- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105901738
作品紹介・あらすじ
読み書きできない母に綴った僕の真実――。ベトナム系詩人の才能迸る初小説。幼い僕を連れ、母は祖母と共に太平洋を渡った。戦争に人生を狂わされた祖母と、新天地アメリカでの生活に翻弄される母。二人の苦難は少年の僕にも影を落とすが、ある年上の少年との出会いによって、僕は初めて、生きる歓びを知る――。アメリカ文学の新たな才能による痛みと美しさに満ちた自伝的長篇。
感想・レビュー・書評
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この先、星空の数多のまたたきを見上げては、この本を思い出し、世の中に存在した苦しみや悲しみと、そのきらめきの物語のわけを想うのだろう。
あんなに胸を抉られつつ読み進めたのに、なんて美しい物語なのか。
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文字が読めない母へ手紙を書くように、自伝を書き連ねてる小説。主な登場人物はベトナムからアメリカに移り住んだ祖母・母・僕、親しくなった少年。
時系列通りに語っているわけではなく、話の途中で飛んでは戻るという感じ。文章は詩的なものが多い。作者の見ているもの・見てきたものを全て感じ取れたかというと自分には難しかった。それでも心に響く場面やギュッと掴まれる場面もあり、これは読む人によって何かを感じる場面は違うのかもと思う内容だった。なので深く考えず感じるまま右から左に読んでいくのがいいと思った。 -
ベトナム戦争後にアメリカに移った祖母、母、主人公の青年。
作家になった青年が語る自分の人生。
作者は若い詩人で(2021年現在で32歳)もあるんだが、文章も全体的に詩人が書いたといわれると非常に納得のいく、漂うような文体だった。
そして作者の美的感覚はとても微妙なバランスの上に保っているのだと感じる。美しいものを心に留めるが、それはただ美しいだけでなくどこかしら危なっかしいものを美しいと感じているような。
主人公の青年の名前はリトル・ドッグ(子犬)。おばあちゃんの育った村では、体の弱い子供や末っ子を邪悪な霊から守るために酷い名前で呼ぶ風習がある。
おばあちゃんは、最初の夫から逃げ出してから自分をラン(百合)と名乗った。娘はローズ(薔薇)と名付けた。
ベトナム戦争後に祖母、母、リトルドッグは、アメリカに移民として渡った。
母は昼間はネイルサロンで働く。英語が読めない。リトルドッグはそんな母に手紙を書く。読まれない手紙。自分の人生を振り返る手紙。
<母さんは母親だ。でも、同時に怪物でもある。僕も同じだ。だから僕は、母さんから目を離すことはできない。だから僕は、最も孤独な神の創造物の中に母さんを入れた。P21>
母はベトナム戦争の後遺症を患い、動物や火を見るとむかしを思い出してパニックになる。リトルドッグも幼い頃から暴力を受けてきた。
リトルドッグは母に英語の文章を読んで聞かせる。疲れて帰ってきた母のマッサージをして寝かせる。
<「いいものはいつも、どこかよそにある」P65>
幼少期に米国に渡ったリトルドッグはベトナムよりもアメリカでの暮らしが長い。
だが言語のことも、気持ちの上でも、血縁のことでも、アメリカに馴染み切ることはできない。
<よその子は、僕よりたくさん生きている。(…)みんなはたくさん生きている、みんなのほうがたくさん生きている!P80抜粋>
これは米国に移ったばかりでまだ幼いリトルドッグが、アメリカの子どもたちを知り口からでた言葉。まだあまり言葉を覚えていないころからこの感性を持っているのは本当に感受性が高いと思う。
思春期に知り合った農園の息子、トレヴァーとの交流が始まる。
自分がゲイだと知る。
スキンシップは本格的なセックスになる。
トレヴァーは、飲んだくれの父親から逃れ、トレーラーを乗り回し、ドラッグを摂取する。
リトルドッグにとって、ドラッグの過剰摂取や、無茶な運転による事故死は身近だった。だから友達の間では決して「さよなら」や「おやすみ」は言わない。
大学にゆくために街を出たリトルドッグに、やがてトレヴァーもその命運を辿ったとの知らせが入る。
リトルドッグが同性愛者であるということは、彼のアイデンティティともなっているのだが、周りからの偏見もすごくてちょっとびっくり。作者はまだ32歳(2021年現在)。それが10代の頃に「同性愛者なら女装するの?」とか「同性愛は何年で治るんだろう?」など、この感覚が50年前じゃなくて20年以前でこうだったのか。
リトルドッグの回想に差し込まれる数々のイメージ。詩のように漂うように流れる言葉。
解体されるシカ、冬の寒さに色づくオオカバマダラ、崖から落下するバッファローの集団、花の名前を持つ祖母と母、祖母の夫となった元アメリカ兵との触れ合い、末期癌に苦しむ祖母のうわごと、戦争体験の記憶から逃れられない母。
リトルドッグはやがて作家になる。
<「お前は自分で描いた絵の中に、自分を置いてみたことがある?(…)自分の姿を後ろから見て、どんどんその風景の中に入っていったことはある?ここにいる自分から離れたことは?」僕が文章を書くときに母さんが言っているのと同じことが起きているのだと、どうやったらうまく伝えられただろう?やっぱり僕達は似た者同士だって。僕らの手の影は、違うページの上で溶け合っているって。P11>
ゲイは差別対象で、過剰摂取や無茶な運転で友人たちが死んで、祖母は癌で苦しみ、母は戦争後遺症で苦しんでいる。
自分たちは何もしなくてもベトナム人だ。だがアメリカに根付く彼らは、新たな文化を作る一員となっている。
<僕はむかしからずっと、僕達は戦争から生まれたのだと自分に言い聞かせてきた ーでも、母さん、それは間違いだ。僕たちは美から生まれた。僕たちは決して、暴力が生んだ果実じゃないー むしろ美の果実はその暴力にも耐えたんだ。P269> -
昨年アメリカ在住の親友よりいただいた本。ひさびさの長編、そして海外翻訳小説ということで時間をかけて読了。詩的だな、と思っていたら詩人なのですね、この方。ベトナムからアメリカへ、祖母、母、そして自分の生きようが、文字が読めない母への手紙として綴られるというそのコンセプトが興味深かったです。翻訳小説はなかなか慣れないのですが、自分としてはどんなものか挑戦、まずは最後まで読み切った感です。
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リトル・ドックと呼ばれるベトナム系アメリカ人の主人公が、文字の読めない母に向けて書いた手紙という形で語られる自伝的小説?
母さんとランおばあちゃん、アメリカ人のポールおじいちゃんがいて、黄色い肌の僕がいる。
そして2つ上の白人の男の子トレヴァーとの出会い。
出てくる人たちは誰も彼もが生きづらさを抱えています。
ベトナム戦争は
私が子供時代に初めて知った戦争だった。日本に戦争があったことより先に植え付けられた記憶。。
それだからか、とても身近に、普遍的な物語として入ってきてしまった。
時にひるむくらいの貧しさや暴力的な哀しみが押し寄せてきて、何度も本を置いてしまったけど
それ以上に表現が美しくて、ドラッグ、セックス、暴力、死すらも、その奥にある愛がつかの間きらめいて、胸をつかまれてしまいます。
比喩、というか表現?言葉の美しさと描かれる哀しみとのギャップが魅力的なのかな。気がつくと付箋だらけになってしまった。
"僕は昔からずっと、僕たちは戦争から生まれたのだと自分に言い聞かせてきた_
でも、母さん、それは間違いだ。僕たちは、美から生まれた。
僕たちは決して、暴力が生んだ果実じゃない_むしろ美の果実はその暴力にも耐えたんだ。"
トレヴァーという男の子は、とても白人的で男性的に描かれていたけど、彼もまた傷だらけなのです。そんな彼の優しさを見せられた時にはその愛にキュンとしてしまった。
「俺に会う前のおまえはどんな存在だった?」
「溺れかけてたと思う」
沈黙。
「じゃあ、今のおまえは何なんだ?」と彼は眠りに沈みながら言った。
僕は一瞬考えた。「水」
このシーンが大好きだ❕
物語の合間にメタファとして、タィガー・ウッズや、蝶、ヘラジカ、バッファローなどが出てくるのも印象的。(仔牛については私のトラウマに…)
だのに最後にこんな風に書いてる
猿、ヘラジカ、牛、犬、蝶、バッファロー。人間の物語を語るのに動物の悲劇を使ってどうしようと言うのだろう_私たちの人生自体が動物の物語なのに。
オーシャン・ヴォンという名前も素敵ですよね、訳者の木原さんのあとがきにもあり、興味をそそられました。
ヴォンの詩集もぜひ読んでみたい
いつか翻訳されることを切望致します。
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ベトナム戦争を背景に一家で渡米したベトナム人移民の少年が主人公の自伝的小説。鮮烈で強烈で、痛ましく美しい作品だった。作者は気鋭の詩人というだけあり、研ぎ澄まされた言葉たちのときに非定形的な表現によって描き出される豊かな情景が心に焼きつく。『行き止まりの世界に生まれて』のビン・リュー監督による映画化企画があるというのにも大いに納得だ。
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“もしも地球の歴史に比べて一人一人の人生がこれほど短いもの-人がよく言うように、まばたきするような一瞬のこと-であるなら、たとえ生まれた日から死ぬまできらめいて生きたとしても、それはつかの間、きらめくにすぎない”。
アメリカでベトナム人のLGBTQ+として生きる著者の自伝的小説。
目立たぬように生きてきて、自分を初めて受け入れてくれた人は、労働者階級の白人男性だった。
著者の人生は、厳しい冬を乗り越えるために移動しながら生きる蝶のよう。
英語が読めない最愛の母に宛てた英語の手紙。他者理解と多様性の詩のような小説。
p162
ひょっとすると、僕たちが鏡を覗き込むのは、ただ美を-たとえそれが幻にすぎないとしても-探し求めているのではなく、意外にも自分がそこにまだ存在していることを確かめたいからなのかもしれない。僕たちが持っている狩られる側の体はまだ、完全に滅ぼされたわけではないのかも。すっかり掻き出されたわけではないのかもしれない、と。自分がいまだに自分であるのを見ることは一つの避難場所だ。拒絶されたことのない人間には、そんなことは知りようがない。
p198
言葉はただじっとしているだけ-ただ存在するだけ-ですべてを伝えられる。母さんの隣で横になっているだけで、僕の体、細胞の一つ一つがはっきりとした意味を伝えられたらいいのに。母さんにぴたりとくっついているのが、作家の体ではなく、言葉そのものだったらいいのに。
p276
もしも地球の歴史に比べて一人一人の人生がこれほど短いもの-人がよく言うように、まばたきするような一瞬のこと-であるなら、たとえ生まれた日から死ぬまできらめいて生きたとしても、それはつかの間、きらめくにすぎない。