元老―近代日本の真の指導者たち (中公新書)

著者 :
  • 中央公論新社
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レビュー : 13
  • Amazon.co.jp ・本 (319ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121023797

作品紹介・あらすじ

明治憲法成立後の1890年代以降、天皇の特別な補佐として、首相選出を始め、内閣の存廃、戦争、条約改正など重要国務を取り仕切った元老。近代日本は、伊藤博文、山県有朋、西園寺公望ら元老8人の指導下にあった。非公式な組織のため、当初は政治の黒幕として批判されたが、昭和初期の軍部台頭下では未成熟な立憲国家を補う存在として期待が高まる。本書は、半世紀にわたり権力中枢にいた元老から描く近代日本の軌跡である。

感想・レビュー・書評

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  • 本書は実に興味深い本である。
    明治において我が国は、西欧の科学技術のみならず政治システムを大胆に導入した。異文化の土壌に「立憲体制」を移植し機能させるために我が国の支配エリートが作り上げたものが「インフォーマルな元老」であったというのが本書の考察である。
    しかし、日本の歴史は「立憲体制」を補完する「元老政治」が明治大正には機能したものの、昭和には破綻し「軍部独裁体制」に変質してしまったことをも教えている。
    「元老政治」が最終的な目標としたものが本書で主張するように「政権交代可能な二大政党政治」であり、日本の昭和戦前期までの経過がそれが失敗した歴史であるとするならば、2012年の民主党政権の崩壊はもっと長い文脈でみる必要があるとも思えてくる。
    すなわち、日本においては明治期に導入された「立憲体制」は未だに咀嚼されていないのではないのかという疑問である。
    本書は読者にそのような想像の翼を広げさせてくれる良書であると思えた。

  • 卒業論文を書くために著者の元老本を読み漁ってまもなく10年が経つ。当時はそれなりに追い込まれた状況だったが、膨大な量の一次資料を丹念に読み解いて書かれたそれらの著作を、時が経つのを忘れるくらいに夢中で読んだのが思い出される。この本は、久しぶりに著者の元老本を読みたくなって手に取った。

    著者は本書を、「元老や元老制度論を、筆者なりに完成させ、近代日本にとってそれらは何だったのかを示す試み」と位置付ける。そして、なぜ元老制度は形成されたのか、憲法上の機関でない元老という存在への批判とそれへの元老の対応、用語としての「元勲」と「元老」の使われ方の変遷などが論じられる。さらに著者は、首相が公選されないという意味で民主主義的でない元老制度が、比較的適切な人物を首相に選び、世界の大勢を理解して近代日本の外交を指導することに大きな役割を果たしたことを示す。また、全体として元老や元老制度が、立憲政治の比較的円滑な展開や、政治参加の拡大と政党政治の展開を支えたことが指摘される。

    本書は、著者による『元老西園寺公望』、『山県有朋』、『伊藤博文』などの元老本が一冊にまとめられたようなものになっている。しかし、その内容はかなり重厚なもので、その後の新しい研究成果も盛り込まれたものだ。このため、この本が今から10年前に出版されていれば卒業論文がもっと書きやすかったであろうに、というようなことを思いながら、どこか懐かしい気持ちで一気に読んだ。

    【重要な内容】
    ◆大日本帝国憲法下の首相の決め方
    「よく知られているように、日本国憲法の下では首相は国会議員の投票によって決まる。しかし、日本国憲法ができる前、主に戦前の首相選定は公選でなく、現在のように民主的ではなかった。大日本帝国憲法(明治憲法)の条文上は、天皇が選定し任命する形になっていたが、実際には天皇はそこまで政治関与しないのが慣行となっていた。一八九〇年代半ばからは、内閣が危機に陥ったり、首相が辞表を天皇に提出したりすると、元老(または元勲)と呼ばれた人々が天皇から下問を受けた。元老たちは相談して、内閣の存続の可否を決め、内閣を存続させないとなると後継首相を選定し、天皇に推薦した。元老が一致して後継首相候補を推薦すると、天皇は必ずその人を首相に任命することが慣例となっていった。元老は大日本帝国憲法上の機関ではないインフォーマル(非公式)な組織であったが、天皇からの下問を常に受ける集団として、慣例的な公式機関となっていった。日本近代の歴史において、後継首相の選定などを行って天皇を補佐した元老は、伊藤博文(長州出身)・山県有朋(同前)・黒田清隆(薩摩出身)・井上馨(長州出身)・松方正義(薩摩出身)・西郷従道(同前、西郷隆盛の弟)・大山巌(薩摩出身)・西園寺公望(公家出身)の八人である。」(「はじめに」より)

    ◆インフォーマルな組織の意義
    「一般に元老のようなインフォーマルな組織は、民主主義的でなく、陰で権力を行使して公的組織を動かす、望ましくないものとされる。本当に常にそうであろうか。明治維新のような大変革の後に近代国家を創出するのは暗中模索の作業である。日本の発展段階に対応し、どのような組織形態がよいのか試行錯誤しながら、たえず改革していかなければならない。しかし、適正な組織形成には時間がかかり、混乱も生じるので、その間に臨時的に対応したのが、維新後の薩長を中心としたインフォーマルな藩閥有力者の集団であり、一八九〇年代に形成・定着した元老であったといえる。日本の国民が外交・内政に成熟し、それを背景に政党と議会政治が相応に発達すれば、元老・元老制度は必要でなくなる。しかし、イギリスが一七世紀以来二〇〇年以上かけて発達させた政党政治を、帝国主義の厳しい時代の制約下で、日本が維新後五〇~六〇年で発達させるのは残念ながら難しく、後継首相推薦問題を中心に元老が存続せざるを得ない状態が続いたのである。しかし、元老も補充がうまくいかず、高齢の西園寺公望一人になるなどの限界があって、一人元老の権力は、陸・海軍も含め極めて発展した官僚制の組織間のセクショナリズムに阻まれるようになった。大日本帝国憲法上の限界もあって、一九三〇年代から四〇年代前半に適切な国策を統合して提示できない状況になり、日本は太平洋戦争へと破局の道をたどっていった。すなわち、近代日本は国力は増大させたが、それに見合う国民意識や国家統合組織の発達、首相や閣僚など国政を統括する有能なリーダーの育成がうまくいかなかったのである。日露戦争前にはジャーナリズムの間では、元老や元老制度は克服されるべき存在と論じられ始めた。しかし昭和期には、唯一の元老となった西園寺公望は、未成熟な近代立憲国家の機能不全を少しでも補うための存在として期待された。この事実は、日本の近代化の苦悩を象徴している。」(同前)

    ◆腐敗の少なさが近代化を成功させる
    「元老制度形成と定着を論じた上で、最後に強調しておきたいのは、日本の近代化が成功した大きな要因の一つは、彼らの中に共通の目標とモラルがあったことである。それは、維新の過程で死んでいった先輩・友人たちの志を受け継いで、日本の独立を守り、発展させなければならぬ、ということだった。また、私的な利益のために権力を使い、蓄財をしてはならぬ、という節度もあった。もちろん、彼ら元老にまでなった人々は皆、当時の庶民と比べると、邸宅に住み別荘を持ち、裕福な生活をしていたし、自由民権派等の藩閥反対勢力からオーバーに攻撃されることもあった。しかし、当時の欧米の有力政治家や財界人、日本の財界人、あるいは第二次世界大戦後の開発途上国の多くの有力政治家などと比べると、ほとんどの元老ははるかに質素な暮らしぶりをしていた。元老の中で最大の権力者である伊藤・山県も、その巨大な権力を蓄財に使おうとはしなかった。そもそも、明治天皇が質素な生活を奨励しており、腐敗を抑制する精神は、天皇、元老から日本全体に広がっていったのである。…開発途上国につきものの腐敗が少なく、その限られた様々な資源を近代化と安全保障のために、かなり合理的に投入できたことが、明治国家の成功の重要な要素であった。」(第四章、p.103-104)

    ◆近代日本に果たした役割
    「元老のなかで中心的な役割を果たしたのは、まず伊藤博文であり、次いで一九〇〇年(明治三三)以降には伊藤と山県有朋、一九〇九年一〇月に伊藤が暗殺された後は山県であった。しかし、山県は第一次世界大戦終了前後になると、新しい時代状況への適応に自信をなくし、最初の本格的政党内閣である原敬内閣の原首相に依存するようになっていった。その後、一九三七年(昭和一二)初頭まで、西園寺公望が元老の中心だった。元老の伊藤・西園寺や原首相は、帝国主義時代の列強間の国際規範や、形成途上の近代国際法を理解した。その上で、日本の国力の限界を常に考え、何よりも国際協調と東アジアに安定した国際秩序を形成することを重視し、日本の近代化に加えて政党政治の確立という民主化を促進した。山県は伊藤・西園寺・原首相と異なり、政党の台頭を抑制し藩閥官僚・官僚政治を維持しようとしたが、極端な対外膨張主義者・植民地主義者でなく、列強や中国との関係が悪化して日本が国際的に孤立することがないようにと、常に考えていた。すなわち元老は、後継首相推薦やその他の重要問題で天皇を輔弼(補佐)することで、日本の国際協調と民主化・近代化を安定して進めていくことに、全体として寄与したといえる。明治維新の際に小国であった日本は、第一次世界大戦後に米・英に次ぐ三大国の一つにまで発展し、国際連盟の常任理事国になり、一〇年以上、ウィルソン主義にもとづく新しい世界秩序を支える側に立った。その要因の一つは、世界や東アジアの流れに対する長期的なヴィジョンを持った元老が、後継首相推薦などを通して外交・内政の調整と方向付けを行ったことにある。」(終章、p.298-299)

    ◆天皇との関係
    「三天皇ともに、伊藤が大枠を設計した憲法に従い、君主機関説的な天皇であろうとしていたが、三人の個性や置かれた時代状況、側近の能力などに影響され、その行動はある程度異なっていた。明治天皇は伊藤を最も信頼し、君主機関説的な憲法観を理解し、それに従う行動を習得してゆき、必要な場合に調停的に政治に関与して影響を及ぼすことで、権力の正当性を形成し確立した。また、全体の最終的な調停者としての天皇の役割を損なわない形で、外交・内政両面で伊藤の目指す方向を支持した。大正天皇は政治の教育を受ける機会がなく、山県に抑え込まれ、最終的には病気で政治にまったく関われなくなった。しかし、国際協調やイギリス風の立憲政治に対する志向があり、それは裕仁皇太子に影響を及ぼした。それのみならず、大正天皇が病気になる前に醸し出していた空気は、のちに原が組閣し、イギリス風の政党政治を確立しようとして活動する支えとなった。元老西園寺と、二五歳で践祚(即位)した昭和天皇の関係は、伊藤と明治天皇の関係とは少し異なる。西園寺と昭和天皇・牧野伸顕内大臣らは、国際協調などの価値観を共有していたが、何か事件が起こった際の具体的な対応法は違った。天皇が践祚して約五年間、満州事変の頃までは、高齢の西園寺との接触が少なかったことも原因して、昭和天皇は牧野内大臣ら宮中側近に影響された。この結果、バランスのよい調停的政治関与ができなかったため、天皇の権力の正当性の形成に失敗した。これは、西園寺は首相を二度務め、伊藤・山県ら大物元老の行動を間近で見てきたのに対し、そうした経験のない牧野ら宮中側近には、政治経験の浅い天皇を輔弼する力が不十分だったからである。牧野らは、若く威信のない天皇の慣行を破る行動が及ぼす影響を十分に予測することができず、天皇に正義感に駆られた強硬に過ぎる行動をさせたり(田中義一首相に対する問責)、逆に必要以上に弱気になって陸軍の統帥権に関わる手続き違反を黙認したり(朝鮮軍の独断越境)した。その後、天皇も苦い経験を経ながら政治的に成長していった。しかし、天皇にも、八〇歳を超えた一人元老の西園寺にも、また西園寺が選んだ首相たちにも、いったん増長した陸軍を十分に抑えられなくなってしまった。その結果、日本は国際協調を維持することができなくなった。」(同前、p.299-300)

    ◆制度の形成と確立
    「そこでまずわかったことは、元老という大日本帝国憲法にない慣例的制度は、自然にできたのではなく、新しい状況に対応し、天皇が調停者としての君主機関説的天皇であり続けるべきと考える伊藤博文と明治天皇らの意思によって、形成され修正されていったことである。大日本帝国憲法上は、後継首相選定は誰の輔弼もなく天皇が行うことになっていた。しかし、君主機関説的天皇の創出を目指す伊藤の意思を背景に、憲法が制定される前から、後継首相推薦は、藩閥官僚の有力者を結集した内閣の首相が中心となり、閣員と相談の上で行われた。これは憲法が制定されてからも同様であった。ところが、初期議会において政党にどのように対応するのかをめぐり、政党側に宥和的な伊藤・井上馨と、抑圧的な山県・黒田清隆ら他の藩閥有力者の間で意見が対立し、内閣で後継首相を推薦することができなくなった。そこで伊藤は後継首相を推薦するメンバーとして、伊藤・山県・黒田・井上馨・松方正義の五人を想定したが、明治天皇は、藩閥最有力者である伊藤・山県・黒田に対応を下問した。こうして第二次伊藤内閣ができた。その後、内閣が倒れるたびに、天皇は藩閥の有力者に下問して、推薦された首相候補者を天皇が裁可して、首相が決まることが慣行化していった。日清戦争後には、下問を受けるようになった伊藤・山県・黒田・井上・松方らは元老と呼ばれるようになった。…このように元老制度は形成されていったが、時には、一八九七年一二月に第二次松方内閣が辞表を提出した際のように、天皇が黒田枢密院議長一人に下問し(天皇は次期首相として伊藤を想定)、黒田は伊藤か山県が適当と奉答し、天皇が伊藤に組閣の命を下すようなこともあった。伊藤は天皇の絶大な信頼を受けていることをわかっていたが、天皇のこのような行為がさらに進展すると、せっかく憲法で設定した君主機関説的な天皇から逸脱する。つまり、政治責任が天皇に及ぶようになり、国家の安定にとって望ましくない。そこで、一八九八年初頭に第三次伊藤内閣の閣員を選定するにあたり、一月一〇日に伊藤は公式に『元老』として、首相選定の下問を受けたことのある伊藤・山県・黒田・井上に加えて、西郷従道、大山巌を召集するよう天皇に奏請した。こうして『元老』が召集され、時局への対応策を協議した。首相を辞任した直後なので選ばれなかったものと思われる松方を含め、この七人のメンバーはその後、後継首相推薦の下問を天皇から常に受けるようになった(ただし大山のみは、日露戦争前の一時期と、戦争後の七年間は元老から外れる)。こうして、元老という呼び名と組織が定着していき、一八九八年に元老という憲法にない慣例的な機関が確立した。このような過程から、元老になるとは、明治期においては、天皇(明治天皇)と伊藤を中心に、元老に選ばれた他のメンバーに承認されて実現することがわかる。大正期以降は、大正天皇に権力がほとんどないので、元老たちの承認が何より重要で、一九一六年(大正五)に西園寺が補充されたのが最後である。…元老たちは、それぞれ政治・外交・軍事・財政等のいくつかの得意分野を持っていた。また、第二次世界大戦後の開発途上国のリーダーたちの多くに比べると、天皇や国家・国民への忠誠心(公共心)を持ち、全体として私的利益に極度に走ることはなかった。また、元老が合意して決めたことは、各人の実力を振るって全員で支え、国政を安定させようという意識を共有していた。」(同前、p.301-304)

    ◆一人元老制の原因と実相
    「一九二四年(大正一三)七月に元老松方が死去すると、元老は西園寺一人のみとなり、元老存廃の不安は続く。西園寺にもしものことがあると、後継首相を天皇に推薦する者がいなくなってしまうのである。この時、すでに病気であった大正天皇はまったく政務に関わることができず、若い裕仁皇太子が摂政として形式的な役割を果たしていただけであるので、元老の役割は重要であった。しかし、首相を経験した有力政治家で公平に後継首相推薦を行える元老候補は、見当たらなかった。最有力元老候補と思われる原が一九二一年に暗殺され、もう一人の有力候補者と思われる加藤高明も二六年(大正一五)に病死したからである。このようななかで一人元老の西園寺は、自分に万一のことがあっても、内大臣を中心に後継首相推薦が行える慣行を作っていった。」(同前、p.306-307)

    ◆内大臣中心の後継首相推薦と昭和天皇
    「また、元老が事実上機能を果たさなくなると、昭和天皇は湯浅内大臣と緊密に意思疎通を図って、元老の欠如を補完せざるを得なくなった。さらに、昭和天皇が好まない日独伊三国軍事同盟交渉が陸軍を中心に進むと、危機感を抱いた天皇は、後継首相の人選等への関与を深めていく。一九四〇年一月に阿部内閣が倒れると、天皇は湯浅内大臣に下問しながら、湯浅を誘導する形で、海軍大将の米内光政が後継首相に推薦されるように計らった。…三国同盟の締結という重大な問題に対し、元老を事実上欠いていたので、天皇は、憲法上の君主機関説的な天皇の枠を逸脱しないギリギリのところで、政治に関与して、本来元老が行うべきバランスの取れた判断を探らなくてはならなかったのである。伊藤と明治天皇は、君主機関説的な天皇を維持しようとして元老制度を形成しており、その機能がなくなると、当然生じてくる問題であった。」(同前、p.308-309)

  • 東2法経図・6F開架:B1/5/2379/K

  • 現代の私たちは間接的であっても首相が選挙によって選ばれることが当たり前と思っているが、必ずしもそれが最善ではないこともあるということ。日本の近代化が成功したのは政党政治の統治能力を疑い、私心なき公共心で長期的視点から国家建設を行った元老の功績が大きかった。 近年密室政治は批判されるが、元老制はその最たるものであるがゆえに首相推薦の正当性を保持するための政治的努力は並々ならぬものがある。天皇や元老が開戦を止められなかったのかという後世の批判は皮相的で、無理に行えば権威を失墜して一層開戦を速めたであろう。 他の学者を批判するような箇所がいくつかあり、客観性を損ねている。伊藤博文への傾倒も強く感じられ伊藤の評価はほかの文献にもあたってみる必要がある。

  • 主人公は伊藤博文、山県有朋、西園寺公望の3人。
    それにしても、元老と協力しながら郡部を抑えてイギリス型の二大政党制を目指した原敬のすごさと浜口雄幸は尊敬に値する。

  • 元老制度を通して、明治〜昭和初期の日本を描く。
    制度と書いたけど、元老には法律的に何の根拠もない。にもかかわらず、後継首相を推薦し、国の政策判断に寄与してきた。およそ民主的ではなかった。山県が政党内閣を支持しなかったのは、選挙のために腐敗・汚職がまかり通るからだし、国よりも選挙を優先に考えるからだ。山県が指摘する政党内閣の危険性は、現代もまったく変わらない。でも、もう元老はいないし二度と現れない。政治的には不幸な時代だ。

  • 元老について辿るとそのまま日本の近代史になるんだな。元老というものに殊更興味がなかったとしても明治維新後にどのように日本の政治制度が整えられていったのかがよくわかるし、原敬なんかの政治手腕も凄いもんがあるなと改めて勉強になることが多かった。西園寺と昭和天皇と陸軍や右翼との政治的バトルのところは、著者の熱意も伝わってきて、それぞれの想いを考えたときになんだか胸が熱くなってしまった。

  • 元老が近代日本の外交、内政にどのような役割を果たしたのか、天皇との関係、そもそも元老とはどのような制度で誰が作り変えていったのか、制度の正当性はどのように確保されたのか、そして最後に一人元老となった西園寺死後、誰が首相を決めていったのか、について詳細かつ、わかりやすく解説している。

    日本のような後進国がいきなり議会制度を機能させることは難しく、その意味で元老というインフォーマルな制度が日本の民主制度発展にもった積極的な役割をもっと評価すべきであるという主張には大いに首肯できる。


    ところで、「あとがき」で慶應義塾大学の八代先生のお名前が登場してきて、ちょっとびっくり。私も2003年の在外研究時にはお世話になったので。著者の伊藤先生も2015年のオックスフォード滞在時にお世話になったのだとか。

  • 日本史選択であれば覚えているであろう戦前の「元老」。おそらく、主に一線を退いた政治家が裏で首相選定など重大な政務を牛耳ったというイメージが強いように思われる。(というか僕がそう)しかし、この本は元老の仕事をより広くとらえ、かつ元老の影響を重視することで、イメージの刷新を狙うものである。まず、こう指摘される。
    「近年まで、「元老」の用語を、藩閥有力政治家で第一線を退いても政治的影響力を及ぼす人々、と第一線を退くというニュアンスを込めて高校日本史教科書でも説明するのが普通であった。これは、元老とは「黒幕」という現代イメージを、歴史上の慣例的制度に遡らせて理解しようとしたものであり、ようやく修正された。」p71
    ここから、一般のイメージより大きな役割を果たした元老の実像が主要な政治史的事件に沿って展開される。そして、こうまとめる。
    「元老は、後継首相推薦やその他の重要問題で天皇を補佐することで、日本の国際協調と民主化・近代化を安定して進めていくことに、全体として寄与したと言える。…世界や東アジアの流れに対する長期的なヴィジョンを持った元老が、後継首相推薦などを通して外交・内政の調整と方向づけを行った。」p298
    本書は新書にしては珍しい、「他研究者への当てつけ」の側面を持った本である。学会で論争を繰り広げるのではなく、成果を直接一般市民に問うという変化球である。また、豊富に一次資料を引用することで、他説への批判も行う。単なる自説の開陳や事例の解説に止まらないという意味で、日本史学の豊穣な世界を覗かせてくれる、中公新書きっての歴史書になり得る一冊である。

  • 京都大学大学院法学研究科教授(日本政治外交史)の伊藤之雄(1952-)による、近代日本における元老制度の概説。

    【構成】
    序章 元老とは何か
    第1章 明治維新後のリーダー選定
    第2章 憲法制定と元老制度形成
    第3章 日清戦争後の定着
    第4章 元老と東アジアの秩序・近代化
    第5章 政党の台頭による制度の動揺
    第6章 第一次護憲運動による危機
    第7章 元老制度存廃の戦い
    第8章 原内閣下の首相権力拡大
    第9章 危機をどう乗り越えるか
    第10章 新しい首相推薦様式
    第11章 昭和天皇の若さと理想
    第12章 満州事変後の軍部台頭の時代
    第13章 二・二六事件と元老権力
    第14章 太平洋戦争は避けられないか
    終章 元老制度と近代日本

    本書で紹介されるのは近代日本において、帝国憲法には全く記されていないが、しかし明確に政治上の重要事項に関わり続けた「元老」と呼ばれる立場の人々である。

    著者が元老とみなしているのは、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、西園寺公望の8名である。このほかに、元老として天皇を補佐するよう「元勲優遇」の勅語を受けた桂太郎、それに準ずる沙汰書を受けた大隈重信が挙げられる。また、元老になる可能性はあったが、死亡によりそれがかなわなかった原敬、加藤高明は候補者と言える。

    内閣制度・帝国憲法の運用が確立した1890年代半ばは、初期議会・日清戦争を経て、伊藤、山県、黒田、松方が少なくとも1度は内閣総理大臣として組閣した経験を持った。しかし、政党の台頭を受け、元勲のトップである伊藤ですら、第二次内閣退陣時に単独での後任首相の奏薦をすることができなかった。このため、明治天皇の下問を受けて、合議により次期首相の奏薦をする元老制度がスタートすることになる。

    評者は本書のテーマについて、専門的な知見を持たない。
    素人なりに読めば、桂太郎を元老と見なさないと明言しているところに象徴されるように、元老を他研究者よりも狭義に定義していることに伊藤の主張の第一の特徴があるように思える。
    元勲優遇の詔勅を受け、元老会議に出席して、後任首相奏薦についての合議に加わった桂ですら、他の元老から正式な元老と認められていないし、桂自身の自覚も無いという理由で、退けている。松方、西園寺から元老入りを反対された大隈も然り。
    一方で、加藤孝明の元老入りの可能性については、ごく主観的な評価を下している。外相時の加藤高明に辛い評価をつけていた西園寺が、首相就任に同意した点、没後10年あまりが立った時点で「ひとかどの人物だった」と表現した点をもって「元老に推していたであろう」というのはあまり根拠のない主張のように感じる。

    第二の特徴としては、元老自身が「元老という憲法外のグループの正統性」をどう担保しようとしていたのか、を軸に元老制度の推移を論じていることである。
    桂園時代が終わる頃から、新聞は元老の非立憲性について、批判を展開する。そこが大隈の追い風になるわけだが、山県はこれに対抗する。その一方で、薩派の山本権兵衛を退ける一方で、政友会の原敬のリーダーシップを頼りに、元老制度の維持を図ろうとする。
    山県、松方が相次いで死を迎えた後、一人元老となった西園寺は元老制度の後半を一身に引きうけ、その幕引き係となった。元老の補充をしなかったのも、いつまでも元老が首相を選定するのではなく、「憲政の常道」に代表される政党政治に基づく首相交代を目指した。一番最後に元老となり、最期まで元老であり続けた西園寺が「元老」という存在を必要悪とみなしている姿は面白い。

    著者はすでに明治天皇、伊藤博文、山県有朋、原敬、西園寺公望、昭和天皇の評伝を書き上げ、近代史における宮中・府中の力学を論じてきた。本書はその仕上げとしての「元老論」である。引用される先行研究のほとんどが著者自身の著作物となっており、著者の自信、主張の強さを随所に感じる。西園寺が病床についてからの立ち位置については、説が分かれているようであり、本書の主張だけを鵜呑みにするのは避けたいが、それにしても説得力は十分にある。

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著者プロフィール

1952年福井県生まれ。京都大学大学院文学研究科修了、京都大学大学院法学研究科教授を経て、現在、京都大学名誉教授。主な著書に『原敬―外交と政治の理想』『伊藤博文―近代日本を創った男』『政党政治と天皇―日本の歴史22』(講談社)、『元老 西園寺公望―古希からの挑戦』『山県有朋―愚直な権力者の生涯』(文春新書)、『明治天皇―むら雲を吹く秋風にはれそめて』(ミネルヴァ書房)、『昭和天皇伝』(文藝春秋、司馬遼太郎賞受賞)、『元老―近代日本の真の指導者たち』『大隈重信(上)―「巨人」が夢見たもの』『大隈重信(下)―「巨人」が築いたもの』(中公新書)、『原敬と政党政治の確立』(編著、千倉書房)などがある。

「2020年 『真実の原敬 維新を超えた宰相』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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