正義とは何か-現代政治哲学の6つの視点 (中公新書 2505)

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  • 中央公論新社
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  • / ISBN・EAN: 9784121025050

感想・レビュー・書評

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  • ソクラテスの無知の知
    論敵トラシュマコスの主張=ポリスの国制を取り上げて、どの国制においても「正義」は支配階級の利益になることだと豪語している。
    「支配階級というのは、自分の利益に合わせて法律を制定する。これこそが被支配者たちにとって正しいことなのだと宣言し、これを踏み外した者を法律違反者の犯罪人として懲罰する。したがって強い者の利益になることこそが、正しいことなのだ」

    ソクラテスは「国家」でこう述べている。
    「そのものが何であるかを知らずに、そのものについて語るもので、大衆自身の集合に際して形作られる多数者の通念以外の何物でもなく、それを詭弁家達は知恵と称している。」

    ソクラテスは真理を追求する生き方が正しい生き方であり、また善い人生だと考えた。


    ロールズ

    「格差原理」=「最も不遇な人々」の最大の便益に資するものであることを要求
    逆に言えば最も不遇な人々の最大の便益に資さない社会的・経済的な不平等は認められない。

    「正義にかなった貯蓄の原理」=世代間正義のこと。
    後世代の人々の便益も考慮して、現在のソーシャルミニマムの水準を調整することを要求している。

    アマルティア・センの主張
    平等であるべきは基本財でなく「基本的ケイパビリティ」である。

    「ケイパビリティ」とは、ある人が何かを行ったり、何かになったりするための、実質的な自由のこと。
    個人的選択の自由に価値を置くセンは、各人の財や機能ではなく、ケイパビリティを個人的福利を評価する際の情報的基礎としている。

    アダム・スミスの重商主義批判

    重商主義とは金銀の蓄積によって国富を増やそうとするもの。
    外国から支払われる金銀を目当てにして、自国の輸出業に補助金を出してテコ入れ。
    それによって適正な資源配分と価格決定が阻まれる。

    スミスの社会的分業の考え方
    社会において必要とされる「協力と援助」を誰かの慈悲心ではなく、不特定多数の自愛心に基づく行為の集積場(市場)によって確保することができる

    コミュニタリアン(共同体主義者)の主張
    →広義のリベラリズムでは人々の善い生を可能にする正義は構想できない。人々の生活に固有の道徳性を与えるとされる共同体の物語に則った政治によって、善い生を再興させるべき。

    サンデルによると、どの目的からも独立した自我を想定(無知のヴェールのような)して正義を考えることは誤りであり、それによって正当化される正義は意味を持たない。
    想定されるべきは、文化や伝統などの文脈を持たない「負荷なき自我」ではなく、特定の共同体の中で特定の生を生きている人間、つまり人生に意味を付与している「位置付けられた自我」

    リベラリズムは善い生を個人的選択の問題としており、中立を気取っている。
    手続きの確かさだけを追求する「手続き的共和国」であると批判している。
    政治はアリストテレスの目的論に倣って、諸制度をその目的に照らして評価するのが正しいと。

    「政治的リベラリズム」=人びとの生の全体をカバーするのではなく、公共的(政治的)事柄にかかわる部分のみをカバーするという意味で、包括的ではなく、政治的である。
    政治的にリベラルな社会では、人々は私的事柄に関しては各々の包括的世界観に浸っているかもしれないが、公共的事柄に関しては政治的リベラルとして振る舞う。 

    マッキンタイアの善い生
    →物語の提供者として彼が持ち出すのは理性でも運命でも自然でもなく、共同体である。
    Xにとっての善い生は、その人が属する共同体の伝統の中にある。
    そのため、個人の善い生のために、伝統を保守することになる。

    アマルティア•センのコミュニタリアニズム批判
    →人間のアイデンティティはたしかに共同体のなかで形成されるけれど、人間は文化的伝統から離れて合理的判断を下しつつ、アイデンティティを形成することができる。

    コスモポリタニズム

    ポッゲの主張→グローバルな貧者はらグローバル•エリートからの積極的な関与によって、彼らが本来あるはずの状態に危害を加えられている。
    そのため彼らは貧者を本来あるはずの状態に戻すために、賠償しなければならない。

  • 現代正義論はジョン・ロールズから始まると言われるが、本書ではロールズの正義論を踏まえた上で、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム、フェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムという5つの正義の構想を順に解説している。

    ロールズの正義論は、正義が平等に守るべき価値としての基本的諸自由を示す第一原理と、その実現のための社会のあり方としての格差原理、公正な機会均等の原理からなる第二原理によって構成されている。

    ロールズの正義論は、強者による弱者の保護でもなく、哲人王によって上から与えられるものでもない正義の構想を作りあげた。そして、この理論をさらに深める形で、「何の平等か」という観点からアマルティア・センのケイパビリティ・アプローチなどが生まれ、現代正義論の根幹が形成されている。

    このロールズ正義論に対して、その根底にある価値基準や前提とする人間像の面から疑義を呈したのが、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムであろう。

    リバタリアニズムは、ロールズ正義論による社会の構想の大きな柱である再配分による平等の実現というプロセスについて、人間の自由や財産権といった価値をより強く主張することで見直しを迫っている。この価値の源流は、ジョン・ロックの財産権に関する議論やアダム・スミスの自愛心の議論などに遡ることができる。

    本書ではリバタリアニズムの中でも特にノージックの最小国家論を詳しく説明している。ノージックは人びとが何かを正統に保有する権利を基盤に置くことで、ロールズ正義論が社会全体の平等な資源配分からスタートしていた議論を、個人の視点に組み立て直したという印象を受けた。

    また、そのことによりリバタリアニズムは、国家という仕組みが時に必要以上に個人の自由に介入するものへと拡張していくことに対する歯止めの役割を果たしていると思える。

    一方のコミュニタリアニズムは、ロールズ正義論が抽象的で普遍的な「善」の存在を前提としていることに、疑問を呈している。

    ロールズ正義論では、人々の自由や権利を平等に配分するための判断は、自らが何者であるか、どのような社会に暮らしているかということを知らない人々によって行われる。しかしコミュニタリアニズムは、何が「善」であるかはそのような抽象的な環境の中で考えられるものではなく、その社会を構成する人々の間で「共通善」に関する議論を通じて形成されていくべきものであるという考えに立脚している。

    マイケル・サンデルらが主に論じているこの考え方は、善に関する哲学的な議論の役割を再認識させてくれる。人びとが論争を通じて共有できる価値観を形成していくというプロセスはまさに政治そのものであり、正義を作り上げていく政治の役割を改めて提起したという見方もできるであろう。

    一方で、コミュニタリアニズムに関して注意しなければならないのは、サンデルらの議論においては具体的な生を伴うコミュニティ(共同体)の役割は重要であることは述べられているが、その中で取り上げられるべき価値は、そのコミュニティの中の特定の宗教や伝統などによって与えられるものではないという点である。

    また、共通善は特定の一つの善に必ずしも収斂するものではなく、人びとのあいだにも道徳的価値観に関する不一致が存在する状況は避けられないということも、コミュニタリアニズムは認めている。

    コミュニタリアニズムの考え方は、ロールズの後期の哲学にも影響を与えた。また、「それでは善はどのようにして構築されるのか」、「人々はコミュニティの枠を超えた普遍的な立場からも善について考えることはできるのではないか」、そして「グローバル化の中でコミュニティの範囲はどこまで拡大できるのか」といったさまざまな議論を通じて、現代正義論の発展に貢献している。

    本書の中盤以降では、フェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムが取り上げられる。これらは、より具体的な課題に即して正義の問題を考える視点の中から生まれてきた考え方であると思う。

    ロールズ正義論の中で、ジェンダーの問題はあまり大きく扱われてはいない。非常に抽象性の高い正義の構想を構築するために捨象されたという側面もあるとは思うが、一方でロールズが「家族」というのを私的領域として扱い、その中での役割分担は資源の配分には積極的に踏み込まなかったという点は、課題としてあげられるであろう。

    フェミニズムの議論は、個人の自由や資源の配分の仕組みに対して、正義の理論の設計において明示的に対象とされてこなかった女性という存在を通じて、再考を促している。本書では特に、マーサ・ヌスバウムの議論を取り上げて、そのことを示してくれている。

    ヌスバウムは、ロールズの正義論における個人の自由や資源の配分が、力と能力がほぼ等しい人々による「社会契約」によって行われる点に疑問を呈している。そして、ジェンダー正義の問題に取り組む上でも、家族という枠組みではなく個人により支点を置いた仕組みを構築すべきであると論じている。

    そのためにヌスバウムが提案しているのは、ケイパビリティ・アプローチである。ケイパビリティとは個人が何かを行ったり、何かになったりするための実質的自由のことであり、これをいかに配分するかということにより重点を置くべきであるというのがヌスバウムの議論である。

    個人の選択肢を広げることで個人の善い生を実現するということが、女性のみならず全ての個人が尊重される社会のあり方につながるという意味で、この議論はフェミニズムの枠を超えた議論にも広がっていくものであると感じた。

    コスモポリタニズムとナショナリズムは、いずれもグローバル化が進む現代社会における問題関心を反映した正義の議論である。

    グローバルな貧困や紛争、環境問題などについて、我々はどのような態度をとるべきか。これらの問題は現実的な課題として我々の生活ともつながりを持っているので、正義論においても重要なテーマである。

    コスモポリタニズムは、このような課題に対して国境の枠を超えた正義の構想の必要性を主張する考え方である。その基礎にあるのは、国家や文化的共同体に対する意味での「個人主義」、全ての人を正義の対象とする「普遍性」、特定の条件に依拠するのではない「一般性」であるという。

    コスモポリタニズムの正義論の基盤となる考え方は、いくつかあるという。本書では、「社会契約説」、「功利主義」、「人権説」、「カント主義」の4つが紹介されている。社会契約の構想を国際社会の課題にも拡大していく社会契約説、人権やカントの道徳論のような規範的理論を背景にする考え方の他に、功利主義の議論を他国の他者にまで広げて考える議論もあるという点には驚かされた。

    一方、ナショナリズムの議論は、これらの課題を国民国家という単位の中における問題であると捉えている。ロールズ自身がこの意味でのナショナリズムの思想家であったと言え、基本諸自由の平等な分配は、国内社会において達成されることを目標としていた。ある意味で国家というコミュニティを基盤としたコミュニタリアニズムともいえるであろう。

    ただし、正義論におけるナショナリズムの議論は、国内における分配の正義の問題だけに収斂されるものではない。本書では、デイヴィッド・ミラーの議論が紹介されている。ミラーは、ネーションの境界に倫理的な意味を持たせ、国境によって社会正義やそれを支える民主主義の射程を区切ることは認める立場をとっている。しかし、グローバルな課題の中には、ナショナル・アイデンティティでは対処ができない新たな挑戦とも言えるものがあるということも、同時に認めている。

    ミラーはこの課題に対処するため、普遍的な価値としての基本的人権や、複数のネーションによる国際的な協働が必要であるということを述べている。コスモポリタニズムのように正義の基盤を国境の外まで一足飛びに拡張するということはしないものの、正義の実現のためには何らかのグローバルな構想が必要であるということは、議論の中に含まれているといえる。

    ナショナリズムの議論が考えさせてくれるもう一つの論点は、愛国心とは何かということである。国家という枠組みが宗教によっても民族によっても定義できない現代において、正義論は愛国心を考える一つの源泉となっている。

    「生まれによる祖国と市民権による祖国」を区別した古代ギリシアの哲学者キケロの時代から、共有された公共的なものとその実現に奉仕するという姿勢は、リベラリズムの文脈でのナショナリズムの議論にもつながりを持っている。それは、基本的自由の平等といった道徳的理想を共有するコミュニティに対する献身によって正義を前進させる、という意味での愛国心である。

    フェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムのそれぞれが、正義論の理論や実践に関する様々な課題を浮き彫りにし、正義論をより深めていくことに貢献してきたということがよく分かった。

    本書を読むことで、ロールズ正義論が現代の正義論の中にいかに大きな影響を与えているかということが分かった。そして、様々な正義の構想が展開されることで、多様でグローバル化した現代において善い社会を作っていくための議論が深まっていくことが大切であると感じた。

  • ハンナ・アーレントに興味を持った時に、アイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』という本を見つけた。そこから、「正義」「平等」「権利」といった言葉が気になりはじめ、本書を手に取った。同時に、正義といえば、という存在なのか、ジョン・ロールズ『正義論』も手に取ったが、その分厚さに圧倒されて未読。こちらを先に…と開いてみると、「正義」にまつわる現代西洋思想が、ジョン・ロールズ『正義論』を軸に発展してきたことがわかり、本書もロールズを基軸とした構成となっている。

    ロールズ以前の思想、以後の思想を6つに分類し、それぞれの思想の生まれた歴史的背景についても説明されている。今までなんとなく知った気になって、同意しかねるように思っていた思想も、そういう時代だったのであれば、と納得することもできた。時代背景や個人の経験と思想との間の切っても切れない関係性を実感する。

    正義に関する内容のため、それを社会としてどう実現するか=平等・公平性をどう実現するかという視点が生まれるので、経済政策「分配」にもちろん話が及ぶ。となると、マルクスの名前も何度か出てくる。一度向き合おうとして挫折したけど、そろそろもう一度向き合ってみても良い時期かもしれない。

    本書は、正義にまつわる現代西洋思想の”地図”のように使うことができそう。

  • 読み終わってからだいぶ経ってしまった。

    なんというか、「正義」とは何か、「公正」とは何か、私の理解が及ばなくなってきた。
    正しさ、には勝てば官軍負ければ賊軍、という言葉があるように、力の強いものに分が与えられる。
    思想の問題もあるけれど、国によって考え方が違い、立場によってそ「正しさ」は簡単に変わってしまう。
    そこで役立つのが、この本の前に読んだ「エンパシー」なのかも。

    昨日、だったかNHKの朝のニュースで映画監督も務めている作家(申し訳なし、私は存じ上げない)の最新作についてインタビューしてた。
    息子の死をきっかけに宗教にはまった母親と、やめてほしい父親(第三章は娘の目線からの章のようだったけれどちゃんと聞いてなかった。)の目線から描いた小説。
    「信じる」ということについての話だった。

    ここでまた、「信じる」とは…?
    となってしまいそうなのではあるけれどもw
    「白黒はっきりつけるのではなく、グレーも許容しましょう。
    そうすることで、少なくとも対立は少なく収めることができる。」
    といった内容で締めていた。

    お互いに歩み寄りができれば、着地点はより近くに置くことができるよなぁ。
    じっくり読みたかったけど、時間切れ(延滞しました、すみません)。
    またの機会に。

    あ、ジェンダーについても触れられていて、これに関しても読んでみたい。
    そしてまたまたついでに、あるブログで間接的に紹介されていた、
    村上春樹氏の「ダンスダンスダンス」も読みたい!

    そして私ももっと文章書くの上手になりたい‼

  • 正義を6つの視点から論じた初心者向けの解説書。わかりにくいところもあったが違いはわかった。

  • ロールズの正義論を軸に、正義とは何かを論じている。先行研究史にも近い印象をもった。

    恥ずかしながら、ロールズの正義論は初めて読んだため、半分以上分からずに終わってしまったが、全体を見渡すという事に於いては良書だと感じた。

    勉強しても勉強しても知らない事がある。

    悔しいような、楽しいような。

    知的好奇心を満たしていきたい。

  • ロールズの正義論をベースに、「正義とは何か」を考える。議論はリベラリズム、リバタリアニズム、コミュリタリアニズム、フェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムの6つの思想へ展開されていき、現代社会における位置付けが説明されている。

    ロールズの考えがこのグローバル社会においても重要視されていると感じたし、これを批判的に捉えてきたのちの思想家たちの持論も、数多くの政治行動、政策に影響を与えているのがよくわかった。

  • ロールズ以降の政治哲学の潮流がコンパクトにまとめられています。
    良書だと思います。

  • 正義論を、リベラリズム・リバタリアニズム・コミュニタリアニズム・フェミニズム・コスモポリタニズム・ナショナリズムという6つの立場から纏めている。終章が、名言の塊で熱い。
    「社会に生きる哲学者は民主的決定を受け入れなければならない」「社会に生きる哲学者は普遍主義を諦めなければならない」「人間の脳は生まれつき正義のアルゴリズムが実装されているわけではありません」
    ここでの哲学者とは、職業としての哲学者だけではなく、社会の中で生きる我々自身のことを指していると思われる。
    民主主義をケア・点検しつづけるという視点を持ち続けながら、皆で学びながら「正しさ」を見つけていくことが重要そうだ。

  • 再読20200419

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著者プロフィール

神島裕子(かみしま・ゆうこ)
1971年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程(国際社会科学専攻)修了。博士(学術)。立命館大学総合心理学部教授。専攻は政治哲学、国際倫理学。著書に『正義とは何か――現代政治哲学の6つの視点』(中公新書、2018年)など。

「2022年 『政治的リベラリズム 増補版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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