幸福とは何か - ソクラテスからアラン、ラッセルまで (中公新書 2495)
- 中央公論新社 (2018年6月20日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121024954
作品紹介・あらすじ
幸福とは何か。この問いに哲学者たちはどう向き合ってきたのか。共同体の秩序と個人の衝突に直面した古代ギリシアのソクラテス、アリストテレスに始まり、道徳と幸福の対立を見据えたイギリス経験論のヒューム、アダム・スミス。さらに人類が世界大戦へと行きついた二〇世紀のアラン、ラッセルまで。ヘーゲル研究で知られる在野の哲学者が、日常の地平から西洋哲学を捉えなおし、幸福のかたちを浮き彫りにする。
感想・レビュー・書評
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幸福論の西洋哲学史の解説書である。三好達治の詩やメーテルリンクの青い鳥などを取り上げてわかりやすくイメージを説明してくれる。当然ながら「幸福」の定義は時代と場所によって違う。ギリシャローマの「幸福」は神と結びついていた。神に認められることが幸福であり、徳や善から導かれる行動こそが幸福なのだ。次に近代になると社会性が現れ、そこに「共感」という概念が出てくる。カント以降、幸福は生活への満足であり道徳とは一線を引かれる。そしてアランからラッセルへ。自己への興味から外界への興味が幸福を生む。孤立や自省から逃れ、興味の対象をより広範囲に広げ好意的に捉えられるものを増やしていくことこそが幸福を獲得する方法となる。近代以降、進化が良いことという思い込みに囚われて進化の奴隷となってきた現代人にとって、文明の発展が人々の孤立と自閉を生み出しているという悲観的な現代で締めくくられる。しかしラッセルが「幸福論」を書いたのは100年近く前。現代を語るのに現代哲学にまったく触れないのは物足りない。著者が高齢なこともあるだろうが現代に対してなぜこうも悲観的なのか。光はないのか。
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本を読みながら、印象に残った箇所、覚えておきたい箇所をノートに写すようにしているのだけれど、この本は、全部写したくなるくらい最初から最後まで感動的な一冊だった。クセノフォン、エピクロス、セネカなど古代ギリシャから始まり、ベーコン、デカルト、ヒュームなど西洋近代を経て、アダム・スミス、カント、アラン、ラッセルの幸福論を復習っていく。時代とともに人々が「幸福」という観念に見出すものが移り変わることを学び、それを経て、2023年の今、どういう状態が「幸福」と言えるのかを考察する。
最も印象に残ったのは本の後半、「幸福」と「自由」、「幸福」と「思考」あるいは「理論」がそれぞれ相反する観念であるという点。安定して静謐な状態の中でもたらされる幸福と、向上心やときに競争心をも必要とする自由や思考。その二つは方向性の違う観念なので、両立可能なものではない。手に入るのがどちらか一方の場合、いま自分は幸せになりたいのか、自由になりたいのか。穏やかに暮らしたいのか、刺激を求めているのか。そのときどき、自らに問いかけて立ち位置を確認しながら生きていく必要があると感じた。 -
レポート書くために読んだ本。
功利主義を中心として書こうとしてたけど、それについてあんまり書かれてなかったのが残念。 -
プラトン・アリストテレスの古代から、西洋近代、20世紀の哲学者まで、幸福についての捉え方がまとまっていて勉強になります。
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まず文章が硬すぎる。アリストテレスを道学者風などと批判的に分析するが、著者もそれに劣らず、といった感がある。おそらく最後に検討したラッセルに依拠して、人の幸せとは、地味でひかえ目で身近な穏やかな生活を隣人と片寄せあって過ごすこと、というのが著者の「幸福観」であると思われる。その帰結から、古代、近代、20世紀の西欧哲学者の幸福論が論断されていて、全体に客観的な記述ではない。
勿論、いいたいことはわかるし、間違っているとは思えないが、個々人が他者との共存を守る範囲では、派手で目立つ華やかな生活を送ろうとすることも、個人の自由であるし、その人の「幸せ」であることは否定しえないように思う。国との関係では「大状況の色に染まらない、自分独自の幸福」というのは、その通りではあるが、著者の主張は、身の丈に合った慎ましい生活を甘受せよ、という押しつけ風にどうしても聞こえてしまう。
他方で、経済学の祖・アダム・スミスが共感の道徳を踏まえて、各人の差異に応じて、他人との取引・交換をするという社会活動こそが経済活動の根幹をなす、と考えていたという趣旨の分析は面白かった。また時代ごとの社会の変化・当時の思想潮流とを踏まえて、哲学史が検討されているのも参考になる。
それにしても、やはり全体として堅苦しさがあることは否めない。 -
幸福論が書きたくて参考図書として購入。そもそも、哲学で幸福を論じるのは難しいことなんだな。人によって感じ方も違うし、時代背景でも大きく変わるだろうし。それでも、ある程度共通する幸せってあるのではないだろうか。本書にはいろいろとそのヒントが書かれていた。僕が最も悩んでいるのは次のことだ。幸せになるために、いまを耐え忍ぶというのは幸せなことなのだろうか。志望校に合格するという未来には、きっと自分の幸せがあるはず。そのために、いま好きなことやりたいことを我慢して、好きでもないやりたくもないことを無理強いされている。それって、やっぱり何か違う。学ぶこと自体が楽しいと思える子だったら何の問題もない。毎日の勉強が苦しいと思っている子に、将来の夢に向かってがんばれと言い続けるのは正しいことなのだろうか。僕の幸せって、仕事を終えて帰ってきて、夕飯食べながら録画しておいたドラマを見ること。そんな日常の些細なことなのだ。ちょいむずの数学の問題が解けた~というときもまあまあ幸せ。それから、ときどき、人生のアクセントとして、誰かや何かとの出会いがあったりすればいい。たまたま、今日は郡司さんの本で知った中村恭子さんの日本画を、わざわざ大阪中之島まで見に行った。素晴らしい作品だった。その色鮮やかさ、繊細さ、さらにユーモラスな表情など、もう、ちょっと衝撃的な出会いであった。作者ご本人にも会えて、少しだけお話ができた。こんな出会いが、僕にとっては格別に幸せな時間なのだ。村上春樹がよく言っている。小確幸=小さいけれど確かな幸せ。これがやっぱり万人に共通な幸せなのだと思う。でも、大金持ちだとか、大きな権力をもった人とか、また違うのかなあ。でもなあ・・・。ということで、幸福論を12回連載することになった暁には、小確幸の具体例を挙げながら、こんなのが幸せなんじゃないかなあ、という語り口で行こう、と思う。
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本書はヘーゲルの本の翻訳などで知られている長谷川氏による「幸福論」の概説です。本書では、ソクラテスから始まり、アリストテレス、セネカ、そしてヒューム、アダム・スミス、ベンサムを経て、20世紀のアラン、ラッセルにいたる哲学者が幸福をどう捉えていたか、を解説しつつ、実は長谷川氏本人の「幸福論」も展開されている本です。結論から言えば非常に満足していますし、長谷川氏が冒頭に述べている「静かで平穏で身近」なところに幸せはある、という主張に100%同意できました。しかし、めまぐるしく外部環境が変化し、競争や効率性に対する強迫観念が渦巻いている現代社会に生きる我々からすれば、「静かで平穏で身近なところにある幸せ」は、少し贅沢で得るのが難しいものになっているのかもしれません。
個人的には、最後に紹介されていたバートランド・ラッセルの幸福論に強く共感しました。ラッセルが不幸の原因として戒めている「自分自身への興味」は、仏教的に言えば自我への執着でしょう。ラッセルは、対策として興味を自分の外に向けるべきだと述べていますが、仏教であればむしろ自己を見つめ続けよ、さすれば自己など無いこと(無我)を悟り、自分という存在は他者とつながっているということを認識するのだ、という道筋を示されるのかと思います。その意味では仏教の幸福論(例えば密教や禅宗、浄土宗などでどう考えられているか)というテーマも取り上げてもらえるとさらに面白かったかなとは思いました。 -
151-H
閲覧新書 -
・幸福とは「心身の健全さ」である
・幸福になるためにすべきことは「穏やかな前進」である
・結果的に「自分自身に対して無関心になる」ことが幸福論のゴール
「倫理的な緊張に堪え忍び、ストイックな努力を積み重ねることによって得られる価値序列の最上位に位置するもの」といった幸福観に対して、「静かで、穏やかで、身近にあるゆるやかなもの」という幸福観を比較提示しているのが本書の大枠だと思います。
何故かは分かりませんが、自分自身が前者の幸福観に支配されていたことが本書を読んで分かりました。
何というか、「幸福になれない(と感じている)のは、幸福になるのがとても大変なことだからだ」と自分に言い聞かせていたような気がしました。
「幸福とは身近なものであり、だからといって簡単に手に入るものではないけれど、少なくとも修行のような人生を経なければ得られないような高みにあるものではない」というのが、本書を読んで感じた幸福に対するイメージです。
幸福になるためにすべきことを一言でまとめると、「穏やかな前進」になるかと思いました。
本書から得た気付きは2点あり、一つは「幸福とは瞬間ではなく期間に対する言葉である」こと、もう一つは「幸福には成立と持続の2側面がある」ことです。
よく「幸福は"ある"ものだ」という意見と、「幸福は"なる"ものだ」という意見の対立を見ることがありますが、前者は幸福の「成立」に、後者は幸福の「持続」に対応しているのかと思いました。
それらはどちらが正しいというものではなく、幸福を構成する2側面であると考えると、辻褄が合うような気がしました。
つまり、幸福で"ある"ために「身近にある心の穏やかさの重要性に気づく」必要があり、また幸福に"なる"(幸福である状態を持続する)ために「外への興味・関心に集中し、小さな前進の努力を重ねる」必要があるのだと理解しました。
これらを一つにまとめると、「穏やかな前進」になりました。
本書を読んで幸福というとらえどころの無いものに対する見方がかなり定まったように思います。
やはり色々考えても幸福というものはなかなか判然とせず、雲を掴むような感覚を感じるなぁと思います。
幸福論と哲学的思考は相性が悪い、と本書に書かれていましたが、全くその通りだなと思います。
幸福について真剣に考えた結果よく分からなくなった、という体験自体が大きな学びかなと思い始めました。
自己の内面に向きすぎると必ず不幸になる、という話からも、「幸福って何だろう?」なんていう取り留めもない考えはほどほどにして、「幸福とかよく分からんけどとりあえず外の世界にある面白そうなものを探そう」というのが明日からの心構えになりそうです。