- Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140886403
作品紹介・あらすじ
誰もが、性的マイノリティである
「男/女」と単純に分類しがちな我々の性は、とても繊細で個別的だ。
だが今性を語る言葉は、あまりに人を対立させ、膠着させるものに満ちている。
巷間言われる「LGBTQをはじめとする性的マイノリティの多様性を認めよう」ではなく、
「そもそも性的マジョリティなど存在しない」という立場から
セクシュアリティとジェンダーをめぐる言説をあらためて見直すと、この社会の本当の生きづらさの姿が見えてくる――。
草食男子、#Metoo、セクハラやDVから、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒット、さらには戦後日本と父性の関係まで。
『モテたい理由』『愛と暴力の戦後とその後』などの評論で、この国の語り得ないものを言葉にしてきた作家が、
具体的なトピックから内なる常識に揺さぶりをかけ、いまだ誰も語り得ない言葉で新たな性愛の地平を開く、全霊の論考。
感想・レビュー・書評
-
難しいな
それが最初の感想だった。
捉え所のないような……。
著者の心の中、頭の中を泳いでいるような印象だ。
わかるような、わからないような。
他人だもの、それは当たり前だ。
だって私は、私でしかないから。
どんなにわかろうと思っても、どんなに共感しても、私は私のフィルター越しにしか他人を見ることしかできない。
それは決して無駄ではないけれど、完全に混ざることはない。
それを悲しいと取るか、面白いと取るか。
どちらにも言えるから、私は自分を、他人を、知りたいと思う。
ロックバンド、Queenと映画ボヘミアンラプソディと、フレディ・マーキュリーが何度も語られる。
私は映画は見ていないのでわからないが、たしかにQueenの曲は多感な少女だった私を震わせた。
それから、性について。
愛おしい触れたいと募る思いだけではなかった。
あの人にもっと愛されたかった、どうでも良い、そんな思いもあった。
叶えてしまえば消えてしまう欲、だからその直前までが好きだった。
この本は心にしまってあったものを探し当てる。
開いてみたら、手当てした絆創膏を大事にしまってあっただけだったり、また奥深くにしまいたくなったりするものもある。
読みながら感じる私の存在。
好きではないのに。
だがその一方で狂おしいほどに私自身は愛おしい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本書はセクシャルマイノリティ、性的多様性、セクハラ、性同一性障害、性自認、性指向、LGBTといったキーワードを軸に筆者の個人的な話を絡めつつ、社会批評をしたもの。上記の言葉は急速に広く知られるようになったけれど、実はその本質をじっくり吟味したり、我がことのように引き付けて考える機会はそんなにないのでは?と読みながら感じました。誰もが「多様性は大切だ」と言いながら、何処か他人事のように思っている節がある(私自身も含めて)。著者が記しているように、生きていく上でとても大切な愛や性について誰も教えてはくれない。手探りで試行錯誤を繰り返しながら獲得していくしかない。上手く言葉に出来ないけれど、読んでいてとても心が痛くて、泣きたいような気持ちになりました。著者が医師に言われたという「安全に狂う必要がある」この言葉の意味が良く解る。本書に登場する著者の友人、トランスジェンダーのMが語るところの体と心の性のズレ方を読んで人のセクシュアリティは凄く複雑で繊細であることを改めて思いました。やや散漫にも感じる内容でしたが、読んで良かったです。
-
極めて個人的な愛と性と存在の話でありながら、ある種普遍的でもある。
問いそのものは非常に面白い。
ただ、学問的にも個人的にも???となる部分は多々あるかな。 -
磯野真帆さん(医療人類学者)が「NHK出版新書創刊20周年記念 あの人も読んでいる「研究者の口コミフェア」(https://shoten-pr.nhk-book.co.jp/news/n42428.html)で推薦されていて、「これは読んでみなければ」と思い読んでみた。
社会的なるものと個人的なるものを結びつけながら、独特の世界を描きだす赤坂真理氏ならではの「愛」と「性」をめぐる思索の旅がめぐらされていて、おそらく読者によってはそれに振り落とされそうになるのではないか、とすら思う。
しかし、想像力を駆使しながらその「愛」と「性」をめぐる旅の軌跡をおっていくことで、はじめて見えてくるものがある。
「男」「女」というジェンダー二分法的な世界からはじまった世界が、足元から崩れ出していく。そして最後には、「愛」と「性」という複数の層からなるカオティックな感覚のなかで、「はじめに」で提示された「マジョリティという幻」が実感として伝わってくる。
「生まれた性にくつろげる人は本当にいるのだろうか?」という問いの意味が、本書を読む前と、あととで、ほんの少しだけ異なって感じられる。 -
この本を読むきっかけは、たぶん日刊紙での赤坂真理氏の対談を見たことによる。
サルトル『水入らず』、坂口安吾『私は海を抱きしめてゐたい』。存在と思考と身体性。ボーボアール『第二の性』。女であること。古くて陳腐なテーマだが、こんな本が生まれるのも、今の生きにくさの証かもしれない。
「愛し方」も「セックスの仕方(作法)」は誰も教えてくれないと赤坂氏。その通りかもかもしれないけど、幾度も失敗を繰り返し、へこみながらも、あるいは本を読み、悪友のささやきや人様のふりを見て、自分なりを見つけるものだと思うのだが、どうもそうでもないようだ。(若いころの不甲斐なさを思い出す)
「すべての人は、ずれている。」(本書)
まさにその通りです。それを前提としないのが、国や政治でして、社会までもが同調圧力とやらで、それに合わせようとするこで、自分の首を絞めている。不便だな。 -
改行が多く短文節でエッセイか小説を読んでるようで「個人の感想か」という感想
P82「加害者たちと同じ性を持った人間であるということが申し訳なく、消えてしまいたい」
夫に男がしたことの話をしてもその辺は男たちがもっと考えないといけないと思ってもそれは俺じゃないしってスタンスで、これは多数派なのか少数派なのか -
面白い。
マイノリティ、の前にマジョリティとされているものを考える。マイノリティが抱えている問題とまったく同じ問題を、個人個人が抱えている。
男と女のズレ、異性愛者と同性愛者のズレ、わたしとあなたのズレ、わたしとわたしのズレ。
マジョリティというのは幻想なのかもしれない。
2019年の東大入学式式辞のせいで傷付いた人間への寄り添いが感じられた。こう考えてくれる女性が存在するという事実を知るだけで、日々の緊張感が和らいだ気がする。 -
生徒は人格であり生きること(存在)につながる。著者の実感も含めて語られる深い話であった。
-
作家が自身の体験を主軸として愛と性と存在について綴ったエッセイであり、学術的な考察を求めていると肩透かしを食らうかもしれない。あくまでも「~のはなし」。だが、「性的マジョリティ」など存在しないことをとても読みやす文章で語ってくれる。愛と性はすべからくパーソナルなことであり、答えを持っているのは自分だけ、ということか。
-
ずっと気になってたんだけど
筆者の強い強い思い、ある種の呪いのようなものが込められている気がして読み進められなかった
内容としてはとても興味深い予感がしている
いつか読めるときがきたら読みたい