- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106037641
作品紹介・あらすじ
民主主義の破壊者か。あるいは格差是正の救世主か。アメリカでは、なぜ反インテリの風潮が強いのか。なぜキリスト教が異様に盛んなのか。なぜビジネスマンが自己啓発に熱心なのか。なぜ政治が極端な道徳主義に走るのか。そのすべての謎を解く鍵は、米国のキリスト教が育んだ「反知性主義」にある。反知性主義の歴史を辿りながら、その恐るべきパワーと意外な効用を描く。
感想・レビュー・書評
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反知性主義とは知性に反対する主義ではなく、知性が権威を不当に行使している構造をチェックしようとすること。また、チェックしようとする過程で新たな知的創造が生み出される可能性もある、というのが本書のポイント。なので、都市文明を大学の外から鋭く批判したエマソンやソローも反知性主義。また、フィニーという反知性主義者が創立したオベリン大学も、米国初の男女共学大学であった。
一方で、反知性主義の抵抗精神は、独善的で自己中心的な世界観に籠る人びとを生み出す可能性も有している。今のところこちらに大きく傾いているようにも見える現代の反知性主義は、どのような知的創造を生み出すことができるだろうか。 -
森本あんり(1956年~)氏は、国際基督教大学卒、東京神学大学大学院修士、プリンストン神学大学院博士課程修了の神学者、牧師。国際基督教大学教授。
本書のタイトルである「反知性主義」という言葉は、米国人のリチャード・ホフスタッターが、マッカーシズム(1950年代にアメリカで発生した反共産主義に基づく社会・政治的運動)の嵐が吹き荒れたアメリカの知的伝統を表と裏の両面から辿り、ピュリツァ―賞も受賞した『アメリカの反知性主義』(1963年)に由来するもので、「反・知性」主義(およそ知性的なことに何でも反対すること)ではなく「反・知性主義」(知性主義に反対すること)を表した言葉である。
本書では、アメリカのキリスト教史を辿りつつ、「反知性主義」がどのように生まれ、変遷してきたのかを詳しく解説しているが、その性質は概ね以下のようなものである。
◆反知性主義の発生は、17世紀のアメリカ入植者のピューリタニズムの極端な知性主義が土壌にある。反知性主義の本質は、知性そのものに対する反感ではなく、知性と権力の固定的な結びつきに対する反感、知的な特権階級が存在することに対する反感である。アメリカは中世を経験せずに近代になってできた国であり、伝統的な権威構造が欠落した社会である。そうした社会では、知識人の果たす役割が突出していたと考えられ、それがアメリカで反知性主義が生まれた大きな背景である。
◆反知性主義は、知的で文化的だが、頽廃した罪の世界であるヨーロッパから脱して、新しい自分たちの世界を作ったと考えるアメリカ人をひとつにまとめる役割を果たした。
◆反知性主義がアメリカで力を持つ理由は、アメリカがあくまでも民主的で平等な社会を求めるからである。アメリカでは、神の前には、学のある者もない者も、大卒のインテリも小学校すら出ていない者も、それぞれが同じように尊い一人の人格と考えられている。また、民主主義はごく普通の人びとが道徳的な能力を持っていることを前提としているが、アメリカでは、理性の能力には個人差はあるにしても、適切な政治家を選ぶというような道徳的感覚は、生まれながらに人に備わっていると考えられている。
◆アメリカ的な福音のメッセージは、誰でも回心して真面目に生きれば救われるというものである。アメリカ人にとって、宗教とは困難に打ち勝ってこの世における成功をもたらす手段であり、有用な自己啓発の道具である。かくして、宗教的訓練はビジネスの手段のひとつとなる。
読了して、アメリカ人の政治、宗教、社会などに対する考え方や、とても知性があるとはいえないブッシュ(子)やトランプが大統領になったという事実には、アメリカ特有の宗教的・歴史的背景があるということがよくわかったし、知性主義(=権威主義)への反発や、平等な社会を求めるという、その本質については共感できるものでもあった。
しかし、翻って現在のアメリカを見ると、反知性主義がめざした理想からかけ離れ、むしろ「知性」そのものを拒否しているとしか思えない、嘆かわしい状況である。
アメリカの良き伝統は復活するのか。。。数日後に迎える大統領選挙の結果が、それを示してくれるだろう。
(2020年10月了) -
反知性主義とは何か。
最近メディアでよく見聞きする「反知性主義」という言葉。日本では意見や考えが違う相手に侮蔑を込めて上品に誹謗したいときに使われる言葉として定着した。
頭が悪い。なにも考えない。なんにでも脊髄反射する愚かな人々。など・・。
否定的な意味が染み付いた言葉だが、元々はアメリカで生まれた言葉と考えである。決して日本で使われる否定的な意味はない。むしろ積極的で肯定的な意味があるという。
「反知性主義」とは知性に反発し侮蔑する考えではない。まして学問を蔑ろにすることではない。「反知性主義」とは知性それ自体の権威化を拒否する。権力と結びついた知性を批判する。反骨の精神で伝統や慣習に囚われず新しい知の世界を作り上げるようとする。
つまり「反知性主義」とは権威や既存の社会秩序に依存せずとも知性がそれ自体として自立できるという知的確信のことをいう。
では、その確信を支えているものとは何か。
キリスト教の信仰である。
本書は「反知性主義」とタイトルにあるがアメリカがどのようにキリスト教をヨーロッパから受容し独自に発展させてきたかという歴史を建国時から辿る。いわば米国キリスト教受容史である。
建国初期の頃のアメリカでは、キリスト教の信仰が広まるにしたがい教会の権威化と牧師たちの高学歴化が起き、信仰のかたちが極端な知性主義と権威に包まれる。しかし、そこはアメリカ。米国に土着したキリスト教は二つのベクトルをもつ。ひとつは神と交わした契約を忠実に履行し義務を果たせば神が祝福を与えてくれるという信仰と道徳による俗世の成功主義。もつひとつは神の前では誰もが平等であるという徹底した平等主義。
この二つのベクトルが作用しエネルギーとなって、権威化した教会や知性に驕り高学歴化した牧師から信仰を個人に取り戻そうという運動が起きる。これが信仰復興運動(リバイバリズム)である。ここに「反知性主義」の土壌があるというのが本書の面白い視点と魅力だ。
読み終えて思うのが、ハリウッド映画は(本来の意味で)「反知性主義」の内容が多い。本書のなかでもいくつかの映画が言及されている。ハリウッドが描く映画はまさに「反知性主義」に貫かれた人たちが活躍する物語が多い。
例えば、地球が滅亡したり宇宙人やゾンビが襲ってきたとき勇敢に戦って地球やヒロインを救うのはどこかの研究室のなか机の上で理論を唱えているインテリじゃない。大方は組織に属さないアウトサイダーで、頭が良く知恵があって(まさに反知性主義!)勇敢で行動力がある主人公が事件を解決し危機から皆を救ってくれる。たとえ主人公が学者でも、どこにも属さない在野の研究者やエンジニアがいち早く危機に気づき人々に警告を発し謎を解いたりする。
おそらくこの先もトム・クルーズやジョニーデップが大学教授やエリートを演じることはないだろう。
この点に注目しながらこれから映画を観ると、違った面白みが増して楽しめるかもしれない。 -
佐藤優氏の使っている「反知性主義」とは異なり、著者が使っている「反知性主義」とは、知性を軽蔑する事ではなく、知性が権威と結びつく事への反発であり、何事も自分自身で判断する事を
求める態度である。
これは、実はアメリカのキリスト教を背景として生まれた、一人ひとりが神に向かい合う事を大切にする主義主張を源にするもの。
知性と理性がアメリカのキリスト教においてどの様な影響を与えてきているのかについて分かりやすく述べられています。 -
昨今の日本における「反知性主義」は、佐藤優が「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」と定義しているように、ネガティヴな意味で使われるケースが多い。著者はそういう側面があるということを認めつつも、しかし、反知性主義発祥の地であるアメリカにおいては、反知性主義はそれにとどまらないもっと積極的な意味を持っているとも言う。それを一言で言うと、「知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である」(p.262)。本書は、アメリカにおけるキリスト教の受容史をたどっていきながら、反知性主義の持つポジティヴな側面を浮き彫りにしていく。
ヨーロッパのキリスト教はアメリカに渡った途端に土着化して変質した。その特徴を端的にあらわすと、神の前では万人が平等だとする「ラディカルな平等主義」と、人間が信仰という義務を果たせば神は祝福を与えるという「宗教と道徳と成功の直結」、この二点に集約される。紆余曲折を経ながら、両者が一体となって誕生したのが反知性主義である。
建国当初から平等で民主的な国であったアメリカには、ヨーロッパのような伝統的な権威構造が存在しなかったため、知識人が国家の指導者となったり、権威や権力と結びついたりすることが多かった。しかし、「ラディカルな平等主義」はこれを許さない。すなわち、反知性主義は、知性そのものに対する反感ではなく、知性と権威とが結びつくことに対する反発なのであり、いかなる権威に対しても自分自身の判断で立ち向かっていくという精神態度のことである。その意味で、反知性主義とは「反権威主義」というニュアンスに近い。それがプラスに作用すれば、個々人の自尊心を高め、知性の越権行為に対するチェック機能が発揮され、アメリカの民主主義的な精神基盤を形成することになる。しかし、それがマイナスに働けば、独善的で自己中心的な世界観に立てこもることになる。よく悪くも「アメリカ的」である。
こうした思想は信仰の確信によって裏打ちされており、それは正しい行いをした者だけが成功するという「宗教と道徳と成功の直結」によって大衆に浸透していく。それはあまりにも単純な同一化であるが、そうであるがゆえに大衆への強い訴求力を持っていた。これら一連の動きを期せずして主導していたのが信仰復興運動(リバイバリズム)である。しかし、リバイバリズムは本質的に矛盾を内包している。富や権力に対する民衆の反感を基盤として巨大化していくその運動は、その大衆的成功のゆえに自らが権威や権力の一部分となって、本来の反エリート主義的な性格を失って自壊していくのである。
このように、反知性主義にはどこかアナーキーな要素が含まれており、アメリカにおいてリバタリアニズムが説得力を持っていることや、反進化論を唱える創造主義の影響力が強いことなども、こうした文脈で読み解いていかなければならないとする。
アメリカというよくわからない国を理解するうえで非常に収穫の多い読書体験だった。
さて、本書の最後に「日本に反知性主義は存在するか」と問題提起されている。そこでは明確な解は提示されていないのだが、自分なりに考えたところでは、「官僚主義」や「岩波文化人」、「大手マスコミ」に対する批判がそれに当たるのではないかと思い至った。本書末尾の著者の指摘はきわめて重要なので、そのまま引用してレビューを終える。
「知性と権力との固定的な結びつきは、どんな社会にも閉塞感をもたらす。現代日本でこの結びつきに楔を打ち込むには、まずは相手に負けないだけの優れた知性が必要だろう。と同時に、知性とはどこか別の世界から、自分に対する根本的な確信の根拠を得ていなければならない。日本にも、そういう真の反知性主義の担い手が続々と現れて、既存の秩序とは違う新しい価値の世界を切り拓いてくれるようになることを願っている」(p.275) -
みんな高評価で長文の感想書いてる意味がわからない。
高学歴な宗教的指導者のアンチテーゼとしてポピュリズム的な低学歴宗教的指導者の人気になるというストーリーと反知性主義のつながりが理解できない。米国の短いプロテスタント史とは関係なく世の中の半分の人は偏差値50以下なんだから古今東西問わずバカにマッチする文化や風習は存在するはず。
南部バプテストをベースとしたキリスト教系の高校と大学を出て、卒業後もキリスト教や聖書について普通の人よりも興味を持って能動的に知識を得てきたつもりだが、本書の内容が全く理解できない。
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アメリカの反知性主義について書かれた本。
社会的病理・ポピュリズム・ナショナリズム等で象徴的なキーワードとして聞いたことがあったが、その根底にあるアメリカ独自のキリスト教思想や歴史について記載されていて、非常に面白く興味深い内容だった。
■アメリカはもともと中世の無い社会、王様のいなかった社会だった歴史から、知識層が大きな力をもってきた。それに対抗するものが反知性主義。
■アメリカではキリスト教が独自の解釈で広まった。神との契約とは、神からの無償の慈悲を指すモノから、自らもしっかり信仰しないといけないという考えに変わる。これが信仰復興運動につながる。
■アメリカキリスト教の副産物として、極端に平等を求める思考がある。信仰復興運動と相まって強烈な反インテリにつながる。インテリなだけでは大統領になれない。