇的な畳みかける膨大な台詞での心情吐露は
日本作品が容易に真似し得ない欧州文化の精華
いってみれば日本語で書かれた小説が一文一句の「ことば」へこだわり続ける限りは
たどり着けない境地かもしれない -
パリの下宿にやってきた田舎青年が社交界でもまれる変則めぞん一刻です。
まぁ、しかしあれよりだいぶ下世話か。
泣き落としにつぐ泣き落としがあらわれるけれども
みんなだいたい自分勝手すぎる。
自分のこづかいが少ないからと言って
カジノで儲けてきてと頼む女なぞこちらから願い下げであるが、
なんとその女は比較的ましな部類の人間である。
あと「不死者」とかいう中二病的ネーミングの男は
なんかするのかと思ったら思わせぶりに焚きつけるだけで
中盤で退場して一切出てこない。不死者なら戻ってこいよ。
まぁ、たしかに死んではいないけど。
そんなわけでほとんど納得できることはないのですが、
爺さんの異常な愛情だけに賭けられた物語なので
そこで読むことはできます。
また、どうやら退場した不死者だけでなく
ほかの脇役も最近のスピンオフ漫画よろしく
バルザックのほかの著作で顔を出すらしい。
そういった仕組みを考えて実行した点でバルザックの功績はあるだろう。
いや、しかし芝居が臭いのはともかくとして
倫理観がずれすぎていてついていけませんでした。
歴史資料としても違い自体は面白いよね、以上。 -
すごい小説というものは、確かに時代を超えて残る。例えば、『デイヴィッド・コパフィールド』『エマ』『ファウスト』『カラマーゾフの兄弟』。それらと同様の圧倒される感じを味わった。
「人間喜劇」の構想を得て、最初にスターシステムを導入して描いた作品だという。これが初の試みだったとは、どれだけの緻密なプロットを用意して臨んだのかと驚く。主人公ゴリオの悲劇の性格ももちろん深いのだが、それ以上に、その後の作品にも繰り返し登場することになる主役級スター二人、ラスティニャックとヴォートランのキャラクターが素晴らしい。上昇志向、端麗な容姿、強い意志と感覚の鋭さという、魅力的なラスティニャックの視点で物語るというのは上手い。また、本編では半端な狂言回しといった退場のしかたになっているが、ヴォートランの謎めいた様子、世間に対する斜に構えた態度と裏腹な情熱、正体を暴かれた後の豪放なセリフなど、これも飛びぬけて豊かな造形だと思う。
ヴォートランについてはゲイであることがさらっと述べられているが、時代をかんがみると不思議に感じた。この時代、同性愛者が小説に登場することにはタブー感や異様の印象は無かったのだろうか? -
モームはバルザックのことを指して「確実に天才と呼ぶにふさわしい人物」と評した。そしてそのような人物の作品を読むにあたってまずは『ゴリオ爺さん』から読むのがよい、と述べた。『ゴリオ爺さん』というのはフランス文学、いや文学全般においても重要な地位を持つ作品であることは今更いうに及ばないだろう。文学に携わる者としてはやはり一度は読んでおきたい作品である。
しかし、今回は別として私は今までこの作品を2回読んだ。だが、面白くなくはなかったが、言うほどではないかな、という感想を抱いた。そして再び、今回この作品を読んだのだが、こんな面白い作品はあるのか、と自分の鑑賞力が変わったのを驚くと同時に、あたかも新しい優れた文学を発見したかの如く喜んだりする。ではこの作品が面白いのは一体どういう点なのか、それを簡単に説明したいと思う。
文学において重要なのはとどのつまり人間関係にあるものだと私は考える。この考えは間違っていないはずである。というのもほとんどの文学は人間関係というものに重みを置いているからである。そしてその人間関係がどれほど巧みに描くのかがやはり作品の評価の分かれ目といったところだろう。そして人間関係を描く、というのはつまり人間が描かれるということは間違いあるまい。優れた人間関係とは、優れた人間描写である、といえる。では優れた人間描写とは何か、と聞かれたらそれはどれだけ現実の人間を反映させているのかという点が挙げられる。
よく写実的な文学というのもあれば、空想的な文学もあるとしている。優れた文学作品は後者が多いが、私はここで主張したいのだが写実的なものと空想的なものとは必ずしも対極に位置するものではない、ということである。すなわち空想的な文学作品も、それが優れていればいるほど現実的なもの、つまりは写実的なものを反映させている。人間描写においても同様であり、なるほどそこに描かれる人間像は作者独創によるものだが、それが優れていればいるほど、現実の人間を踏まえた上で描かれる。別の言い方をすれば、空想的な人間像は、作者による現実の人間に対する観察力の違いにより、大きな質の差が生じるのである。大人になれば顕著だが、我々は現実離れした悪や善を持つ人間に文学で出くわすとどこか興が削がれる。現実ではありえないからだ。描く善や悪が、まったくの空想的なものなのか、現実を土台にした空想的なものなのかによって重さが変わる。
『ゴリオ爺さん』においてはなるほど空想的であろうが現実というものを大いに反映させている。出世のために奔走する姿や、夫婦でのいざこざなどは確かに現実的である。その現実を踏まえた上でのラスティニヤックの献身的な行動や、ゴリオ爺さんの愛情というものは空想的であろうが、決して現実においてもあり得ないわけではない。彼らに限らず登場する人物は空想的であるが、写実的な要素が背後に隠されているのである。
しかし、社会の偽善や出世といった欲望を本作品を描くが、それを玩味できるにはやはり読み手もまたそれらがある程度現実的なものだという世界観が熟していなければならない。世の中のことをあまり把握してない人物がこの作品を読んでもいまいちぴんとこない可能性がある。現に私がそうだった。
いずれにせよ『ゴリオ爺さん』はまごうことなき名作である。描かれる人物像、そこで繰り広げられる世界観、人間関係というのは間違いなく作者の力量である。だが、それと同時に人を選ぶものでもあると、私は考える。しかし、考えても仕方があるまい。気になった人は読んでみるといいだろう。 -
これは名作。哀しい父性退廃記と、青年成長記がうまく並行していて清々しい。必要以上でも以下でもない現実主義な文章が素晴らしい。
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2人の娘を盲目的に愛し、玉の輿に乗せた後も求められるがままに自分を犠牲にして全てを与えた哀れな老人ゴリオ。リア王にはコーデリアがいたが、彼には愛情を返してくれる娘はいなかった。
登場人物が人間臭くて面白い。ここに出てくるラスティニャックは出世のためなら何でもする人間の代名詞になったようだが、ここではまだ純粋さを持った1人の若者、彼がその後どのように変貌して行くのか他の作品も読んでみたい。 -
"さあ今度は、おれとお前(社会)のしょうぶだ!"…ラスティニャックの今後が非常に気になりました。