ニーチェ: どうして同情してはいけないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
- NHK出版 (2002年10月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (126ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140092996
作品紹介・あらすじ
他者の不幸を同情する感情には巧妙に仕組まれた正当防衛が含まれているという。「同情の禁止」をキーワードにニーチェの人生=作品を読み解く。
感想・レビュー・書評
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「同情の禁止」をキーワードにニーチェを読み解いていく本。
ニーチェは「起源」の語の特権性を無効にしようとしているという。
「起源」ではなく、ニーチェは「心理」を問題としている。
著者は折口を例にとり、「歌を発生させているものは、つねに今もすでに働いているのでなければならない」と折口を解説し、この折口とニーチェは両方とも、「起源」の特権の無化、無効を行っているという。
これが、同情の否定にどう結びつくのだろうか。
同情について述べられたところを引用する。
P43
【他者への憐れみの基底に、他者の災悪を自らのそれとして恐れることが伏在することから、結局のところ、憐れみは自分自身の利己的な観点からなされる感情的固着にすぎないとう非難がなされることになった。だが、このような非難は、他者への憐れみを放棄するだけでなく、自らの悲惨を顧慮しない態度をとらねばならない。それは、先ほどの「他者の災悪を自らのそれとして恐れる」という態度に精確に対応して、「自らの災悪を他者のものと見なして恐れない」という態度をつくり出すことになるのである。】
他者への憐れみは、結局は、利己的なものにすぎない。どう考えてもそうだ。なので、人はどう生きればいいか? そう、「自らの災悪を他者のものと見なして恐れない」という態度だ。
ルクレティウスの「物の本性について」に【大海で風が波をうねらせているとき、陸から他人の難儀を眺めるのは悦ばしい。他人の困難が甘美な喜びなのではない。自分がそのような災悪を免れているということを分かっているのが悦ばしいのだ。】があるが、この問題に対して、キリスト教では対応は難しく、では、どうすればいいのだろうか。
そのための視点が、4つある。
まず、砂場で砂山を作っては壊す子ども。その生成と戯れる砂場の子どもを眺める、死者のような傍観を持つこと。
そもそも「神が我々に関心を持っていない」と言うエピクロス的視点。
自分への災いを他者と見なして恐れない。同情へのこだわりをなくす視点。
最後に、折口的な、「発生した歌は、目的として移動しているのではなく、今もまだ発生中である」というような視点。
この4つの視点を持ちつつ、どう生きればいいのだろうか。それは、自分の動物性を認め、それを感ずることのうちにあるという。
そして、自分の動物性を肯定する人間にとっての最高の表現形態が笑いなのである。人間という動物のみが笑うことができるのだから。
かつて、悲劇は「高貴の没落」であった。が、ソクラテスの死は「高貴でない人間が論理的に死んだ事件」であった。反悲劇の主人公ソクラテスは、ニーチェにとって最大の問題であった。
ここで、なぜ同情してはいけないのか、という最大のテーマは、ソクラテスの死に行きつくのだった。結局、哲学の最初であり最後はここなのだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ヘレニズム期の哲学を研究している著者が、ニーチェが古代哲学から何を学んだのかを論じながら、ニーチェ哲学のエッセンスを解明している。130ページに満たないコンパクトな本だが、非常に内容の濃い議論が展開されている。
第1章は、『悲劇の誕生』を中心に、ストア主義との関わりが論じられる。アリストテレスは『詩学』の中で、「恐れ」と「憐れみ」という二つの感情によって悲劇を規定していた。自分自身に降りかかりそうな困難に真っ当な「恐れ」を感じることと、自分に親しい者のうちの誰かに起こるかもしれない不幸や困難に適切な「憐れみ」を感じることとは、きわめて緊密に結びついており、この二つの感情はすぐれて共同体的な感情だとアリストテレスは考える。ニーチェはこうした考えに反対して、悲劇はそうした共同体の枠を超えて、人をディオニュソス的忘我状態に引き込むものだと言う。そこには、「魂の善さ」さえ保つならば、人の世に起こる何ごとによっても害されることはないという、ストア派の道徳的な自足についての考えが控えている。「憐れみ」は、自分自身の利己的な観点からなされる感情的固着にすぎない。他者への憐れみを放棄し、自分自身の悲惨を顧慮しない態度を、ニーチェはストア派から学んだのである。
第2章では、エピクロス派からの影響が論じられる。ニーチェは、何ものによっても煩わされない「心の平安」(ataraxia)を、人間的な価値の遠近法から離れることとして語りなおした。生命あるものの利害には関わらない、永遠に生成変化する「死の世界」こそ、もっとも平安な世界ではないかという「生と死の遠近法」が、ここに切り開かれたのである。
第3章では、『ツァラトゥストラ』を中心に、キュニコス派からの影響が論じられる。著者は、バフチンも注目した「メニッペア」(menippea)と同様の風刺性を『ツァラトゥストラ』に見いだしている。さらに、そうしたニーチェとディオゲネスの立場が、「自己のうちに引きこもる」シニシズムとは違って、いわば「世界のうちに引きこもる」と言い表わされるような、真に自由な立場であることが論じられている。 -
この「シリーズ・哲学のエッセンス」は、「いまを生きる我われの問題意識につながるように、思い切ってポイントを絞ってテーマを設定し、哲学者の思考の核心が掴めるようにした、まったく新しい入門シリーズです」と謳われている。
「入門シリーズ」?少なくとも、このニーチェに関する本にかぎっては、とてもじゃないが「入門書」などとは言えないであろう。やたらといろんな人物の著作からの言葉なりが紹介され、それがまるでスーパーマーケットのような様相を呈していて、「思い切ってポイントを絞って」などとは到底思えない記述になっているのだ。
筆者自身は、Ⅱ「生と死の遠近法」の最後に「以上のやや手の込んだ論述で、充分理解してもらえたのではないだろうか」と書いているが、思い上がりも甚だしいと言うべきであろう。
だいたい、筆者はあとがきで「私はニーチェの専門研究者ではない」と書いているではないか。ならば、なぜこのような人物をこの巻の筆者に選んだのか、このシリーズを企画した編集者こそ責められるべきであろう。 -
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はじめてニーチェについてとっかかりができた。
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メニッペアを媒介に、バフチン、ドストエフスキーも紹介しながら、ニーチェの哲学ではなく、態度を論じたように思えた。副題の、どうして同情してはいけないのか、に対する答えは、あっさりとしていて、というか、ほぼ直接的な応答ではなくて、深い満足は得られなかった。
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古代哲学の方に重点が行きすぎではあるが、著者個人の息遣いを感じる良本。ニーチェという人が愛おしくなる。
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[ 内容 ]
他者の不幸を同情する感情には巧妙に仕組まれた正当防衛が含まれているという。
「同情の禁止」をキーワードにニーチェの人生=作品を読み解く。
[ 目次 ]
1 悲劇とソクラテス―ディオニュソス的二重性(作品としての人生;「書きもの」への引きこもり;ニーチェにおける「三段階の変化」 ほか)
2 生と死の遠近法―至福体験の影(病者の視点;海の比喩;ルクレティウスと死者の視点 ほか)
3 永遠回帰―「メニッペア」風に(『ツァラトゥストラ』における「三段階の変化」;ニーチェの『動物誌』;鷲と蛇―あるいは、飛翔と円環 ほか)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
これを読むには多くの哲学知識がないといけないようだ。様々な箇所で多くの引用がなされており、さっぱり理解できなかった。ただ、ニーチェ自体には興味を持てたので、「ツアラストラ」は読もうと思う。
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しょっぱなから、著者が「自分はニーチェの専門家でもなんでもない」って言うんだもん。。。びっくりしたよぅ。
ニーチェの入門として、軽いの一冊読みたかっただけだったのに。
まぁ、今となっては超人思想とか神は死んだとか。ニーチェのこともおぼろげにわかってきましたが…(もっとわかろうよ!)
でも、サブタイトルは気になりますよね?特に、9.11テロを作者も引き合いに出していましたし。
このシリーズ、高いんですよ。
でもって、サブタイトルが凄く独特。こういう視点で読むのもありと思えるシリーズです。