- Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103353119
作品紹介・あらすじ
放蕩の末、家族に見捨てられた祖父の背中に孫娘は、長い時間のただならぬ気配を感じていた。人生最後の日々を過ごす老人とその孫娘の静かな同居生活を描く「寝相」。失業中の男、元女番長、なぜか地面を這うようになった小学生が織り成す異色の群像劇「わたしの小春日和」。奇妙な美しさを放つ庭を男女四人の視点で鮮明に描き出す「楽器」(新潮新人賞受賞作)。目を凝らし、耳を澄ませるための三つの物語。瞠目のデビュー作。
感想・レビュー・書評
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私の小春日和が特に面白かった。低空飛行で生きている人の話をこの人に書かせたらピカ1
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妻と別居生活を送ることになり実家へ身を寄せる「私」。
近所に住む同級生の今、その子供との関わりを書いた『わたしの小春日和』は、
「間」が感じられ、ゆっくり進む日常が心地よかった。
『楽器』は、頭で考えず何かを感じ取る物語なのかな。難しかった。
表題作『寝相』大病を患い、孫娘・なつめの家に身を寄せることになった竹春。
二人の何気ない日常が書かれている。
色々なことがわからなくなってきた祖父の背中を流すなつめは
〈竹春の忘れてしまった色や音は、すべて背中に残っているように思われた〉
気持ちがあたたかくなる優しい話だった。 -
『寝相』
随所にシュールが描写が出てきてもう少しで「あっち」の世界に行きそうになるがその手前でかろうじて踏みとどまっている感じ。
『楽器』
最後のほう、イメージがずいぶん壊れていてよい。言葉そのものの動力とロジックがバランスよく拮抗しながら語りが進んでいく。だんだんと「私」から遠ざかっていくところも面白い。
『わたしの小春日和』
作者の味は、叙情的なのに壊れているということ。 -
つかみどころがない中篇が3本.表題作は祖父・竹春と暮らし始めたなつめの話しで始まるが、竹春の若い時代の遍歴が語られる.最後の場面で全世代の皆が集い宴会が始まるが、よく意味がつかめない.題目は竹春となつめの寐る時の姿勢がよく似ていることから取ったようだ.「わたしの小春日和」は職を失った南行夫が実家に帰って、同級生らと付き合う話しだが、安西加代子が中心となっている.息子の洋平が奇妙な行動をする場面があり、元教師の坂口と加代子が劇団を立ち上げる所で話が終わるが、これもよく分からない内容だ.さらに「楽器」では私、谷島、塔子、きよ子が池探しをするが見つからず、山羊の公園や赤い東屋、廃車の森に出くわす.久米老人を中心にした宴会が始まる.
作者は何を書きたかったのだろう??? -
「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」の時も思ったが滝口悠生の小説は時間の感覚が分からなくなる。
ここでいう時間というのは、ウヴォーギンがノストラードファミリーに拉致されて眠らされて目覚めた時に腹の減り具合からだいたいの経過時間を推したような、読書をする際の身体感覚として「この程度の頁数読んだということはこのくらいの時間が経っているだろう」とボンヤリ解るときのあの時間のことだ。
「ジミヘン」と異なるのは、「ジミヘン」が小説の中でフィードバックを起こされたことで過去と現在の反響によって時間の流れる速度が反復され、結果遅延されたということなんだろうが、「寝相」に収録される三編においては時間感覚の狂いとそれによる遅延という結果は同じでも、なんというか感じが違う。
「音楽」がもっとも内容と結びついているのだが、道に迷うという感覚なのだ。道に迷ってしまったがゆえに到着するまでに時間がかかってしまっている。もしくは、道に迷ってしまったことによる身体の動揺で時間感覚が狂っている。
どこかを目指している、それは読書であれば一応結末となるのだろうが、そのどこかを目指していた中で今いる此処が何処か分からなくなる。
ストーリー至上という考えの読者は、迷うことを嫌うだろう。しかし読書とは何かという問いにおいて「読書は読書をする時間そのもののことだ」と猫好きのおじさんが言ってたことに感銘を受けた私としては、それら心地良い不安に変容してくれた。ラッキーである。本を読む喜びが、いびつなれど、たしかにある。気持ち良い。 -
道を歩いてたら、目的地から斜めに外れてしまって、とんちんかんな所に出てしまうような感覚。
地続きであっちこっちに行ける。
でも、置いていかれたりしない。きちんと前には進んでいる。
そんな不思議な文章が心地よい時もある。 -
感情の揺さぶられがない、不思議な世界。
好きな人は好きだろう。
たんたんと流れて行く時間、不思議な出来事。
背負うもの、過去、全部向き合う前に流れていく -
文学
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過去と今。
人と人。
滝口悠生さんの本は、それぞれの距離感が秀逸。