NHK「100分de名著」ブックス カント 永遠平和のために: 悪を克服する哲学

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  • NHK出版
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感想 : 6
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  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140818169

作品紹介・あらすじ

戦争の原因は排除できるのか?

戦争することが「人間の本性」であるとすれば、私たちはいかに平和を獲得しうるだろうか?『永遠平和のために』は、西洋近代最大の哲学者カントが著した平和論の古典。空虚な理想論にとどまることなく、現実的な課題として戦争の克服方法を考察した本作は、争いの火種が消えない現代にあらためて読まれるべき一冊だろう。
好評を博した番組テキストに大幅な加筆を加え、待望の書籍化!

感想・レビュー・書評

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  • ●位置: 61
    本題に入るまえに、あらかじめ断っておきたいことがあります。『永遠平和のために』はそのタイトルから予想されるような理想論が書かれている本ではまったくありません。むしろそのタイトルから予想される内容とは正反対の本です。理想論が結局は「人びとが道徳意識をより高めれば問題は解決する」という議論に帰着するのだとしたら、このカントの著作は逆に「人びとが決して高い道徳意識をもたなくても問題解決の可能性はあるのか」という問題意識に貫かれています。別の言い方をするなら、カントはこの著作のなかで「人間の本質とは何か」「国家や法をなりたたせている原理とは何か」といった問題にまで踏み込んだうえで、理論的に永遠平和を可能にする条件を取り出そうとしてい

    ●位置: 288
    つまりカントは、王が傭兵を雇って軍事力を保持・増強することには反対していますが、自国を守るために国民がみずから軍隊を組織することは認めているのです。カントは決していかなる軍隊も常備してはならないということを述べているのではありません。あくまでも権力者が傭兵を雇い「機械や道具として人間を使用する」ことを「全廃すべき」と主張しているのです。ここから示唆されるのは、カントは現代の私たちにとっての現実に立脚して議論を組み立てている現実主義者だということです。現代の私たちにとって「国民が、みずからと

    ●位置: 314
    カントが望ましい国家のあり方として提示しているのは、国民主権にもとづく国家のあり方です。引用文にある「国家は人間が集まって結成したもの」「民族にかんするあらゆる法と権利の基礎となる根源的な契約」といった記述がそれをあらわしています。これらの記述において念頭におかれているのは、〝国家とはその土地に根ざした人たち(=民族)が力を合わせて結成したもの〟という国家観です。ちなみに、なぜこの引用文で、人びとが国家を結成する行為が「根源的な契約」と言われているのかというと、それは、国家を結成する行為とは社会に法と権利の約束事をつくりだす行為であるからです。ゼロから憲法を制定する行為を想定

    ●位置: 323
    このようにカントは国民主権にもとづく国家のあり方を前提として平和の可能性を模索しています。国民主権にもとづく国家のあり方とは現代の私たちにとってまさに現実です。カントが現代の私たちからみても現実に立脚して議論を展開していることがここでも示されているのです。もう一点つけ加えるなら、カントのこうした国家のとらえ方は必然的に植民地支配に対する批判になりえます。国家とはその土地に根ざした人たちが「集まって結成したもの」であり「他の国家の所有とされてはならない」ものである以上、カントにとって植民地支配は当然受け入れられるものではありませんでした。事実、カントが生まれ育ったプロイセンは強大な軍隊をもち、隣国

    ●位置: 365
    カントは『永遠平和のために』のなかで人類の歴史を踏まえながら、こうした図式は歴史の結果しかみていないと批判します。つまり、平和こそが人間にとって正常な状態にみえるのは、あくまでも法による統治が私たちの社会に浸透したからであって、それ以前は戦争が絶えず起こりうることのほうが常態だった、ということです。 自然状態とは戦争状態であるこの点に関して、カントは第二章

    ●位置: 379
    ちなみにこの「自然状態」という言葉は、十七世紀に活躍したイギリスの哲学者トマス・ホッブズ(* 11) がその言葉を使って国家のなりたちを論じて以降、ヨーロッパの哲学界で広く普及した概念です。意味としては同じく、公権力が存在しておらず(または存在していても弱く)法による統治がいまだ確立していない状態、を指しています。カントもそうした哲学史の流れのなかで戦争と平和の問題を考えていました。カントはこの引用文のなかで、自然状態とは戦争状態だと述べています。つまり、法による統治が確立していない状態では、人びとは和合よりも敵対にむかう、ということ

    ●位置: 394
    そうした人間の「本性」が克服されるには「法的な状態」が必要だとカントは述べています。「法的な状態」とは「自然状態」に対立する概念ですから、端的に、公権力をつうじて法による統治が確立されている状態を指しています。つまり、法にもとづいた公権力の取り締まりがあってはじめて、人びとのあいだで敵対行為がなされないという保証が確かなものとなる

    ●位置: 430
    これに対し、戦争は人間本性に接ぎ木されていると考えるカントにとっては、人間は放っておけばすぐに戦争を始めてしまうわけですから、平和を実現するには少しでも戦争が起こりにくくなるような社会の仕組みを一歩一歩積み上げていくしかありません。まさに「平和状態は新たに創出すべきもの」なのです。では、その〝戦争が起こりにくくなるような社会の仕組み〟とはいったいどのようなものなのでしょうか。どのような人間社会の原理に着目すれば戦争をより起こりにくくさせることができるのでしょうか。それを探求することが『永遠平和のために』の主題にほかなりませ

    ●位置: 503
    カントによれば、人間の本性(=自然)は戦争にむかう傾向性を宿しています。そうである以上、平和を実現するためには少しでも戦争が起こりにくくなるような社会の仕組みをつくりあげていくしかありません。では、その仕組みとはどのようなものでしょうか。カントはそれを第二章「国家間における永遠平和のための確定条項」で考察しています。それはまさに『永遠平和のために』の主要部分となる考察です。この章ではその第二章におけるカントの考察をたどっていくことにしましょう。取り上げたいのは第二章で論じられている三つの確定条項です。三つの確定条項とは次のようなものでし

    ●位置: 510
    ◆第一確定条項どの国の市民的な体制も、共和的なものであること ◆第二確定条項国際法は、自由な国家の 連合 に基礎をおくべきこと ◆第三確定条項 世界市民法 は、普遍的な 歓待 の条件に制限されるべきことこれをみると、戦争が起こりにくくなるような社会の仕組みについて、カントは三つの水準で議論を展開していることがわかります。・国内的な政治体制の水準・国際法(*1) の水準・世界市民法の水準この三つの水準

    ●位置: 523
    そもそも共和的な体制とはどのような体制を指すのでしょうか。カントは次のように説明しています。 共和的な体制 を構成する条件が三つある。第一は、各人が社会の成員として、 自由 であるという原理が守られること、第二は、社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に 従属する という原則が守られること、第三は、社会のすべての成員が 国家の市民 として、 平等 であるという法則が守られることである。カントによれば、ここに挙げられている三つの条件を満たしていればその政治体制は「共和的な体制」として位置づけられます。これを素直に読むなら、各人の自由と平等が守られていて、社会のすべてのメンバーが共通の法にしたがっている政治体制が共和的な体制である、と理解することができます

    ●位置: 534
    ただし、ここで言われている「自由」や「平等」の意味は、より厳密に理解されなくてはなりません。まず、カントの言う「自由」とは「他人に迷惑や危害をあたえなければ何をしてもいい」という意味での自由ではありません。そうではなくそれは、自分たちがしたがう法は自分たちで決めることができる、という意味での自由です。権力者や支配者が一方的に決めた法に人びとがしたがわなくてはならない状態は、カントの言う「自由」ではありません。現代的な言い方をすれば、国民が主権(すなわち自己決定権)をもち、選挙などの制度をつうじて国民が立法過程に関与できていることが、カントの言う「自由」に当たります。また、「平等」についても、カントはそこに厳密な意味を込めています。カントはこう説明しています。すべての国民が同じ法に等しく縛られるのでないかぎり誰も法には縛られないときにのみ、その国民は平等であると言える、と。要するに、ある人だけは法に縛られなくてすむ、という例外が少しでもあれば、その社会の人びとは平等とは言えないということです。私たちは実生活においてしばしば「同じことをしたのに、なぜこの人は許されて、なぜあの人は許されないのか、それでは不公平ではないか」と言いたくなるような状況に遭遇します。そうした状況が──実生活のレベルにおける人間関係にとどまらず──法の適用のレベルにおいても否定しがたく残っているようでは、その社会は平等とは言えません

    ●位置: 550
    これらの条件をまとめるなら、共和的な体制とは、社会の成員がみずからしたがうべき法を定め、誰もが等しく公平にその法にしたがう、そうした政治体制だと理解することができます

    ●位置: 578
    カントによれば、国家の形式を区別するには二つの方法があります。一つは「支配の形式」から区別する方法であり、もう一つは「統治の形式」から区別する方法です。まず、「支配の形式」では、支配する権力を握っている者の人数で国家の形式が区別されます。支配する権力を握っているのが一人なら「君主制」に、複数人なら「貴族制」に、市民社会を構成するすべての人なら「民主制」に区別されます。注意しておきたいのは、ここでいう「支配する権力」とは、政府において決定をおこなう権限のことだということです。つまり、政府のなかに議会がなく一人の人間がすべてを決定する体制は「君主制」に区別され、複数人が協議をして決定をおこなう体制は「貴族制」に区別され、市民社会の成員であるすべての人が政府を構成して決定をおこなう体制は「民主制」に区別されるのです

    ●位置: 586
    カントのいう「民主制」とは、現代の分類でいえば「直接民主制」に該当します。すなわち、国民全員が国会の議員となり、すべてを国民全員で直接決定する、という政治体制です。「民主制」という言葉の意味が、当時と現代とでは少し異なるのです。こうしたカントの区別にしたがうなら、現代の日本や欧米諸国のほとんどの政治体制は「民主制」ではなく「貴族制」に近いということになります。日本では主権は国民にありますが、国民全員で国会を構成しているわけではありません。そうではなく、国民は選挙によって代表者(国会議員)を選び、その代表者が国会で社会のルール(法)を決定しています。これは「間接民主制」ではありますが「直接民主制」ではありません。国民から選ばれた複数の代表者が国会で協議して法を決定する政治体制は、〝複数人が決定をおこなう〟という側面に着目するなら「貴族制」に含まれると考えられなくてはなりません

    ●位置: 598
    カントによれば、この方法による区別には二種類の政治体制しかありません。共和的な政治体制と専制的な政治体制の二種類です。両者の違いをカントは次のように説明しています。 共和政体 とは、行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり、専制政体とは、国家がみずから定めた法律を独断で執行する国家原理である。要するに、行政権と立法権が分離しているのが共和政体で、分離していないのが専制政体だということです

    ●位置: 618
    これら二つの方法のうち、カントはどちらのほうが重要だと考えたのでしょうか。もちろんそれは「統治の形式」のほうです。カントはこう述べています。「支配の形式」に対して「統治の形式」は「比較にならないほど重要な意味をもつ」と。平和を実現するためには、「君主制」か「貴族制」か「民主制」かということよりも、立法権と行政権がどこまで分離されているかが重要なのです。このカントの指摘は、その後の人類の歴史をみると、きわめて示唆的です。たとえば第二次世界大戦が起こる以前、ドイツのワイマール憲法(*2) は当時の世界でもっとも民主的な憲法だと言われていました。にもかかわらず、ドイツはその後、ナチスの暴走を許し、第二次世界大戦を引き起こしてしまいました。同じように、戦前の日本でも男子限定ではありますが普通選挙制が確立していました。にもかかわらず、勝てる見込みのないアメリカとの戦争に突入していきました。つまり、国民が自己決定権をもち、戦争をするかしないかを国民自身が決められるようになっているからといって、かならずしも戦争を防げるわけではないのです

    ●位置: 630
    見逃せないのは、ドイツでも日本でも、第二次世界大戦にいたる過程で立法と行政の区別がなくなっていったことです

    ●位置: 638
    平和を実現するためには、たしかに国民が主権者として自己決定権をもつことがまずは重要です。しかし、それだけでは不十分であり、その自己決定権は立法権として政府の執行権(行政権)から区別・保護される必要があるのです

    ●位置: 701
    カントはここで明確に「国際的な国家」すなわち世界国家を否定しています。諸国家のあいだに法的状態を確立することは必要であるが、その体制は決して世界国家であってはならない、ということです。カントによれば、その体制は「国際的な連合」、すなわち独立した自由な国家のあいだの連合にとどまらなくてはなりません。国内政治と国際政治とのアナロジーはここで完全に放棄されています。これは『永遠平和のために』を理解するうえでもっとも重要な論点の一つです

    ●位置: 708
    カントは世界国家ができることによって平和が実現されるというビジョンを否定します。カントによれば、永遠平和のために必要なのは、世界国家によって維持される法の支配ではなく、諸国家のあいだの連合によって維持される法の支配なのです

    ●位置: 729
    世界国家をつくるべきだというアイデアは一見するとすばらしい解決策であるようにみえます。しかしそれはよくみると、「諸民族がそれぞれ独立した国家をもつという状況のなかでいかに法の支配を実現していくか」という問題をまったく解決していません。解決していないどころか、「諸国家が並存する状況のなかで」という問題の前提を消してしまっています。それはいわば前提を変えることによってあたかも問題を解決したかのように取り繕っているだけなのです。だからこそそれは「一つの矛盾」だと言われているのです

    ●位置: 734
    さらに、この引用文には世界国家に対するカントの懸念がにじみでています。すなわち、もし多数の民族が世界国家へと統合されるようなことになれば、そこには支配する民族と支配される民族という分割が不可避的に生じるのではないか、という懸念です。そうなると、「世界国家」といえばきこえはいいですが、実際にはそれは帝国主義や植民地支配と変わらなくなってしまいます。この点でもカントは世界国家に反対するのです

    ●位置: 808
    言い換えるなら、「法の支配しない状態」から抜けでるように働きかける自然法の命令は、自然状態にある諸個人に対しては効力をもっていても、すでに「法的な体制」を確立している国家に対しては効力をもたないのです

    ●位置: 844
    カントはそこで「積極的な理念」と「消極的な理念」を区別しています。引用文ではこう述べられていました。「一つの世界共和国という積極的な理念の代用として、消極的な理念が必要となるのである」と。この言葉の対比だけをみると、カントは仕方なく「消極的な理念」として諸国家の連合の理念を掲げているような印象を受けます。つまり、本来ならばカントは世界国家の理念のほうを望ましいと考えていたけれども、世界国家の理念ではどうしても「総論賛成・各論反対」の状態におちいってしまうから、消極的に諸国家の連合の理念を掲げていた、という印象です。しかし、これまでみてきた世界国家への批判からもわかるように、カントは決してそうした消極的な理由から仕方なく諸国家の連合の理念を打ち出しているわけではありません。カントは「積極的な理念」そのものがはらむ危険性を認識していました。積極的な理念とは、いわば目的が手段を正当化することを許容する理念のことです。すなわち、正しい目的を達成するためなら何をしても許されると考える理念のこと

    ●位置: 854
    カントは世界国家の理念がそうした積極的な理念であることを見抜いていました。その理念は「永遠平和を実現するためには、世界国家に反対する諸国家を武力制圧することも辞さない」という考えをどうしても内包してしまうのです。こうした考えは根本的な矛盾をはらんでしまいます。というのもそこでは「平和のためなら戦争も辞さない」と考えられてしまうわけです

    ●位置: 864
    こうした積極的な理念の対極にあるのが消極的な理念です。消極的な理念とは、手段が最適化されるところに目的を定めようとする理念のことです。永遠平和について言えば、「平和が問われている以上、それを実現する手段も平和的なものでなくてはならない、したがって平和的な手段によって達成されるところに永遠平和の目的を定めよう」と考える理念のことです。要するに、積極的な理念と消極的な理念のあいだでは目的と手段の関係が逆になるのです。積極的な理念では目的が手段を正当化します。これに対して消極的な理念では手段が目的を正当化するのです

    ●位置: 940
    いまや地球上のどこかの場所でそうした法・権利の侵害が起これば、それは地球上のあらゆる場所で我が事のように感じられるほど、国家をこえた人びとの交流はさかんになっています。しかし、国際法は国家と国家の関係を対象とするので、そうした法・権利の侵害から各人を守ることには適していません。もちろん国内法にも──国境をこえて活動する自国民を保護することに対しては──限界があります。そのため、国家をこえて交流する人びとの権利の保護をもっぱら対象とするような、普遍的な世界市民法の理念が、国内法や国際法とは別に求められるのです。こうした世界市民法の理念がなければ、地球上の人びとは他国の人たちと安心して友好的な関係を築くことができません。しかもその友好的な関係は永遠平和の実現にとって基礎となるものです。だからこそカントは国際法の水準とは別にこの世界市民法の理念を提示したのです

    ●位置: 949
    こうした世界市民法についてカントは「普遍的な歓待の条件に制限されるべき」だと第三確定条項で述べています。つまり、世界市民法は世界のすべての人たちが歓待を受けるべきだという前提条件のもとで定められなくてはならない、ということです。では、この「歓待」とはどのようなことを指しているでしょうか。カントはこう説明しています。ここで 歓待、すなわち〈善きもてなし〉というのは、外国人が他国の土地に足を踏みいれたというだけの理由で、その国の人から敵として扱われない権利をさす。その国の人は、外国から訪れた人が退去させられることで生命が危険にさらされない場合にかぎって、国外に退去させることはできる。しかし外国人がその場で平和的にふるまうかぎりは、彼を敵として扱ってはならない

    ●位置: 1,107
    この第二追加条項では、一言でいえば次のようなことが述べられています。すなわち、国政を担うのは政治家と法律家(いまでいうと行政官)だが、彼らは平和をもたらすための条件について哲学者の助言を仰ぐべきである、ということです。なぜカントはこのような提言をするのでしょうか。それは、具体的な状況のなかでおこなわれる権力の行使には往々にして普遍的な理性の判断が欠けてしまうからです。その欠陥を補うために、国政を担う人間は哲学者に自由かつ公に議論させることが必要だ、とカントは主張してい
    メモでも哲学者がニーチェみたいなのばっかりになったらどうする?

    ●位置: 1,159
    カントは引用文のなかで、「自然」には人間の意志に反してでも人間の不和から融和をつくりだそうとする働きが存在する、と述べています。人間のあいだの不和がかえって人間同士の融和につながる、ということですね。人間の「本性=自然」は戦争にむかう傾向性を宿しているとカントは論じていました。しかしその「自然」はさらに、そうした戦争にむかう傾向性から平和さえも生みだそうとするのです。人間の「本性=自然」は決して戦争を引き起こすだけで終わるわけではないのです。一見すると、人類の歴史には戦争や犯罪といった暴力があふれています。しかしカントによれば、そうした不和も結果的には人間のあいだに融和をつくりだす働きを担っており、全体として「自然」のなかには永遠平和にむかう目的性がはっきりと示されているの
    メモこれはどうだろう?一概にそうはいえないのでは

    ●位置: 1,256
    なぜここでカントが「悪魔」を登場させているのかというと、いかに人間は道徳的に悪い存在だとしても知性さえそなえていれば国家の形成にむかうはずだということを示すためです。人間は、道徳的に悪い人間ほど、自分の利益と保身を最優先に考えます。そうした邪悪な人間にとってもっとも都合がいいのは、ほかのすべての人たちが法にしたがい(それによって自分の身の安全は保たれる)、かつ自分だけは法の適用をまぬがれる(それによって自分の利益は最大化される)、という状況です。しかしこうした状況は長続きしません。なぜなら、そこではあらゆる人が「自分以外のすべての人は法にしたがうべきだ」と考えて、ほかのすべての人たちに法にしたがうことを要求しますので、自分だけは法にしたがわなくてすむということが起こりえなくなってしまうからです。自分は法にしたがわずに、他人には法にしたがうことを要求しても、まったく説得力がありません。その結果、すべての人たちは心情的にはたがいに対立しあっていても行動的には法にしたがっているという「法的な状況」が出現するのです。国家を形成するために人間は道徳的に優れた存在になる必要はありません。
    メモアダム・スミスが考えていたように各人が高い倫理感を持つことが必要では?

    ●位置: 1,275
    他方ではまた自然は、たがいの利己心を通じて、諸民族を結合させているのであり、これなしで世界市民法の概念だけでは、民族の間の暴力と戦争を防止することはできなかっただろう。これが 商業の精神 であり、これは戦争とは両立できないものであり、遅かれ早かれすべての民族はこの精神に支配されるようになるのである。というのは、国家権力のもとにあるすべての力と手段のうちでもっとも信頼できるのは 財力 であり、諸国は道徳性という動機によらずとも、この力によって高貴な平和を促進せざるをえなくなるのである。そして世界のどこでも、戦争が勃発する危険が迫ると、諸国はあたかも永続的な同盟を結んでいるかのように、仲裁によって戦争を防止せざるをえなくなるのである。戦争をするための大規模な同盟はその性格からしてきわめて稀なものであり、成功する可能性はごくわずかなので
    メモこれもそうでない場合が結構あるのでは?ソ連や戦前の日本とか

    ●位置: 1,319
    これを読むかぎりでは、永遠平和は人間がそれを求めるかどうかにかかわらず最終的には「自然」の働きによって実現される、とカントが考えていたようにみえます。「運命」のたとえまででてきますから、カントは永遠平和を人類の「運命」だと考えていたとさえ言いたくなるかもしれません。とくにこの引用文では「自然」の意志が実践理性と対比されています。「実践理性」とはカント倫理学の用語で、人間が自律した状況のなかで(つまり何かを強制されているわけではない状況のなかで)道徳的な義務をみずからに課すときの理性の働きを指しています。たとえば、?をついてもバレない状況のなかでそれでも?をつかないという義務をみずからに課すときの理性の働き

    ●位置: 1,405
    つまり、永遠平和が実現されるためには道徳と政治が一致しなくてはならないのです。それも、その一致は政治が道徳に服するというかたちでの一致でなくてはなりません。カントが「付録」を書いた目的がここにあります。永遠平和の実現のためには政治はどのように道徳に服さなくてはならないのか──これを明らかにすることが「付録」に込められた狙いなのです

    ●位置: 1,417
    しかし法の概念を政治と結びつけることがどうしても必要であり、法の概念を政治を制約する条件にまで高める必要があることを考えると、政治と法の概念をどうにかして結合させねばならない。カントはここで政治と法の概念を結びつけるべきだと主張しています。なぜ両者を結びつける必要があるのかといえば、法によって政治を制約するためです。政治とは端的にいえば、権力にもとづいて相手をみずからの意思にしたがわせる実践のことです。その権力の行使は最終的には強制力(暴力)の行使にまでいきつくでしょう。そのため政治は法による制約がなければどこまでも 恣意的に、また抑圧的になってしまいます。だからこそカントはここで「法の概念を政治を制約する条件にまで高める必要がある」と述べているのです。こうしたカントの主張は法治国家がすでに根付いた現代の私たちからみれば当たりまえのものに思われるかもしれません。逆にいえば、それだけカントには先見の明があったということでしょう

    ●位置: 1,448
    私たちの目下の問いは、そもそもなぜ道徳と政治の一致が永遠平和につながるのか、というものでした。その答えはいまや明らかです。つまり、道徳と政治の一致が永遠平和につながるのは、その一致が法による政治の制約を可能にするからです。言い換えるなら、道徳と政治の一致をつうじて「公法の状態」が国際社会に確立されるからです

    ●位置: 1,452
    すでに指摘したように、国際法がそもそも可能であるためには、まず 法的な状態 が存在していなければならない。この法的な状態がない自然状態では、どのような法を考えても、それは私法にすぎない。さらにこれまで検討してきたように、戦争の防止だけを目的として諸国家が連合することが、諸国家の 自由 を妨げることのない唯一の 法的な状態 である。だから政治と道徳が合致するためには、連合的な組織が必要なのである。この連合的な組織は、原則に基づいた法の原理によって与えられる必然的なものなのです

    ●位置: 1,458
    この引用文では、永遠平和を実現するためのカントの構想がとてもコンパクトにまとめられています。箇条書きでそれを再確認しておきましょう。 ・世界国家は諸国家の自由を妨げるため、永遠平和とは対極にあること ・諸国家の自由を妨げることのない諸国家の連合こそが、諸国家のあいだに「法的な状態」を確立するのにふさわしいものであること ・この諸国家の連合は法の原理のもとで可能となるのであり、その法の原理をつうじて政治と道徳も合致すること

    ●位置: 1,470
    しかし両者は「法的な状態が確立された結果、道徳と政治は一致する」というような因果関係にあるわけではありません。「付録」の全体を読めば、カントがこの引用文にそこまで強い因果関係の意味を込めているわけではないことがわかります。両者の関係はむしろ「道徳と政治の一致と、法的な状態の確立とは相関している」という相関的な関係として理解されなくてはなりません。国際社会における「法的な状態」の確立は道徳と政治の一致として考えられる、ということです

    ●位置: 1,490
    つまり、道徳的な原理の力が、法が政治を制約するときの土台となるのです。別の言い方をすれば、法が政治を制約するだけの力をもつのは道徳的な原理の力を借りることによってなのです。ふり返れば、カントのいう道徳と政治の一致とはあくまでも政治が道徳に服するかたちでの一致でした。また「法的な状態」についても、その中身として考えられているのは、政治が法によって制約されるということでした。どちらにおいても、道徳や法が政治を制約するという図式になっています。道徳も法も、どちらも政治をしたがわせる役割を担うものとしてカントは位置づけているのです

    ●位置: 1,502
    カントは道徳の原理を探っていけば、法が政治を制約することを可能にする根拠をみいだせると考えました。永遠平和にむけたカントの構想は、カント自身の道徳哲学が法の理念を基礎づけることでなりたっているのです。では、カントは道徳をどのようなものとして考えていたのでしょうか。カントは『永遠平和のために』のなかで道徳についてこう説明しています。道徳とは、無条件にしたがうべき命令を示した諸法則の総体であり、すでにそれだけで客観的な意味における実践であり、人間はこれらの諸法則にしたがって行動 すべき なのである。だから道徳という義務を認めておいて、あとでそれにしたがうことが できない と言うならば、それは明らかに矛盾したことである。

    ●位置: 1,538
    事実、私たちは究極的には自分の行動の結果をコントロールすることはできません。これは言い換えるなら、道徳をとりまく具体的な条件は究極的にはつねに無化されうるということです。先の例でいえば、私は友人が私の行為の結果として助かるのか殺されてしまうのかまったくわからない状況のなかで「?をつくべきかどうか」を判断しなくてはならない、ということです。これは、無条件的な状況のなかで「?をつくべきかどうか」を判断しなくてはならないことと同じです。言い換えるなら、道徳はつねに無条件的な状況のなかで私たちにしたがうべきだと迫ってくる力をもっているのです

    ●位置: 1,559
    この引用文におけるもっとも大きなポイントは、カントが道徳を「内容」と「形式」に分けていることです。引用文の内容を要約すると次のようになります。すなわち、実践哲学には道徳の「内容」から出発するやり方と道徳の「形式」から出発するやり方があるが、実践哲学は本来「形式」から出発すべきである、と。道徳の「内容」とは何でしょうか。それは個々の道徳における具体的な内容を指しています。たとえば「?をついてはならない」という道徳命題がそれに当たります。こうした道徳の「内容」はどうしても特定の条件と切り離せません。たとえば「暴漢から友人を助けるために?をつくことは許されるか」といった問いのように、です。この点について引用文ではこう指摘されています。「理性の内容的な原理は、意志の任意の対象としての目的を重視する」と。いまの例で言えば「暴漢から友人を助けるために」というのがここでいう「目的」に当たります。つまり、道徳の「内容」から出発するかぎり、実践哲学は「暴漢から友人を助けるために」といった目的に振り回されてしまい、道徳について正しく考察することができなくなってしまうのです。こうした弊害を避けるために、実践哲学は道徳の「形式」から出発しなくてはならない、とカントは主張しているのです

    ●位置: 1,570
    では、その道徳の「形式」とは何でしょうか。それは道徳からあらゆる「内容」を取り除いたものです。道徳からあらゆる「内容」を取り除けば、道徳は具体的な特定の条件からも切り離されます。そうなれば道徳は、無条件にしたがうべきだと迫ってくる本来の姿をあらわすことになるでしょう。引用文ではそれを「無条件的な必然性」と表現しています

    ●位置: 1,586
    引用文ではこうした道徳の「形式的な原理」は次のように説明されています。「汝の主観的な原則が普遍的な法則となることを求める意志にしたがって行動せよ」と。これも難解な文章ですね。これを平易な表現に言い換えるとこうなります。「自分がとろうと思っている行動の原則が誰がやっても問題ないといえるものとなるように行動せよ」。これをさらに平易な表現にすると「誰がやっても問題ないと思えることだけをおこなえ」となります。ここにあるのは道徳の「普遍化可能性」とでもいうべきものです。「普遍化可能性」とは「自分だけでなく誰がやっても問題ないといえるかどうか」という判定基準に適合しうる、ということです。道徳の正しさは、それがどのような具体的条件にあるとしても、普遍化可能かどうかで測られるのです。こうした普遍化可能性こそ、カントの考える道徳の本質にほかなりません。すなわち、道徳の本質である、あらゆる具体的な内容を 捨象 した道徳の形式的な原理とは、「他人にされていやなことは自分もしてはならない」「誰にされても問題ないと思えることだけを自分もせよ」と命じる理性(実践理性)のことなのです

    ●位置: 1,604
    いまの引用文ではもう一つ重要なことが述べられています。それは「この形式的な原理は法原理として、無条件的な必然性をそなえているからである」という部分です。この部分がなぜ重要なのかはもうおわかりでしょう。道徳がどのような点で法の土台となるのかがここで言及されているからです。つまり、道徳が法の土台となるのは、その形式的な原理をつうじて、なのです。これが意味するのはどのようなことでしょうか。それは、法もまた道徳と同じ形式的な原理をそなえており、「誰もがしたがわなくてはならないことこそが正しい」という普遍化への要請を必然的にともなう、ということです。カントは、法もまた道徳と同じ形式的な原理をもつことに着目しました。なぜ法は道徳と同じ形式的な原理をもつのでしょうか。それは、法そのものがみずからの正しさを追求するものだからです。法とは、権力をもった人間や組織がみずから決定したルールに人びとをしたがわせるものであると同時に、みずからの正しさを主張せずにはいられないものでもあります。いくら大きな権力をもった人間や組織であっても、みずからの決定したルールを法として施行するときに「この法は正しくないが、したがえ」とは決して言えません。このように法は、みずからの正しさを追求せずにはいられないという点で、道徳と同じ形式的な原理をもつのです。この形式的な原理は「誰もがしたがわなくてはならない法こそ正しい法である」という普遍化への要請を必然的にともないます。なぜなら、法を制定する政治権力がどれほど強大であっても、その政治権力は「そんなに法が正しいと主張するなら、自分がまずはしっかりとその法にしたがうべきだ」という要求に必然的にさらされてしまうからです

    ●位置: 1,629
    そもそも国際社会において各国は少なくとも見かけ上は法に敬意を払っているようにふるまわざるをえません。このことは、いかに自分に都合のいいように法をねじ曲げて活用している国家にとっても変わりません。というのも各国は、法に敬意を払っているようにふるまわなければ、みずからの正しさを他国に示すことができないからです。法的な正しさを失うことは、法的な存在である国家にとって致命的です。その結果、どんな悪行を企てていようとも、国家は法を尊重しているようにふるまわざるをえず、不可避的に法の制約のもとに置かれることになるのです。こうした法の原理こそ、永遠平和が実現されうる現実的な根拠としてカントが考えるものにほかなりません。カントはそれを引用文で「(法原理の)無条件的な必然性」と呼んでいます。法は、どのような条件のもとでも各国がその正しさの追求に縛られてしまうという必然性をもっているのです。そして、その法の普遍化の作用が──たとえゆっくりとした歩みであるとしても──繰り返され、広がっていくことで、国際社会にも「法的な状態」が確立されていくのです。カントは道徳と政治の一致をつうじて国際社会にも「法的な状態」が確立されていくと論じました。どのようにして道徳と政治の一致がそれを可能にするのか、ようやく明らかになりました。道徳と政治の一致とはあくまでも政治が道徳に服するかたちでの一致です。正しさを追求する道徳の形式的な原理によって、つまり正しさの普遍化作用によって、法もまた政治を制約することが可能となるのです

    ●位置: 1,666
    カントによれば、こうした公開性は法がなりたつためのそもそもの条件です。法はみずからをなりたたせるために公開性──つまりそれが根ざす正義は公的に主張しうるものであること──という形式をとらざるをえず、だからこそ法は普遍化可能性をもつのです。近年では「アカウンタビリティ」(説明責任)という概念が、法の内容についても政府の政策についても厳しく問われるようになりました。「アカウンタビリティ」とは、公的に説明がつくかどうかをその「正しさ」の根拠にすべきだ、ということを求める概念です。公的に説明がつかないかぎり、その政策なり法の内容は正しいとは考えられない、ということです。この点で言えば、「アカウンタビリティ」とはきわめてカント的な概念です。言い換えるなら、カントが主張した法の公開性という考えは現代でも拡大・発展し続けているのです

    ●位置: 1,689
    カントはこうした「条件つきの義務」である人間愛よりも「無条件的な義務」である「法にたいする尊敬」を優先させるべきだと述べています。道徳の「内容」ではなく「形式」を重視せよ、ということです。

  • 大前提として、こういう解説書は初学者には非常に良いと考えている。なぜなら、原文を読んでも意味がわからないことが多いからです。
    そういう意味では、私のような初学者には非常に心強い内容でした。

    カントは理想主義者ではなく、人間の暴力性を理解した上で、法によって政治をコントロールする必要があると考えている。
    また世界国家のようなものはうまく行かないと考えているような非常にリアリズムを持った哲学者でした。

    ロシアがウクライナを攻めている今、改めて世界のあり方を考えるための基本的な一冊になると思います。

    他方でカントの時代と大きく異なる点は、核兵器の存在で、カントの考えを引き継いだ哲学者たちが、核をどのように捉えているのか知りたいと思いました。

  • 100分では終わらない。3時間はかかる。
    カントの著作を理解する上で、大変参考になった。

  • 319.8||Ka

  • 3

  • 予習として読んだ。分かりやすい!単語の意味を当時の歴史的背景や学問的系譜を踏まえて解説してくださるので、これを読んでいた方が本文の理解が深まる。

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著者プロフィール

萱野 稔人(かやの・としひと):1970年生まれ。津田塾大学総合政策学部教授。哲学者。早稲田大学卒業後に渡仏し、2003年、パリ第10大学大学院哲学研究科博士課程を修了(博士・哲学)。専門は政治哲学、社会理論。著書に『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』『名著ではじめる哲学入門』(ともに、 NHK出版新書)、『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』(河出書房新社)、『暴力と富と資本主義』(KADOKAWA)、『死刑 その哲学的考察』 (ちくま新書)、『リベラリズムの終わり』(幻冬舎新書)ほか多数。

「2023年 『国家とはなにか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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