- Amazon.co.jp ・本 (106ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163234601
作品紹介・あらすじ
俺はいつも、「オバアチャン、オバアチャン、オバアチャン」で、この家にいて祖母に向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ。第131回芥川賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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YOとかに惑わされないよう、文体への注視を一旦やめ、物語のみに焦点を当てるという読み方をあえて自分に課してみた。
そうすると印象に残ったのは、この物語が、孫が祖母を献身的に介護するという“いい話”で、主人公(=作者)が見た目とは違って実は“いいひと”だ、っていうこと。その証拠に、主人公が祖母に着せるのは「おむつ」ではなく「襁褓(むつき)」だ。
だが、介護する青年のイイ話だけでは、ありきたり。既存にない独自の作品への昇華には、もう一歩突き抜けるための何かが必要。では、この作品のオリジナリティは何か? 私なりに考え、出した結論は、「敵を次から次へと作り出す上手さ」。
作者が他より頭一つ突き抜けたのは、その文体だけではなく、正義ヅラした“クソ”として描かれる奴らを、筆の勢いでバッサバッサと斬っていくところにある。そう確信した。
例えばそれは、祖母から見て実の子どもにあたるのに、祖母と寝食を共にして自ら汗をかくことを避け、たまに来ては綺麗事と自己保身しか言わない叔父叔母ども。そして一くくりに「介護地獄」とかキャッチフレーズ的に中身ゼロの放送しかしないワイドショー。果てには、よりによって国際線の機中で放映された国辱的にクダラナイ映画「踊る大捜査某」(というタイトルで登場)といったところ。
私たち読者は、そういう主人公の快刀乱麻を断つ書きぶりにカタルシスが得られる。読者はそれでいいだろう。
しかし、作家にとって、敵を次々と作るという作風は、他方で、危険な側面ももつ。少年ジャンプの連載漫画に限らず、敵を倒し、次に進もうと思えば、もっと強い敵を作らなければならないというジレンマが生じる。モブ・ノリオさんは果たして、この作品で偽善者どもを次から次へと引きずり出し、面の皮を剥いだ末に、作家としての昇華に至れたのだろうか?
書いてるときは、そりゃ、気持ちよかったと思うけど…
でも私たちは経験上知っている。その結果、恐ろしい疲弊と閉塞感が襲ってくることを。その作風から次に進みたいと考えたとき、その気持ちよさを超えるのは簡単な作業じゃない。ハッパなんかと比べ物にならない禁断症状がクルはず。
本当は敵を作って切り捨てていく作風に走るんじゃなく、徹底して介護のリアルと人間心理に迫るっていうのが、作家として本当はカッコよかったんじゃないか、なんて思う。素人ながら一言だけ。
(2012/7/10)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
介護によって
溜まりに溜まった思いを
吐き出した作品
文句を吐きまくっている個所には
やたら
HAHAHA とか YO が頻出
近代的意識が培養した
デリカシーの欠如に対する無自覚 -
熱かったなあ。勢いがすごい。最初は読みにくくて内容が頭に入ってこなかったけれど、入り込めれば自分の心までもが熱くなるような小説だった。
しかし、一旦読むのをやめると、また入り込むのに時間がかかる。新しい体験ではあったが、あまり好みではなかった。
著者独特のラップ調のような、饒舌な語りがあってこそ、この「自宅介護」のリアルがよりリアルに感じられるし、そこに新しさと面白さがあるのだと思う。
介護には、介護者と被介護者だけの空間があり、お互いを介して様々な葛藤が生まれる。介護をしていく中で、著者の心の中で渦巻く感情がとてもリアルだった。自分の中の「介護」というものに対する考えが、実際にそれを経験している人に比べてこんなにも深さが違うのかと衝撃だった。
介護は辛い、そんな陳腐な言葉では言い表せない。
介護をしていた時間が結果的に何ヶ月、何年、何十年だろうと、それを今現在此処でしているその人にとっては、それが出口のない永遠であるという絶望。自分は睡眠時間を削ってまでこんなにも必死に介護をしているのに、自分より濃い血を分けている親戚はただの傍観者であるということへの憤り。
しかし、だからといって、もし親戚が祖母の介護を引き受けると言ったところで、著者はそれを許しはしないだろう。それだけの使命感と、祖母を介護できるのは自分だという強い意志を著者はもっている。
親戚が偶然祖母の涙に遭遇したとき、まるで自分だけが祖母の素の顔、本心を知ったかのようなそぶりで著者に話す。それを聞き、酔いしれながら同情しているかのように涙を流す親戚を目の当たりにしたとき、果たして著者はどんな思いであっただろう。
介護者と被介護者には、その人たちだけに流れる特別な時間が存在し、その特別な時間が積み重なり、その重なったいくつもの日々があってこその特別な絶望と特別な幸福感を持ち合わせながら生きている。
そして、著者はそこに介入してくる何かには鋭い視線を向ける。それだけ著者は介護者として、介護者本人にしか分からない特別な感情を背負いながら生きていることを知る。
この小説を読んで、介護というのは、その背景に被介護者に対する至上の愛がなければ本当の介護は成立しないのだと痛感した。
しかし、それと同時に、終盤に近づくにつれて、祖母の介護に対する一種の依存のようなものを感じた。
「この家にいて祖母に向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ。知らず知らずのうちに、ばあちゃんの世話だけを己の杖にして、そこにしがみつくことで生きていた。それ以外の時間、俺は疲弊した俺の抜け殻を持て余して死んでいる」
自分の時間のほとんどを介護にあてる、その過程で、それが自分の使命だと思わなければやっていけなかったのか、それは分からないが、祖母がいて、その祖母を介護するということこそが自分の生きる意味であり、誇りであり、使命である、それを失ったら、自分の生をも失うのと同義だという感覚であったのかもしれない。愛する祖母がこの世からいなくなってしまう絶望は当然のことながら、それと同時に自分の生きる意味自体がなくなってしまう絶望までもが感じられ、そこにとても心が痛くなった。 -
当時祖母の介護をしていたので興味を惹かれて購入。
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ユーモアや明るさのある文体が、ときおり沈鬱な文体より深い哀しみや葛藤を表現できることがある。とくにこの作品はそれにあたって、小説でありながらも長いリリックのように読めた。
ラップ口調がどうなのかについては色々議論があるだろうが、個人的にはよかった。HIPHOPは持たざる者の音楽という側面が強いので、この「俺」がHIPHOPを好きになり、触発されて大麻を吸うのも納得できる。
介護のなかで、「俺」は様々な敵を見出すけど、その姿勢もある意味HIPHOP的。≪終わってる≫世代代表と称する「俺」の、生の不在から介護を通じて、生の意味を獲得し守ろうとする闘いの日々として読めた。 -
介護という、もはや超高齢化社会になった日本においては日常のものとなりつつあることに、単に辛いとかといった陳腐な言葉で片付けることなく、取り巻く家族のつながりの危うさ、負担の偏り、介護の基本となりうるものは愛情ということなどなど、色々と今更ながら考えさせられる。
2004年に初版のものであるため、当時としては介護が今よりも身近ではなかっただけに、社会的にこの、作品が問題となったところもあろう。(気付けば、街の至るそこあちこに、やたらと老人介護ホームは増えたのは間違いないなぁ。)
文体としては、始終ラップ調で、それがまるで息をつく島すらなく繰り出され、段落すらも許さないため、慣れるまでに多くの人は抵抗を感じるのではなかろうか。
そういう自分もそう感じた一人で、途中途中に繰り出される「YO、朋輩(ニガー)」などという言葉にどういった意味と効果があるか分からず、何処か独り善がりさを感じた。(そういった効果を狙ったなら成功なのであろうが)
それでも芥川賞を受賞しており、帯に内田裕也が、「選んだYATSURAもエライ!」と書いており、ある意味英断なのだろう。 -
介護についての記述はうんうんと思うところもあったけど、切れ目のない、癖のある文章は苦手で読みにくく感じた。
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https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/49390