- Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122058309
作品紹介・あらすじ
現代人の宿痾であり、退落の生をもたらすニヒリズム。この難敵をどう「手なずけ」るのか。その陰鬱な策略に抗して、人間が培ってきた価値を「保守」するために必要なこととは。本書は思想史をふまえた哲学書であるのと同時に、実践知に満ちた高峰である。
感想・レビュー・書評
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「君たち、こういうことじゃないかね? どうだい」と先生に語りかけられているような感じだった。虚無と向き合うのは痛切な痛みを伴う。決して快いものではない。しかし、そこを脇へ逸れずに正面突破を挑む著者の高い見識を讃えたいと思う。これを受けてどう生きるかは読者次第だろう。現代においてニヒリズムと無縁ではいられない。そういう部分や側面の輪郭を捉えてどうするか。どう生きるか。虚しさとの戦いはまさに今、この時、最前線に立たされているように感じた。
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堅牢な論理によって支えられた論理で、西部はこの世界に蔓延する「ニヒリズム」を冷徹に批判する(それはたしかな覚悟もないまま「戯れ」として「価値相対主義」に溺れる作法への批判も含むはずだ)。瑕疵はいくつかあるだろう。例えば「言葉」が人間存在の基盤をなす要素であることは同意するが、その「言葉」を支えるこの身体感覚への分析が欠けていないか、というように。しかし、なおこの本が見抜いた射程は現在のそれこそ原理原則なき「ポスト・トゥルース」な世界(ある意味究極のニヒリズムの具現化では?)にまで届く、恐るべき強度をはらむ
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博覧強記すぎて全然理解できなかった…ファイヤアーベントのアナーキズムもそうだが、西部氏の言うところのニヒリズムももはや時代遅れの思想なのだろう。
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本書の1%ほども理解はしていないと思う。だけど、読んで良かったと心から思うし、何度も飲み返したいと思う名著だと思う。哲学書とはこんな感覚になるのだろうか。数学の本を読んでいる感じだった。
最初、読みにくいと感じていたが、読み進めると段々と読めるようになる不思議さと難しいけど読み進めたいと思う内容で、最後まで読み終える事が出来た。
最後の解説を読んで、内容の理解が深まったし、後書きで、なぜこんな批判書を書いたのかも分かった。今、2周目に入っている。
最初はもう無理だと思いながら読んでいて、まさか2周目をすぐするとは。
本当に名著だと思う。初めての読書体験だった。 -
2017.7.28
虚無、それは、問うことの忘却、意味や価値への欲望の忘却である。それは昨今の資本主義によるジャンクな欲望の充足によるものであり、かつこの価値相対主義によって誰もが自らの基準を持つことができず、世人となり、自らの人生に、選択に、責任を持たなくなったことに由来する。
人間は欲望存在である、というのは竹田青嗣。そして人間は、人間のもっとも豊かな喜びをもたらす欲望は、意味や価値を求める欲望であるように思える。しかしほとんどの人はこれを忘れている気がする。周りに迎合し、特に自らを、自らの生を顧みることなく、漫然と日々を通り過ごしていく。自由の重さに堪え兼ねる。本当にこれでいいのか、自分がやりたいのはこういうことなのか、どこかにこの問いは残っているはずである。しかし人はそれを問わない。大変だから、答えなんかないから、何がその基準なのかわからないから。人が生の意味や価値を直感するにはそれだけ強烈な現実経験が必要であるように思える。しかし現代はネットが発達し、経験しなくても先に知ることができる時代である。経験なき人間は頭だけスカスカなまま膨らんで生き、心はやせ衰える。こうして意味価値の基準が作られない。しかし生きねばならない。よって行動の選択基準を世の中に合わせる。「あなた」は、どこにもいなくなる。あなたなき人生に虚無がはびこらないはずがない。
もう一つは、それを求めて、挫折すること。意味や価値の欲望は確実に挫折する。これこそ!と追い求めた欲望は確実に現実において挫折する。そして何かを信じることが怖くなる。そういうニヒリズムもある。
この無意味、無価値、退屈、虚しさを、どう乗り越えるか。本著では伝統と社会が強調されている。伝統、歴史、過去について知ること、それが自らの価値基準の基盤になるからである。社会、共同体、関係を知ること、それもまた自らの価値基準の基盤になるから。人間は時間と空間の関係の中で生きている。人間とは関係である。関係が太くなるほどに、私もまた確固たるものになるのかもしれない。共時的思考と通時的思考。世界内存在とは、世界の内に存在する、と同時に、存在(意識)の内に世界がある、ということである。自らの生が時代と歴史にどれだけ関わりがあるか、これを知ることが世界と自分の関係を知ることであり、関係を知れば知るだけ、自分の価値観は確固たるものになる。
私は自分がニヒリストだとは思っていなかった。故に、本著を読んで背筋が凍る思いがした。私はダスマンである。面倒、怠惰であることを理由に、世人の価値観に安寧し、自らを問うことをやめていたように思う。しかしそれでいいとも、正直思っている。私は本来性と非本来性の間を望む人間である。自分は本来的な生き方をしていると思った瞬間もう人間は終わりではないだろうか。二元論的価値があるのならば、そのどちらにも身を浸す必要があるのではないだろうか。虚無もまたそうである。虚無であり続けながら、意味を求め続けねばならない。
ショーペンハウアーは、生きることを苦痛と退屈の振り子だと言った。これは生きることの意味を求める人間にこそ当てはまる。なぜなら意味への欲望は挫折する=苦しみであり、そこから問うことそのものを辞めてしまう=退屈であり、しかし人は虚無にも耐えきれず再び求め始め、また挫折し…を繰り返すからである。またカントは人間が理性を使わないのは怠惰と怯懦によるものだと言った。これもまた、問うことを辞めてしまうことの動機として的を得ている。こういうものに私は、もっと戦わねばならないなと思った。
欲望存在としての人間がこの現代で生きることによる実存的課題の一つがニヒリズムならば、是非それを生きた上で、内側から食い破ってやりたい思いである。価値相対主義。自己関係と他者関係の希薄化。それを打開するソクラテス的対話。 -
読了までに半年以上の月日がかかった。理解できていない部分も多い。今迄の思いや考えを前提としてその先に向かう覚悟が必要ということはよくわかった。
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13/11/05。