- Amazon.co.jp ・本 (697ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122051263
感想・レビュー・書評
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NDC209
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ムガル帝国とその崩壊
カースト制が根深いのでどうしても分権的に
難易度 やや難
感動★☆☆☆☆
涙線☆☆☆☆☆
興奮★☆☆☆☆
感心★★★☆☆
伏線☆☆☆☆☆ -
イスラームの進出からインド大反乱まで。ムガル帝国の崩壊までが第1部、第2部が植民地化開始から大反乱まで、第3部で南インドを扱う。ラージプートの説明、アウラングゼーブの政策の背景、大反乱の原因などなど、概説書としては詳細な記述。それだけにページ数が多い。賛否両論あると思うがこれくらい書いてくれた方がありがたい。中世から近代途中までのインドの歴史の大略を掴むには良いだろう。史料に限りのある南インドについては工夫を凝らした叙述で中々おもしろい。ただし著者の言う通り、入門者が固有名詞に苦戦するのは間違いない。
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インドがイギリスの植民地化を通じての近代化を図る前(近世)までの歴史は、なかなか纏まって学ぶ機会がなかったが、その観点で本著は貴重な存在。
特にムスリムとヒンドゥーとの関係を含めて、現在のインドを考える上でも確りと押さえておきたい時代。
インドは、現在もそうだが、当時は国家としての統一性はなく、地方割拠の時代。
他の国と違い、地政学的なところからも、権力者がころころと変わっていく。
ただ、この良く変わっていく中でもベースになる社会慣習・基盤があることを認識することも重要であり、ムスリムの支配が長く続いたにも関わらず、現在のインドがヒンドゥーをベースとしているところの答えがあるかもしれない。
本著では、イギリスのインド進出、統治の前半部分について、そのエッセンスを知ることができ、帝国主義に関する貴重な情報も含まれる。
南インドの歴史について、独立して紙面を多く割いており、これも貴重な情報。
王権と祭り(エンターテイメント)に関しては、現在のインド映画にも繋がるものかもしれない。
以下抜粋~
・ムスリム軍が、その著名な寺院や彫刻を破壊しなかったことは注目されよう。このことは、彼らが復讐の怒りに駆られたときとか、イスラームの力を誇示する必要があったときなどは別として、異教徒の偶像でも不必要な破壊はおこなわらかったことを示している。
一方、東部インドは、インド仏教最後の拠点などの寺院と大学を破壊し多数の仏僧を殺害した。ここに教団としてのインド仏教の活動は終わった。
なお、その制服過程で、ハルジー系トルコ人がビハールからベンガルにかけて集住し、この地方は以降、ムガル皇帝アクバルの時代まで、中央権力に対して独立ないし名目だけの服従をする問題州とあった。
印パ分離独立後の東パキスタン、今日のバングラデシュとなるこの地方のムスリム人口は、その形成をこの時代にまでさかのぼる。
・インドにイスラームが伝播し浸透する契機になったのは、
①インド、東南アジア、中国との貿易に携わるイスラームの商人の居留地の発展
②ムスリム軍事集団の度重なる侵攻と制服、その結果として成立したムスリム王権の支配と政策
③イスラームの宗教者、とりわけスーフィーの聖者の活動
・ラージープートとの同盟に踏み切ったアクバル帝の決断は、単にヒンドゥー、非ムスリムとの共存がムガル帝国の統治の方針として打ち出されたことにとどまるものではなかった。それは、宗教、宗派のいかんを問わず、すべての人々の長であることを示す第一歩となったものであり、インド・イスラーム史に画期的な1ページを付け加えることになった。
・オランダはポルトガルとはまったく異なるアジア支配の方式を待ち込んだ。ポルトガルが中継ぎ港のネットワークの支配、つまり点と線の支配にとどまったのに対して、オランダは内陸部の人と土地、つまり面の支配を行い、香料その他熱帯の物産の生産そのものを掌握することに乗り出したのである。
・イギリス東インド会社がはじめに力を入れたのはインドとの貿易ではなく、香料諸島との貿易であった。
・イギリスはムガル帝国と通商関係を確立するための努力を続けた。決め手になったのは、紅海の入り口に当たるパーブル・マンダブ海峡を封鎖するという強硬手段であった。公開はスーラトの主要な貿易相手の一つだったし、メッカへの巡礼が毎年通過する場所でもあった。
この措置はスートラ承認をあわてさせるに十分であった。
・マドラスやカルカッタに比べると、ボンベイの発展は遅れた。ボンベイはもともとポルトガル領であったが、イギリスがチャールズ2世と結婚したポルトガルの王女の持参金として譲り受けた。
・送金方法が成り立つもうひとつの方法は三角貿易を利用することだった。
・イギリス植民地時代にヒンドゥー教徒が重用。
①イスラムに対する警戒感(宗教対立、前支配者)
②イスラム教徒は英語を学ばない
③北西州ではウルドゥー語が浸透していて英語浸透が遅れた。 -
新書文庫
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ヒンドゥーとムスリムの相克と融和を課題とした諸王朝やムガル帝国の盛衰を描く第一部、西欧による植民地化と反乱の歴史を活写する第二部、南インドの伝統と英植民地政策の葛藤を詳説する第三部より成る激動の歴史。
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インド史は非中央集権的な、乱雑とした歴史である。内部の対立(カースト制、ヒンドゥー教やイスラム教など多数の宗教の併存、王位継承権が長男に優位ではないことからくる血族間対立…)が根深く細かく激しいため、外部からの干渉を許し(外部の力に頼り少しでも優位に立とうとするため)、欧州に植民地化を許すことになった。内陸の地域外の勢力の進入(ムスリム、モンゴル、ペルシャ、ティムールなど)でも撹乱され、ムガル帝国でさえ一地方の勢力に過ぎなくなり、消滅した。
その当時「インド」というのは所詮、地域の呼称に過ぎなかったはず(特に英国の)で、インド全体としてというより、植民地だったのは地域の総体ではなかったかと思える。
英国の植民地政策は、インドが近代の始まりとしているというプラッシーの戦い(p678)から顕在化しはじめたとはいえ、税収システムの確立などに苦心したし、通信が本国と往復一年かかる(p)などもあり、穏やかに(非効率的に)すすんだ。そのなかで、インドの各地域がそれなりに各々の発展を遂げた。しかし、特に1857年のスィパーヒーの反乱以後、直轄統治化したこともあり、英国の植民地政策は軍隊を中心に巧妙になり、完成する。部族対立などを利用して反目しあわせ、それを利用したり(p460)、自国の利益のための中途半端な土地制度の導入など、イスラエルの問題と同様、手術を途中放棄するような植民地政策は、後世に暗く長い影を落とした。
また、比較的出遅れた英国が帝国主義時代のトップになれたのは、香辛料貿易(東南アジア、蘭)から綿布貿易(インド、英)に移り変わったためというみかたが面白い。欧州諸国は、ヒルや寄生虫のように植民したが、肥大化した帝国主義が、原子力発電所のように爆発する日は近い。