モスクワの伯爵

  • 早川書房
4.42
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感想 : 51
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  • Amazon.co.jp ・本 (624ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152098603

作品紹介・あらすじ

ロシア革命後、堕落した特権階級である罪で、今後一生ホテルから出られなくなった伯爵。絶望に沈みゆくなか、曲者ぞろいの従業員と客との出会いが彼に新たな生き方を選ばせる。艷やかな人物造形、きらびやかな生活描写、上質なユーモアに全世界が惚れた話題の書

感想・レビュー・書評

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  • 2019年の緊急事態宣言時に購入
    閉ざされて世界で生きることになった男の話を、あえて、むしろ救いを求めて読む。でも「感動するぞ!」と意気込まないとやってられない様な状態に世界が一変した為、感覚のバランス(この本を買った理由と価格に引っ張られ過大評価しないか)が保てなくなり、また非常に仕事が忙しくなったため中断
    2020年、再挑戦

    1922年、モスクワ。
    革命政府に無期限の軟禁刑を下されたロストフ伯爵。
    高級ホテルのスイートに住んでいたが、これからはその屋根裏で暮らさねばならない。
    ホテルを一歩出れば銃殺刑が待っている。

    ホテルでの軟禁生活が始まったばかりの頃に出てくる
    「自分の境遇の主人とならなければ、その人間は一生境遇の奴隷となる」この言葉が、物語全体のテーマ

    ホテルのレストランで出会った
    少女ニーナ(父親の都合でホテルに篭りきりホテル内のありとあらゆる場所を熟知)

    伯爵の旧友ミーシカ(伯爵を訪ねてくるクセのある文学者の親友)

    ホテル内のレストラン料理長のエミール(美食を追求する、ちょっと短気)

    マネージャーのアンドレイ(魔法の様な仕事ぶり)

    裁縫師のマリーナ(伯爵がやたらと迷惑をかける)

    ホテルを訪れた女優のニーナ(女優としての再起をかけ奮闘中)

    …様々な人と出会い。交流を深めていく、どの人も印象的で伯爵は生活の中に変化と希望を見出す。

    章が進むにつれ
    過去の出来事や、出会いが意外な形で問題を起こしたり、または思わぬ解決を招いたり。
    ロシアで起きた変化に沿って、翻弄される人も出てくる。

    全てが一律に良いことに向かうわけではなく、現実と同じく悪いことも起こる。
    数週間、数年単位で進む日々が記されているが、一日一日を懸命かつ優雅さを忘れずに生きている。
    これは、駆け足で読むのはおすすめしない。
    じっくりと読むべき。
    (読み直して正解だった)

    そして、コロナの問題がよぎる。
    私達も家を出ることが出来ない。
    出たとしても最低限の買い物や用事を済ませて帰る生活の中で、家の中での楽しみ方を模索する人達をニュースで見かける。
    私はそれを「頑張るなぁ」くらいに冷ややかに見ていた。だけど楽しむ工夫を凝らしたり、何でもない日々の中で起きたことをSNSに投稿したり、誰にも公開せず日記をつけたりすることは、それも「日々を見つめ直す行為」なのではないかと、この本を読んで気付かされる。
    無理をする必要はないはず、でも「受け入れる」よりも良い答えを探そうと動く方が良い気がしてくる。

    久しぶりに「生きてるうちに必ずまた読もう」と思う物語だった。

  • ロシア革命の混乱期、爵位を持つ多くの白系ロシア人が国外へ逃亡し、異国にあって極貧の生活を余儀なくされたことはよく知られている。

    この物語の主人公であるロストフ伯爵も、革命政府のもと裁判を受け、銃殺刑こそ免れたものの、それまで暮らしていたホテルからの禁足を命じられる。もし、一歩でもホテルから出ようものなら銃殺だと脅されて。本書は32歳から始まった伯爵の軟禁生活を、最終章の64歳まで描き切る。このように書くと、いかにも悲しみと苦しみに満ちた物語を想像するかもしれないが、そんなことは全くない。実に愛すべき、ユーモアと出会いに満ちた物語である。

    それは、ひとえに主人公のロストフ伯爵がとても魅力的であるからだろう。真面目で誠実であり、貴族であることを少しも鼻にかけない。高い教養と洗練された趣味を持つ本物の紳士なのだ。苦難にあって、彼はあきらめたり、悲嘆に暮れたりすることはない。それこそヤナギのように、折れることなく、しなやかに、その環境に自ら歩みよるのである。

    何の予備知識もなく読み始めたため、史実に基づいているのかと思ったが、完全なフィクションのようだ。だが伯爵が軟禁生活を送ったメトロポールは、今も実在する高級ホテルである。HPを見ると豪奢な造りと有名な朝食を確認することができる。

    通勤電車であたふたと読むよりは、紅茶にジャムでも落としながら読みたい本。軟禁生活とパンデミックの隔離生活を掛けたのか、ビル・ゲイツがコロナを乗り切るための一冊として挙げたことでも知られる本書。いや、そんなこと関係ないでしょう。ただ純粋に、読書を楽しめばいいと思う。

  • まずはロシア名を覚える三原則(ただし自己流)から。
    主人公:アレクサンドル・イリイチ・ロストフ伯爵、妹エレーナ。
    ①個人名+父称+苗字
     アレクサンドル・イリイチ・ロストフの場合は、イリイチは「イリアの息子」という意味(つまり父上はイリアというお名前)。妹のエレーナの父称は「イリイチナ(イリアの娘)」になる。
    ②愛称や名前の縮小がある。
     アレクサンドル→サーシャ 
     ミハエル→ミーシカ
    ③名前も苗字も、男性名と女性名がある。
     ロストフ家の女性(サーシャの祖母、母、妹)の場合は「ロストワ」。
    ⇒そのため妹エレーナは「エレーナ・イリイチナ・ロストワ」になります。

    お互いの立場や年齢、関係性や親しさにより呼びかけが変わります。
     アレクサンドル・イリイチ→きちんとした呼びかけ
     サーシャ→愛称。親しい呼びかけ。
     ロストフ→客観的な呼び方。

    時代背景の年表もメモしておきます。
    1905年:日露戦争集結のためのポーツマス条約締結
    血の日曜日事件⇒第1次ロシア革命
    1914-18年 第一次世界大戦
    1917年 三月(ロシア暦二月)革命(ニコライ2世退位⇒1918年一家の処刑)
    ⇒十一月(ロシア暦十月)革命⇒ソビエト政権成立
    1939-45年 第二次世界大戦
    1953年 スターリン死去
    1957年 フルシチョフ、ソビエト連邦最高指導者 ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記 に就任

    ===
    1918年にロシア皇帝ロマノフ一家が処刑された。
    知らせを聞いたアレクサンドル・ロストフ伯爵はパリからロシアに戻る。唯一の家族にして伯爵夫人である祖母を国外に逃すため、そして自分自身がロシアに留まるため。
    1922年ロストフは滞在先のモスクワのメトロポールホテルから革命委員会に呼び出される。貴族たちは爵位を剥奪され、国外退去や銃殺に処せられていた者もいる。
    だがかねてからのロストフ伯爵のロシアへの貢献と、皇帝時代に革命的な詩を発表していたことに免じて、現在滞在している高級ホテルのメトロポールホテルにいる限りは生命を保証された。

    生まれながらの貴族であるロストフ公爵の生存意義は紳士でいること。職業は持たないがこれまで受けてきた本物の教育と教養があり、ホテルに持ち込んだ隠し財産もある。そしてロストフ伯爵の愛国心も、モスクワへの愛着も変わらない。
     <自らの境遇の主人とならなければ、その人間は一生境遇の奴隷となる。P45>
     <叡智のもっとも確かない印は、常に朗らかであること。P558>
    それなら自分はどのように生きるべきか?常に紳士であること、境遇にただ身を委ねるのではなく、自らの意思で歩み寄ること。
    最初はただ日々を過ごしていた伯爵だが、ある出来事がきっかけで、生かされるのではなく自ら生きるために、ホテルの高級レストラン<ボヤルスキー>の給仕の職につくことになった。
    (※舞台であるモスクワのメトロポールホテルはこちら。
     ボヤルスキーらしき真ん中に噴水のあるレストランの写真も出ています。
    https://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g298484-d299869-Reviews-Hotel_Metropol_Moscow-Moscow_Central_Russia.html )

    ロストフ伯爵は伝統的な正しい貴族教育を受けた最後の世代だった。
    あらゆることに目を行き届かせ、その場の状況をひと目で見抜き、一度見聞きしたことは忘れない。それは人間に対しても同じで、瞬時に人を見抜き、特に人の良い面を見る。
    その性質のために生涯の監禁という身にも関わらず伯爵はホテルの内外で多くの友人を作った。
     伯爵とは正反対の生い立ちだが、学生時代からの変わらぬ友情を続けるミハイル。
     父親の仕事の関係でホテルに長期滞在している10歳の少女ニーナは、ホテルの隠された場所に伯爵を案内し、彼らは年齢を超えて真に互いをわかりあった。ニーナはホテルから出るときに、ホテルの合鍵を伯爵にプレゼントする。
     ホテルのレストラン<ボヤルスキー>のマネジャーのアンドレイと、総料理長のエミールは、伯爵が給仕になってからは”ボヤルスキーの三巨頭”として友情を深め、レストランとホテルの質を最高のものに保っていた。
     コンシェルジュのワシーリイはつねに人のいる場所を正確に把握していた。
     ヤナギのような物腰とハスキーボイスの女優アンナ・ウルバノワとの友情と愛情は生涯続く。
     ホテルの裁縫師マリーナは、伯爵の職業的、個人的な問題にも手を貸す。
     党の幹部のオレプ・ステパノヴィチ・グレブニコフは、ロシアが今後世界を相手にするために、欧米諸国の言語とその国の人々、とくに特権階級の人々を理解するためにロストフ伯爵に教えを請いに来る。やがて彼らは立場を超えて互いを信頼し合うようになる。
     アメリカ軍人のリチャードは、世界情勢を知るために、それよりも伯爵の人柄に惹かれて本物の友情を結ぶ。
     そしてソフィア。突然天から降ってきた贈り物のような、伯爵の娘となる少女。
    自分の真の友達が、困ったときにでも頼み事などしないような友達が、救いの手を差し伸べてきたら、受け入れるしかない。
    伯爵は自分の友だちにそうしたし、彼らもまた伯爵の頼みを断ることはなかった。

    ロシアは、日露戦争、第一次世界大戦、内乱、飢饉、赤色テロ、激動の時代をくぐり抜けて、今は国民が「同志」となり一時的な安定を迎えていた。しかし国内では政権争いや反革命的人物の収容所送り、党の命令は絶対だという体制が出来上がっている。
    この先世界はどちらにむかうのだろう?世界に向けて国が扉を開くのか、それとも各国は原子を武器にした競争をして内側から鍵をかけてしまうのか。

    死が突然訪れるのなら、生だってきっと突然訪れる。ホテルの中という狭い場所に監禁されながらも、世界の情勢を知り人を見てきた伯爵は、最後にある計画をたてるのだった…。

    ===

    物語の章は、伯爵の監禁開始の1922年から始まり、1日後、2日後、5日後、10日後、3週間後、6週間後…と倍々で進み、後半は一番最終年である1954年から数えてその8年前、4年前、2年前…と半分半分と進みます。
    これはあとがきによると、若い頃のことは細かく記憶しているが、キャリアをつんだころになると10年単位の記憶しか持たなくなるから、ということ。
    物語も、読者として時間が飛ぶように過ぎることに慣れていたら終盤は数時間刻みの緊迫のサスペンス小説風になり…ちょっとびっくりしました。

    ホテルという狭い場所に32年間監禁という状況で、ここまで動きのある物語が成り立つのはやはり主人公のロストフ伯爵の性質のためでしょう。
    特権階級というのは権威を独占するという悪い面がありそしてそれを倒すために革命が起きることがあります。
    しかし本来はの上流階級教育とは、この伯爵のように、紳士(淑女)でいるための正しい教養を身に着け、人を不快にさせず、つねに相手への敬意と余裕(ユーモア)を持ち、それにより世界を整えることができる存在であるべきなのだと思わせられます。
    ロストフ伯爵にも弱点欠点はあり、少しの虚栄心を人に妬まれ取り返しのつかない意趣返しをされてしまったり、プライベートを大事にするあまり人付き合いのやり方を指摘されたりします。
    宿敵となる"ビショップ"とは、未熟な彼に恥をかかせてことから長年の確執が生まれてしまいます(未熟を反省せず意趣返ししてくるほうも問題だが)。
    しかしここで己のやり方や古き良き時代に凝り固まったりせずに、その都度自分を調整してゆく柔軟性も持ちます。そのためにホテルの中にいながらも目線は世界を見ることができています。
    <過去は九割方変化するものだと腹をくくっているかぎり、人はごく明るい気持ちで過去を再訪することができるのである。P613>

    そして作者の語り口も、読者に対して「あなたがその角を曲がれば○○を見るだろう」とか、登場人物のことを「私たち(作者と読者)が彼女に最後にあったのは○○だった」など、まるで友達に語りかけるようです。

    伯爵と作者のチャーミングさがこの小説のチャーミングさになっているのですね。


    ※※※さて、以下ラスト完全ネタバレ兼、ラストを踏まえての疑問です。既読の方のご意見聞かせてくださると嬉しいです。m(_ _)m。※※※




    終盤でホテルでの伯爵の行動から、伯爵はホテルを抜け出して亡命するのだろうと思ったわけですよ。
    しかし伯爵の亡命計画準備はすべて目眩ましであって、結局は伯爵たちの屋敷のあったニジニ・ロヴゴロド州に行ったわけですよね。
    結局伯爵は、ラストでアンナと待ち合わせしたのなら、そこから改めて亡命するのか??
    それともソフィアを自由にすることが目的であり自分は亡命する気はない、遠くからソフィアの様子を伺って田舎で静かに暮らして死ぬつもりなのか??
    ロシア革命で皇帝が殺されてわざわざロシアに戻り留まり、ロシアに不安を覚えながらも愛国心は捨てなかったのだから、いまさら亡命はしないのだろうか。
    自由を手に入れたけれど、ソフィアともこれっきりなのだろうかとちょいと気になってしまう。

    • niwatokoさん
      ネタバレ兼疑問の部分、わたしも同じことを思いました! アンナは一緒に亡命できるのか?とか、ずっとソ連にいたらいずれ捕まってしまいそう?とか。...
      ネタバレ兼疑問の部分、わたしも同じことを思いました! アンナは一緒に亡命できるのか?とか、ずっとソ連にいたらいずれ捕まってしまいそう?とか。でも、ソ連当局は、もはや伯爵が亡命したと信じて、国内はさがさないかな?とか。懐かしい場所でアンナと静かに暮らすのかな?
      2020/08/11
    • niwatokoさん
      返信ありがとうございました! そうですね、ソフィアには自分も亡命するって言ってありますよね。わたしの勝手な希望としては、アンナも一緒に亡命し...
      返信ありがとうございました! そうですね、ソフィアには自分も亡命するって言ってありますよね。わたしの勝手な希望としては、アンナも一緒に亡命して、パリでソフィアと再会して、自由に暮らしてほしいです。そうなったと思いたいです。
      2020/08/13
    • 淳水堂さん
      niwatokoさん
      その案賛成!
      "その後"が読者に任されているなら、そのハッピーエンドを考えたっていいですよね(^^)
      niwatokoさん
      その案賛成!
      "その後"が読者に任されているなら、そのハッピーエンドを考えたっていいですよね(^^)
      2020/08/13
  • 革命政府に無期限の軟禁刑を下され、高級ホテル「メトロポール」の屋根裏で、一生暮らさねばならなくなった、「アレクサンドル・ロストフ」伯爵。

    しかし、心技体ともに貴族としての誇り高き精神を持ち続ける彼の人生は、表向きは以前と変わらぬような、落ち着いた華やかさを見せているように感じるが、振り返ってみると、山あり谷ありの波乱万丈なものであり、大切な人との別れや、自分の人生を投げ出してしまいそうな時もあったが、気付いたら、やはり彼自身の人間性により、変わらぬ優雅さを纏って人生を歩む姿に、彼の、安易に譲ることのできない生き様を感じられたような気がしました。

    そして、その人生は、たとえ私が体験できないようなものだとしても、何か共感めいたものも感じることができたのが、また印象的であって、女子供にあたふたする姿や、度胸をきめた一発勝負的な場面等には、貴族も感情を持った人間なんだなと(当たり前だが)、思いました。

    また、彼の人生以外でも読み所は多く、彼の口から話される豊富な知識─歴史や文学、食事やワイン、音楽に映画、哲学、果てには人生観までも─を味わえる楽しさも心地良く、私的には、映画「カサブランカ」の細かいシーンから考察される、世界を変えるための密かで確かな一歩に、とても納得させられるものがありました。

    更に、訳者あとがきにあるように、数字への尋常ならざる拘りから、人間の感じる時間の流れ(長短)を、小説内で再現していたり、序盤のエピソードが、後半の別のエピソードに反映されていたりと、ストーリーテリングも面白く、ロシア革命時代の知識が無くても、充分楽しめると思います。

    なぜなら、作者の「エイモア・トールズ」が描く人間の姿に、時を超えた普遍的なものを感じたからであり、以下のような見方をしてくれる方の小説が、楽しくないわけがないからです。

    『人間はまことに気まぐれかつ複雑で、愉快な矛盾のかたまりであり、正しく見極めるには、熟慮どころか、再熟慮すべきなのだ─そしてできるかぎりあらゆる時間に、できるかぎりあらゆる状況で親しく付き合うまでは、軽々に判断しないというゆるぎのない決意が必要なのだ』

  • ロシア文学や、彼の国を舞台にした話に関しては物々しくて殺伐とした印象があった。(イラストもさることながらライトグリーン・ゴールド・モノトーンのコンビネーションが完璧な表紙とそれにマッチした上品な花切れに一目惚れしたのが動機…)

    それに対して本書はお貴族様が主人公なので、彼の人柄や彼を取り巻く世界が実に紳士的でエレガント!長ったらしい小話や馴染みのない彼らの近代史、凝ったモノの例え・言い回しのせいで何度も立ち止まらなきゃいけなかったけど、少なくとも読んでいてイラつくことはなかった。

    のらりくらりと(絶対に真似できないような)受け応えをし、時には自分から首を突っ込んだりして難題をかわしていくさまは「お見事!」と拍手を送りたくなる。(バーでドイツ人からの「挑戦」に受けて立つ場面は痛快)

    「人間は生きることに真剣であるべきだが、時間に真剣すぎてはならない」
    「自分の境遇の主人とならなければ、その人間は一生境遇の奴隷となる」

    一族の金言がなかったら伯爵もあそこまで楽しんで、ときには果敢に乗り切ることもできなかったはず。
    それにしても…こちらが時間にとらわれている一方で当の伯爵本人は相手にもしていないのがやっぱり不思議。歳を重ねて経験を積めばそんな境地にもなるのかなと彼のロングステイを振り返っている。

  • 革命によって、1922年からモスクワのホテルに一生軟禁の刑を言い渡された元貴族のロストフ伯爵の32年間の物語。
    伯爵は優雅で茶目っ気のある魅力的な人物で、軟禁といっても抑圧された雰囲気ではなく、ホテルのスタッフや宿泊客との交流がユーモラスで楽しい。
    恨まず腐らず、自らの境遇の主人たれ、という意識でい続けるってすごいなと思った。

    元貴族ゆえに軟禁刑という、時代に翻弄されていながら、ホテルにいる限り粛清とも飢えとも無縁で世の中の影響が伯爵には直接降りかからないのは、運がいいと言っていいのかどうか。
    周りの人たちの変化を見たときには、ここだけ隔絶されていると改めて感じた。

    ラストは想像していたのとは少し違っていて、伯爵に相応しく素敵だった。

  • 「自分の境遇の主人とならねば、その人間は一生境遇の奴隷となる」
    陰鬱設定なのに、技巧的で、軽妙で、確かに哀愁もあるのに、最後は爽快。
    アメリカ人著者による、とてもアメリカ的な作りをした、ロシア舞台のエンタメ時代小説。

    ロシア革命後の1922年。革命政府により、「堕落した特権階級である罪」で、住まいとしていた高級ホテルに一生軟禁されることが決まったロストフ伯爵32歳。
    ホテルの外に一歩でも出れば銃殺刑とされ、部屋も高級スイートから屋根裏部屋に強制移住。

    絶望的で単調な日々の中、彼の心と体を保たせたのは、彼の考える紳士の流儀を貫くこと、ホテルの宿泊客や従業員との交流、身についた教養を活かした「仕事」、そしてなにより…。

    彼の軟禁生活は、続く。
    軟禁初年度の1922年に出会い、退屈に苦しむ彼を引っ張り回してホテルの秘密のあれこれを授けた9歳の少女・ニーナが成人し、女児を産み。その女児・ソフィアが、21歳になるまでの32年間に及ぶ1954年まで。

    まるで、革命後の共産党支配と第二次世界大戦、スターリンの死と権力闘争、そして、冷戦によって、終わらない激動と混沌のロシア近現代史と並走するように。伯爵は、自由の身で過ごした年月と同じ年月を不自由の身で過ごす。
    そんな生活に終止符を打たせたものは…。

    彼が、ソフィアに言った台詞が、胸に沁みる。
    「…うん、それでだね、ソフィア、わたしが生まれた日以来、たった一度だけ人生が特定の時間に特定の場所にいることをわたしに求めたことがあった。それは、おまえのお母さんがメトロポールのロビーにおまえを連れてきたときのことだよ。…」

    終盤で登場する実在の有名映画(1942年作のあの名作です)がいかにもな「小道具」すぎて、ラストの結末が予想できてしまったのは少し残念だけど、読後感の良い素敵な小説でした。

  • 書名からロシア文学だと思うかもしれないが作者はアメリカ人。原作は英語で書かれている。原題は<A Gentleman in Moscow>(モスクワの紳士)。邦題は主人公アレクサンドル・イリイチ・ロストフが帝政ロシアの伯爵であることに由来する。小説が扱うのは一九二二年から一九四五年まで。小説が始まる五年前の一九一七年、ロシアでは二月革命と十月革命が起きている。貴族には、亡命、流刑、投獄、銃殺など、悲惨な運命が待っていた。

    暗い予感に躊躇するかもしれないが、早まってはいけない。主人公のロストフ伯爵は銃殺刑を免れる。革命前に書いた詩が人民に行動を促した事実が認められたのだ。従来どおり、モスクワの超一流ホテル、メトロポールに住むことを許される。ただし、部屋は最上級のスイートから屋根裏部屋に変わる。ホテル外に一歩でも出たら銃殺刑という処分。貴族のプライドを傷つけ、自由を奪う、見せしめの刑である。

    伯爵は意気消沈したか、それとも自分をこんな目にあわせた相手に復讐を誓っただろうか。自暴自棄になっただろうか。とんでもない。名づけ親である大公の「自らの境遇の奴隷となってはならない」というモットーに従い、新しい境遇を受け入れ、第二の人生に足を踏み出してゆく。伯爵は逆境を前向きにとらえ、新生を愉しむ。その姿はむしろ明るく颯爽としている。

    この伯爵という人物が実に魅力的だ。小説の魅力の大半はこの人物にかかっている。当意即妙の話術。文学や音楽に関する教養。人を惹きつける態度物腰。人間観察力による客の差配。料理の選択とそれに合わせるワインに関する蘊蓄を含め、貴族として持ち合わせている資質に加え、主人公だけが持つ人間的魅力に溢れている。

    貴族とか紳士とかいう人々はこんなふうに生きているのか、とその優雅さにため息が出る。何しろ、父が作らせた時計は一日二度しか鳴らない。紳士たるもの時間に縛られてはならぬのだ。朝起きたら、コーヒーとビスケット、果物を摂り、昼の十二時に時計が鳴るまでは読書。<ピアッツァ>で昼食を楽しんだ後は好きなことに時間を費やす。晩餐はレストラン<ボヤルスキー>でワインを伴に、食後はバー<シャリャーピン>でブランデーを一杯。そして夜十二時の時計の音を聞く前に眠るというもの。

    机の脚に隠された金貨の力もあり、欲しいものは取り寄せる。外に出ずとも暮らし向きに不自由はない。午前中は読書で時間がつぶれるが、午後の無聊をどうしたものか。主人公を退屈から救うのが少女ニーナとの出会いだ。仕事に忙しい父親に放っておかれたせいで、ニーナはホテルを遊び場にしていた。伯爵はニーナに案内されホテルのバックヤードに通暁する。秘密の通路や隠し部屋は単なる遊び場所ではなく、後に出てくるスパイ活劇での出番を待つ。伯爵と少女との会話がチャーミング。

    貴族にロマンスはつきものだが、外出の自由を奪われた男は女とどう付き合うのか。密室物のミステリ同様、軟禁状態での色恋は不可能に思える。伯爵はコース料理はメインディッシュから逆算してオードブルを選ぶ。同様に作家はストーリを組み立てる時点で、後から起きる事件の原因を先に置く。綿密に練られたプロットがあって、多くの伏線が張られている。二度読みたくなる。ああ、これはこのためだったのか、と膝を叩くこと請合い。

    ホームズ張りの観察眼の持ち主である伯爵は、レストランで客をどの席に案内するのが最適か一目でわかる。その特技を生かして給仕長となる。マネージャーのアンドレイ、料理長のエミールと互いの力量を知る者同士の間に友情が芽生える。その一方で、伯爵の前に一人の男が立ちふさがる。給仕のビショップだ。党の実力者にコネがあり、権力の階段を上ってゆく。この男が伯爵の宿敵となる。

    敵がいれば味方もできる。グルジア出身の元赤軍大佐オシブがその一人。外交上の必要から伯爵に英仏語会話やジェントルマン・シップを学ぶうち肝胆相照らす仲になる。もう一人がバーの相客リチャード。アメリカ人ながら育ちの良さや学歴、と共通項のある二人はすぐに打ち解ける。リチャードがプレゼントした蓄音機とレコードも大事な伏線のひとつ。

    革命時、パリにいた伯爵は身の安全を図るなら帰るべきではなかった。祖母の国外脱出を援けるためなら自分も一緒に逃げればいい。戦いに加わらないのに、なぜ国内にとどまったのか。それには深い理由があった。新しい友との出会いの中で、過去の経緯が語られる。伯爵の衒気が敵を作り、最愛の妹を傷つけたのだ。王女をめぐる軽騎兵と貴族の恋の鞘当て。ツルゲーネフの小説にでも出てきそうな過去の逸話が伯爵の人物像に陰翳を添える。

    貴族であることを理由に処分されながら、伯爵は一概に革命後のソヴィエトに対して批判的な立ち位置をとらない。むしろ、時代というものは動いてゆくものだ、と冷静に受け止めている。しかし、スターリン独裁による粛清やシベリアの収容所という現実は、自分の友人知人の運命と直接関わってくる。ニーナに代わり、その娘を育てることになるのもニーナの夫のシベリア送りがからんでいる。

    三十代から六十代までの人生を、伯爵はホテルの外に出ることなく、友達に恵まれ、女性を愛し、「娘」を授かり、子育てを経験し、やがて立派に成長した娘を外の世界に送り出す。どんな時代にあっても、どんなところに暮らしていても、人と人とは邂逅する。階級差やイデオロギー、国籍を超えて、人は人と生きてゆく。近頃珍しい人間賛歌が謳いあげられる。

    ひとつの街のように、まるで異なる人生を生きてきた人と人が、ひと時のめぐり逢いを生きる、ホテルという場所を生かして、魅力的な登場人物を配し、ここぞというときに動かす。それまで軽い喜劇調で進んでいた話が、最高潮に達すると、ル・カレのスパイ小説のようなシリアス調に変化する。はじめに張っておいた伏線が次々と回収され、見事に収斂する。

    格式あるメトロポール・ホテルの調度は勿論のこと、大きなフロアを泳ぐように動き回る給仕たち。様々な食材をさばくレストランの調理場。林檎の花咲きこぼれるニジニ・ノヴゴロド。ライラックの蜜を求めて蜜蜂が群舞するアレクサンドロフスキー庭園、と魅力溢れる風景が眼の前に浮び上る。まるで映画の一シーンを見るようだと思っていたら、映画化も決まっているという。アンドレイのナイフ四本のジャグリング、エミールの包丁さばき、と見どころは多いが、演ずる役者もさぞ大変なことだろう。

    • 淳水堂さん
      abraxasさんこんにちは。
      最近海外小説読書中なんですが、abraxasさんがレビューアーにいらして、読書傾向が似ていて嬉しいです。
      ...
      abraxasさんこんにちは。
      最近海外小説読書中なんですが、abraxasさんがレビューアーにいらして、読書傾向が似ていて嬉しいです。

      この本は本当に魅力的でしたね。
      人物像、国谷立場を超えての信頼、本物の紳士、ラストのサスペンス風展開。
      しかし伯爵は国を出るのか出ないのかは気になるところ。

      また別の本でお会いしましょう!
      2020/08/09
    • abraxasさん
      淳水堂さん今晩は。
      こちらもそれは同じです。
      こういう気持ちのいい本に出会えるとうれしいですね。
      また別の本で出会える時を楽しみにし...
      淳水堂さん今晩は。
      こちらもそれは同じです。
      こういう気持ちのいい本に出会えるとうれしいですね。
      また別の本で出会える時を楽しみにしています。
      2020/08/09
  • 革命を経て、帝国から共産国へ変わったロシア(ソ連)。貴族だからという理由での銃殺刑を免れ、モスクワの名門ホテルに生涯軟禁されることなった元伯爵の物語。
    宝塚に、「神々の土地」という芝居の演目がある。おそらくいま最もヅカファンから支持されている座付き作家上田久美子さんの作品で、30年以上宝塚ファンの私がもしかしたら一番好きかもしれない演目である。帝政崩壊・革命のきっかけともなったラスプーチン暗殺の実行者として知られる、時の皇帝ニコライ二世の従弟 ドミトリー・パヴロヴィチ・ロマノフが主人公のモデルになっている、美しく重厚な作品だ。ストーリーが登場人物を動かすのではなく、登場人物がストーリーを作っている感じがとても好きだ。
    それが頭にある状態で読み始めたのだけれど、この小説は全然「神々の土地」とは違った。悲壮感はごく薄く、どちらかというと軽やかでユーモアに溢れた物語だった。
    元伯爵も彼と関わりあう登場人物たちもとても魅力的で、温かく、ロシア人に対して私が抱いていたイメージ(というより偏見…)が変わった。
    「ここで終わってしまうの?」という幕切れだったけれど、この後の展開を自分なりに想像するのも楽しい。この小説「以後」の伯爵の人生について、きっと人それぞれ想像することが違うんだろうな…

  • なんと言おう。今年最高の読書体験。ベスト1。
    軽くネタバレですが、ロシア版ゴージャス『ショーシャンクの空に』。何度笑い泣きしたことか。金箔を効果的に使った装丁も大好き。
    ロシア革命により生涯を豪華ホテルの屋根裏部屋に軟禁されることになった伯爵が、死を考えながら幾度も生きる意味を見つけ、人と絆を結んでいく。
    もともとホテルが舞台の話は好物なので、舞台となっているモスクワ・メトロポールという実在する超一流の宿の、細かく書き込まれた舞台裏も、プロに徹するスタッフの仕事ぶりと人柄も、すべてが極上の味として刻まれました。
    抜き書きしておきたいセリフ、場面、考察がたかさんあるけど、「自らの境遇の奴隷となってはならない」が今の自分にはいちばん響いたな。歳だから、忙しいから、柄じゃないからとあきらめたり、夢見ることすらしなくなったことが、どれだけ私の人生を貧しくしてきたか。
    ってわけで、ランチ時間に皇居の散歩にでかけてみたりね。
    そんなふうに行動を変えてくれる本ってそうそう出会えない。
    ずっと読んでいたかった。味わっていたかった。
    ありがとう!!

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