- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121020581
作品紹介・あらすじ
神仏に罪の有無や正邪を問う裁判-神判は、前近代の世界各地で広く見られ、日本では中世、湯起請や鉄火起請が犯罪の犯人捜しに、村落間の境界争いにと多用された。熱湯の中に手を入れ、あるいは焼けた鉄片を握り、火傷の有無で判決が下される過酷な裁判を、なぜ人々は支持したのか。為政者、被疑者、共同体各々の思惑をはかれば、神の名を借りた合理的精神すら見え隠れする-豊富な事例から当時の人々の心性を読み解く。
感想・レビュー・書評
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室町時代に全盛を迎える湯起請を中心に、中世~近世初期にかけての神判の歴史を辿る内容。豊富な事例を通覧することで、近世へ向けた中世の信仰心の変化が見えてくる過程が非常に興味深かった。
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神仏に罪の有無や正邪を問う裁判―神判は、前近代の世界各地で広く見られ、日本では中世、湯起請や鉄火起請が犯罪の犯人捜しに、村落間の境界争いにと多用された。熱湯の中に手を入れ、あるいは焼けた鉄片を握り、火傷の有無で判決が下される過酷な裁判を、なぜ人々は支持したのか。
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前から気になっていたけど、真田丸で鉄火起請が描かれていたので読みました。
湯起請や鉄火起請など現代人から見れば異質ですが、当時なりの合理性など様々な例から検証しています。
高校の先生など歴史の小話のネタ本にいいかもしれません。 -
古代から中世の日本では、紛争解決の手段のひとつとして「神判(しんぱん)」が存在していた。神に誓った上で沸かした湯、熱した泥、火にかけた鉄などを紛争当事者の代表たちに触らせ、無傷ならその主張は正しく、怪我すれば誤りだとするやり方だ。時代によって細かいところは違うが、この本では室町時代に流行した「湯起請(ゆぎしょう)」を主題として扱う。
従来の説では「中世日本人は信仰心篤く、それゆえに神判も有効とされていた」となっていたが、著者はその逆ではないかと唱える。古代から中世、近世へと移り変わる時代の中、神に誓うだけでは足りないと考えたからこそ、その証を過激な手段を使ってでも求めたのではないか、という論には説得力がある。
一方で、ただ信仰心のみを問題にしていたわけでもない。理性や常識、利害関係や上下関係、感情といった現代人と変わらない要素も重要な判断基準であり、実際の神判もしばしばそういった要素に左右されるものだった。
それでも信仰は現代の(一般的な)日本人よりははるかに比重が高く、中世日本人にとって大事な物差しのひとつであり続けた。その効力が薄れ、ほかの要素がより前に出てきたのは近世に入ってから。権力と権威が分散、並立していた中世から、それらが一元化されていった近世へ移り変わっていったのと、軌を一にしている。 -
熱湯にの中の石を素手で取らせる湯起請、真っ赤になるまで熱した鉄片を持たせる鉄火起請……火傷の有無や程度に「神慮」を見出し、当人の罪を決定する裁判制度。今となっては荒唐無稽かつ残酷でありとうてい認めることのできないこうした裁判は、古代から近世に至るまで広く行われていた。当時の人々は何を想いなぜこうした裁判を採用したのか。古文書に記された100件近い事例を紐解き、当時の人々の心性や社会情勢を探っていく。
著者は当時の人々の篤い信仰心の故という素朴な見解には与しない(そのような理解は裏を返せば当時の人々を現代人とは相容れない存在として認識することでもある)。かわりに著者は、神判を積極的に進める理由を、紛争・犯罪の当事者、それを扱う統治者、紛争を抱える共同体それぞれの立場から綿密に考察してゆく。そうして明らかにされる理由は、現代人からも一定の合理性を見出すことができる。荒唐無稽で迷信的なようにみえる神判ではあっても、そこには人々が当時の社会情勢で生き抜くための知恵なのだということがわかる。 -
まだ読み始めだが、興味深い内容で面白い。大学で法律を学んでいて、教授に勧められて借りました。
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くかたち、湯起請、鉄火起請。中世日本における、裁判のあり方、共同体の意識。上記三つについての調査と考察というシンプルな構成ながら、その時代の人々のあり方を考えさせられ面白かった。