鉄砲を捨てた日本人: 日本史に学ぶ軍縮 (中公文庫 ヘ 4-1)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (202ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122018006

作品紹介・あらすじ

16世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量生産にもまさる鉄砲使用国となった。にも拘らず江戸時代を通じて日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻った。武器の歴史において起るべからざることが起ったのである。同時代の西欧では鉄砲の使用・拡大によって戦争に明け暮れていたことを考えると、この日本のが示唆するところは大きい。

感想・レビュー・書評

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  • 16世紀半ばに、ポルトガル商人が日本の種子島に鉄砲を売り込みに来航した。

    日本列島は戦国・群雄割拠の時代であった。
    以降、合戦での勝敗に決定的な影響を与える武器となる鉄砲を、戦国大名はこぞって調達しようとした。
    南蛮貿易の開始した当初は、ヨーロッパからの輸入品がその多くを占めていたが、のちに鉄砲の国産化が各地で進み、堺や根来といった鉄砲の名産地が生まれた。

    信長による長篠合戦での「鉄砲三段撃ち」のエピソードは、従来の騎兵中心の戦術が時代遅れとなってしまったことを象徴的に示していた。
    鉄砲は、天下統一のスピードを加速させた。

    豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵において、日本軍は火力の面で朝鮮軍や明軍を圧倒していた。また江戸時代初期には日本から東南アジアへ少数ながらも鉄砲が輸出されていたと言う。

    江戸時代には、徐々に鉄砲の使用に制限が加えられるようになり、鉄砲は武士階級の独占物となった。
    鉄砲生産は、堺の鉄砲鍛冶のみが堺の奉行の許可のもとで細々と行うものとなった。
    鉄砲職人は食い扶持を求めて刀鍛治などに転職し、武士の魂ともされる刀や装飾的で華麗な鎧・甲冑などの制作に勤しむようになった。

    江戸時代の外交体制は鎖国と呼ばれる。
    幕末に外国船が来航するようになるまでは、海外との交流は限定的であり、対外戦争に巻き込まれることもなく国内における内乱も発生しなかった。
    戦争に明け暮れた西欧諸国に比べ、日本の兵器製造の技術は立ち遅れ、米国から来たペリー提督からは江戸湾防備の強化の必要性を指摘される始末であった。

    その後、明治維新によって新生国家となったわが国は、欧米諸国に追いつき追い越すことを目指し、富国強兵をスローガンの一つに掲げて、軍制整備や近代兵器の調達による軍事力強化を達成した。
    日清・日露戦争の頃には、わが国の兵器製造の技術は欧米と比べても遜色ないほどに成長した。
    他の非欧米圏の国々と比べて、これほど早く欧米に追いつくことができた背景には、経済成長著しかった江戸時代に培ったものづくりの高度な技術という蓄積があったからである。

    江戸時代には鉄砲が放棄され、軍事技術は停滞を見せた。
    しかし、江戸時代には豊かで平和的・文化的な生活が営まれていた。
    軍事技術の停滞と、国民の豊かさは両立したのだ。

    現在、世界には多くの軍事大国が存在する。
    江戸時代とは国際環境が全く異なっているものの、鉄砲を捨てた江戸日本の歴史から学ぶことがあるのではないか。

  • なぜ鉄砲という近代兵器を捨て刀の時代に戻ったのか。
    世界で日本だけに起きた文明の後戻り。
    面白かったあ

  • 210
    「16世紀後半の日本は、非西欧圏で唯一、鉄砲の大量生産にもまさる鉄砲使用国となった。にも拘らず江戸時代を通じて日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻った。武器の歴史において起るべからざることが起ったのである。同時代の西欧では鉄砲の使用・拡大によって戦争に明け暮れていたことを考えると、この日本の〈奇跡〉が示唆するところは大きい。」

    「戦争を防ぐための手段として、軍縮という考えがある。しかしこれは他国を相当程度信用できないとなかなか話が進まないものであり、実際に世界の歴史の中で軍縮がおこなわれた実例は数えるほどしかありません。しかもそれは実際のところ、財政負担の削減などの経済上・事実上の要求からやむなく行ったというのが事実。しかし、世界の歴史の中で、特異な軍事力の発展が見られた後に、自らそれを封印して軍縮に成功し、300年近くにわたって平和な社会を築いた国が存在した。それは、ぼくたちの国、日本でした。」
    (『世界史読書案内』津野田興一著 より紹介)

    目次
    初めに 世に知られていない物語
    第1話 日本に鉄砲が伝来した
    第2話 鉄砲はどのように広まったか
    第3話 鉄砲の全盛時代
    第4話 日本はなぜ鉄砲を放棄したか
    第5話 鉄砲から刀へ
    第6話 近代兵器の再来
    結び 日本史に学ぶ軍縮

  • 何故戦国時代に鉄砲が伝来し、鉄砲の生産高、技術等が当時の世界的な水準からみても高かった(とこの本で知った)にもかかわらず、刀に回帰し、江戸時代になっては銃文化が廃れていったのかということを書こうとしたお話。
    歴史的な事象として銃というより優れた武器が存在していたにも関わらず、それが主流にならずに廃れていったということはあるが、”何故そういう選択をしたか”はこちらの本からは読み解けなかった。筆者はそこに軍縮の可能性を感じたらしいが、その辺りもあまり触れられてはいない。
    結局、日本人は元々”刀”を非常に重視していた事、その度合いが欧州人より高かった事ということなのだろうか。。一応、著者があげた日本人が鉄砲を捨てた理由は、以下の5つらしい。

    1 銃嫌いの武士が多数いたこと(武士そのものの人口が多かったこともある)
    2 地政学的な理由(国防が自然条件により、通常の武器で十分だったことや日本自体の国力が高く征服するには強国すぎた)
    3 刀剣が日本ではヨーロッパよりはるかに象徴的な意味合いをもっていたため、鉄砲がとってかわるにはヨーロッパよりはるかにおおきい損失を意味しただろうこと
    4 キリスト教や商業に対する西洋人の態度は受け入れ難いというとりあえず西側のものなんでも反対精神
    5 美的感覚の問題:銃撃シーンはただの暴力だが、刀という武器は使うものの体の優美な動きと結びついている。刀剣は危険含みの「剣の舞」たりうる。

    種子島に鉄砲が由来した頃、日本の文盲率の低さや鉄を扱う技術が非常に高く等々、昔の日本を随分高く評価されているが、何だかむず痒さがある。

    P.29
    一六世紀後半に日本人が合戦に用いた鉄砲数は、当時のヨーロッパのどの国がもっていた鉄砲の数よりも多かったのである。

    P.30
    アメリカ合衆国における最古の教育機関は、一六三六年に創設されたハーヴァード大学だが、鎖国はハーヴァード大学創設に三ヶ月先立っていた。

    P.35
    聖フランシスコ・ザビエルは二年の滞日ののち一五五二年にこう記している。「彼らは戦さに関わる一切のことにわたって、てがらを重んじ、誉れとしますが、金・銀で装飾された武器をことのほか大切にしています。家の中にいるときも外にいるときも大刀、小刀を腰に帯び、寝る時に両刀を枕元の刀掛けにかけて眠るのです。要するに彼らは、私がこれまで見てきたいずこの国の人々よりも武器を重んじます」。

    P.36
    日本の技術水準がその当時すでに高かったことである。日本の銅は、当時のヨーロッパの銅よりも良質であったとみられるし、まちがいなくその価格は安かった。(中略)鉄の価格も、日本鉄はイギリスよりも安かった。そのイギリスはヨーロッパ随一の鉄生産国であった。(中略)そのイギリスの東インド株式会社が一六一三年に日本に商館を解説して、そこで売るために鉄の鋳塊(インゴット)を積み出すにも、買い手がまったく見つからないという事態となった。一六一五年の会社の期末報告書に嘆かわしいし商況が綴られているーー「コロマンデル[インドの東海岸]の鉄鋼はまったく相手にされない。これはホセアンダー号に積載してきたものであるが、日本鉄にくらべて品質が劣るとみなされている。イギリスの鉄の売れ行きはさらに悪くなる見込みである。日本鉄は最良のものでも一ピクル当たりわずか二十メイスしかしない」。(中略)日本は原料生産国であったばかりではない。今日もそうだが、日本は当時もすぐれた工業国であった。イエズス会の一宣教師は、当時、日本には紙の種類がヨーロッパの十倍はあろうと推定している。日本の紙の中には今日使うクリネックス、つまり、ちり紙やはな紙もあった。(中略)一六三七年、ピーター・マンディなるイギリス人がたまたま中国の沿岸マカオにいた。その地で彼は、大坂商人の一行がはな紙を使っているのを見てはなはだ感心したのであった。マンディは、そのときの模様を後に次のように記している。「この都市で数人の日本人を見かけた。彼らは何やら柔らかくて丈夫そうな紙を小さく折り畳んで所持しており、これで鼻をかむ。鼻をかんだあとどうするかというと、もうその紙は汚いものという体で捨ててしまう。顔を拭うには日本人はリネンのハンカチーフ(手ぬぐいのことか?)をもっていた」。マンディが感心したのは無理もない。当時のイギリスでは、大抵の人は服の袖で鼻をかんでいたのだから。しかし、日本で、もっとも大量に製造されていた物が何かというと、それは武器であって、二百年間ぐらいは日本は世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。一四三八年、この年は例外であったにせよ、中国向けだけで六万七千に及ぶ日本刀が輸出されている。それから百十四年経て来日したイタリア商人フランセスコ・カルレッチは、日本の盛んな武器輸出に言及し、「攻撃用、防御用を問わず、ありとあらゆる武器があり、この国は世界で、最大の武器供給国だと思う」と記している。

    P.40
    これらは一級品の武器であったが、なかんずく日本刀がすぐれていた。日本刀の刀身にまさる鋭い切れ味のものはこの世に存在しないのではないか。焼き戻した鋼を切れるように日本刀は作刀されていて、事実、切ることができた。かなり太い釘でも日本刀にかかれば、ひとたまりもなかったのである。一五六〇年代のこと、イエズス会の神父が、好戦的なことこの上もない石山本願寺を訪れたことがあった。(中略)「鋭利なナイフでやわらかい肉を切るのがさしも容易なごとくに」日本刀で鎧を切り通すことができた、と報告する羽目となった。もう一人オランダ人アーノルド・モンタナスも当時「日本人の使うアラビア・ペルシャ風の彎刀型の太刀は出来ばえが見事で、すばらしい焼きが入っているから、ヨーロッパ製の剣など、菖蒲や灯心草をなで切るように真二つに切り裂いてしまう」という観察を下している。(中略)モンタナスの話は検証できるものであって、実際検証されたことがある。傑出した今世紀の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、一六世紀の日本刀によって近代ヨーロッパ製の剣を真二つに着る実験に立ち会ったのがそれだし、また一五世紀の名工兼元(二代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを写したフィルムが日本にある。こうしたことがありえないと思う者は、刀身に見事な鍛鋼が四百万層ばかりも打ち込まれるまで、兼元のような名工が、連日連夜、打ち、鋳固め、打固めを続けるということを想像すればよいだろう。刀身というよりも、刀の部分に打ち込まれるといった方が正確か。刀以外の部分はもっとやわらかい鋼鉄からできているからだ。刀身全部が刃のようにカチカチに作られると、ガラスのように脆くなり、一撃のものではじけとんでしまう。刀身の固さを層によって異らしめるという技術は、ヨーロッパの鍛冶工がついに成し遂げることのなかったものである。そのためヨーロッパ製の剣は日本刀ほど鋭くならなかった。

    P.43
    当時の日本人は自分たちの識字率が思いのほか高いのを改めて自覚させられてかえって驚いていた。というのも、日本人には信じられないくらいに、来日する外国人のうちには文盲の者が多かったからである。実際のところ、日本人からみると西洋人は多くの点でかなり単純に見えた。最初に来日したポルトガル人3名の冒険家に対する日本の記録は、そのあたりの事情をよく伝えている。資料([鉄砲記])には次のような闊達な描写がある。「比是西南蛮種之買胡也・・其食也。手食而不箸。徒知嘴欲之愜其情。不知文字之通其理也。所謂買胡致一処輙止。此其種也。以其所有。易其所無而巳。非可怪者矣。

    P.77
    秀吉の刀狩令のようなものはヨーロッパにはなかった。これを別とすれば、一五九七年冬の時点にあっては、けだし日本の軍事的様相はヨーロッパのいずれの国ともさほど異なるものではなかった。ヨーロッパの支配階級も、日本の武士と同様の考えをもっていたようである。もっとも、ヨーロッパでは火器の到来が日本よりお早かったので火器に対する激しい反発も日本より早くに始まっていた。というのも、武器が進歩すると、殺される人数や速さが増し、人間の道徳的発達おそこなわれるわけだが、このことを発見したのは日本人のみではなかったのである。たとえば、フランスのブレイズ・モントリュックとシュバリエ・バヤールは、日本の武士に勝るとも劣らぬくらいに火器を蔑視していた。イタリアのジャン・パオロ・ヴィテリ将軍にいたっては火器に対する蔑視の度合は一段と強かった。ヴィテリ将軍は、自分の剣の名手を敵の銃卒が安全距離から撃ち殺すのを無礼のきわみと憤り、ブッティの攻略に成功したあと、その場にいた敵の鉄砲隊全員の手首を切り落とした。

    P.119
    日本における鉄砲の研究とその発達は一七二五年のはるか以前に全く停止していて先細りの状態にあったからだ。口径の大きな銃のせいs買うが可能になり、また銃身の破裂を防ぐに足る強い鋼鉄が開発できれば、あとは火打石銃から中性子爆弾へと道は通じている。日本人は火縄銃の口径を大きくすることにも、銃身の破裂を防ぐ鋼鉄を開発することにもいち早く成功していた。ところが、日本人はその後二世紀にわたりそれ以上の開発を進めなかった。一六三六年、平戸のオランダ通称施設が精巧な新式の火打石式ピストルを一ダース将軍に献上した際に、日本人は技術開発の課題がなんであるかについて少なくとも知識はえていた。にもかかわらず、それに感心を示さなかったのである。(中略)初期の日本製の鉄砲は驚くほどよくできていた。そのいくつかは、一六世紀から一七世紀に日本で二、三世代の期間、戦争で使用された。その後二世紀は幕府の倉庫に眠っていたが、ペルー提督による開国後、日本で再び活発に火器が使用されはじめるに及んで陽の目をみ、近代日本の軍隊用の雷管付き小銃に改造された。この改造銃の働きは見事であった。下って一九〇四年の日露戦争時には、それらの改造銃数千梃に二度目の改造が施されボルト仕掛けの小銃となった。アメリカの鉄砲専門家のロバート・キンブローは、この二度の解像の施された種子島銃について「私の見たのは一六〇〇年代の銘と日付のあるボルト仕掛けの小銃である。この改造中は近代の火薬を使っても爆発しなかった!昔の日本の職人の技術は最高級の賛美にあたりする」と言っている。これもかつての職人たちが鉄砲から背をそむけたのは技術不足というためというよりむしろ興味不足であったということの明らかな証左である。

  • イエズス会やフランシスコ会が日本の植民地化も視野に入れたカトリックの伝教を行っていて、秀吉や家康がそれにどう対応したか、という本はいくつか読んできた

    そこから「16世紀に伝わった鉄砲は、日本が戦国時代であったことも影響して大量生産され、にほんは世界最大の鉄砲輸出国になっていた」という事実は知っていた

    この本はその先にある、日本人はなぜ鉄砲を捨て、刀文化に戻ったのかという事実に目を向ける。それは秀吉や家康が大航海時代の世界潮流から日本を守ったことで必然的に江戸時代の鎖国に繋がり、それが結果的に日本文化を形成したことに繋がる。

    渡辺京二の名著「逝きし世の面影」にも繋がる、外国人が日本という稀有な存在を考察した本。

    念の為言えば、この「稀有な国日本」というのは、渡辺京二が言うようにすでに失われてしまっており、決して過度な愛国心に基づいてはいない。ただ、自分の国が昔こうであったという事実は、やはり知っておくべきだと思うのだ。

  • 武士の美学が鉄砲を斥(しりぞ)けたとすれば、鉄砲での殺傷を彼らは「卑怯」と憎んだのだろう。そこにあるのはフェア(公正)の精神だ。銃を持てば中学生でも宮本武蔵に勝つ可能性がある。どう考えておかしい。何がおかしいかを考えるのも厭(いや)になるほどおかしい。
    https://sessendo.blogspot.com/2020/02/blog-post_90.html


  • 好きなアメリカのインディーロックバンド「Vampire Weekend」の楽曲「Giving up the Gun」が本書に触発されたものと知り、購読。

    訳者あとがきにも記載されていたように、明言はされていませんが、反戦・反核の書でもあります。鉄砲の伝来に関しては歴史の教科書でよく見かけましたが、放棄に関して知る良い機会になりました。
    本書では、刀と鉄砲の持つ倫理的な違いが語られていました。自分としては、アメリカの銃社会やそれに関する事件を見ると、どうして銃を捨てないのだろうと思ってしまいます。けれども彼らにとってある意味では切っても切れない、深く魂と繋がっているものが「銃」という存在かもしれない、という認識でした。それなら刀も持つことのなくなった日本人は、と思わなくもないのですが、この2020年に色々と考えさせる書物でした。
    単行本発行は1984年。

  • [評価]
    ★★★★★ 星5つ

    [感想]
    アメリカ人が日本への鉄砲の伝来から放棄、そして再装備についての歴史が書かれている。
    当時の日本の状況や同時代の欧米の状況を比較しながらの解説は江戸時代に日本が鉄砲を放棄したことは世界的にみるとかなり珍しかったのだということがよく分かる。
    また、日本の鉄砲技術を継承するための伝書の図はかなり楽しく読むことが出来た。

  • 若かりし頃、朝鮮戦争に従軍することにより、たまたま日本という国を横浜から佐世保までの鉄道の旅で知った著者。
    その時の日本の素晴らしい景色に魅入られた。
    そして、若い頃に経験した朝鮮戦争での思い、その後の場とナム戦争でのアメリカのやり方。
    また、ベトナム戦争の頃には、世界史上類礼を見ない17世紀の日本における鉄砲の放棄という事実を知ってた著者が書いた著作である。
    第1話 日本に鉄砲が伝来した
    第2話 鉄砲はどのように広まったか
    第3話 鉄砲の全盛時代
    第4話 日本はなぜ鉄砲を放棄したのか
    第5話 鉄砲から刀へ
    第6話 近代兵器の再来
    結び 日本史に学ぶ軍縮
    という内容です。
    種子島に鉄砲が伝来した当時の日本社会、そしてその当時の西欧社会、その後の徳川時代の到来、その中で西欧社会との比較も交えながら、徳川日本が世界史に稀に見る独自の文明社会を創造していったのか、アメリカの英米文学者が見た、鉄砲を放棄した日本人の分析、短い作品ですが、面白く読むことが出来ました。

  • 戦国時代たけなわの1543年に伝来した鉄砲。この新奇な武器につき急速なキャッチアップを実現し、鉄砲を大量生産・保持した。ところが、江戸期に入り、これらの技術面での退歩の一方、他の民生技術(冶金・採鉱・水道設備等)は進歩を実現。西洋文明史から見て、余りに異質なこの江戸期の在りようを欧米社会に紹介する主意を持つ著作。まあ、戦争に明け暮れた17~18C欧米に比して、当時、日本に戦争しかけそうな国家群がなかったという地政学的事情を等閑視するゆえ、江戸期を現代核軍縮のモデルケースと見る本書の視座にはやや躊躇を。
    しかし、江戸期封建制を西欧社会との対比を念頭に置いて分析した議論は、なかなか面白い。というより、なかなか気づきにくい要素を拾い上げたという意味で有益。1991年(底本1984年)刊行。著者はダートマス大学英米文学教授。

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