本当に、洲之内さんのこのシリーズはいい。
自称えかきの私には、芯に突き刺さる言葉の数々ばかりである。
とくに、池田一憲氏の話に出てくる「何か」というものについては、日頃私が絵について聞かれた時によく言っていることとまさしく同じであったので驚いたし、よくぞ言ってくれたという気分もした。
納得することから、改めて心に刻まなければいけないと思うことまで、日頃思うことがたくさん書かれている。
まさに私にとってはバイブルのような本であるのだが、
ある人に教えてもらうまで、私は洲之内徹という人をつい最近まで知らなかったのだ。
あやうく知らずに人生が過ぎていってしまうところだった。
本当にその人には心から感謝しなくてはいけない。
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この連載を「芸術新潮」に書いている1976〜1979年の時でさえ、洲之内さんは時代が変わったと言う。
それならば今の時代は彼の目にはどう映るのだろうかと私は何度も思ってしまう。
でも、だから、こんな時代に読むからこそ、『気まぐれ美術館』は私の心に響くのかもしれない。
時代なんかに翻弄される必要なんてないのだ、と
画家は絵に真摯に向き合う、それだけでいいのだ、と、
勇気づけられる。
以前から、今の時代じゃなくてもっと前の時代に生まれたかったと、私はよく思う。
たぶん古い小説や文章ばかり読むせいである。
そんなところへ洲之内徹の『気まぐれ美術館』が来て、洲之内さんに会いたかったなぁとしみじみ思ってしまう。
でも洲之内さんは冷たくて怖いから、えかきとしてではなく、洲之内さんの愛人役の方でいい。
いや、それでも、そこにいる私も今の私と変わらないのであれば、やっぱりえかきとしてしか会えないのかもしれない。
自分の作品に自信が持てなくても、私は絵を描かないと生きていけないし、絵に向かう心情の自分が好きなのだから、
やっぱりえかきとして会うしかないのかもしれない。