- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167107123
感想・レビュー・書評
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この本は、「知の巨人」と呼ばれた小林秀雄さんの本ですが、著者の本は初めて読みました。
この本は、私には難しく、なかなか読み進まないので、苦労しました(泣)
もっと著者の考え方や時代背景を知った上で読んだほうがよかったと思いました。
ぜひぜひ読んでみて下さい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
表現が難しくて、理解しながら読めたのは「お月見」以降の章。青年と老年とか。
中盤までは、こんな難しい文章が平気で新聞や雑誌に載るなんて、昔の人の教養恐るべし…などと圧倒されながら読み流していた。読み流すしかなかった。
ただ、難しく感じるのは自分だけではないようで、読んでいる最中に、読みづらいという話を周りから聞いた。
読みにくさに焦点を当てた本もあるらしいので、そちらも読んでみようと思う。
どうせ歯が立たないことはわかってるのに、続きを読んでみたくなるんだよなあ。
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ヒトラー、平家物語、ドストエフスキー。その他は土俵にあがれず仕舞い。はぁそうなのか、この漢字を使うのか、と成る程に思えど評価ほど感銘を受けなかった。また歳を重ねステージが変われば吸収出来るものもあろうか。
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アラサーにして初めて知る、小林秀雄の魅力。一言でいえば「かっこいい」「しびれる」。
これは中高生の生真面目な時期に読めば劇薬だったはずだ。
ほっとするような、口惜しいような。
中上も大江も太宰も安吾もドストも詩も絵も音楽も、とにかくあらゆる芸術の、見方が変わる。おおげさすぎるか。見方が加わる。
とにかく知識に立脚して、その上で「シンプルに」。「生きる」にもつながりそうだ。
前半、「考えるヒント」。
・「歴史」。変り者という言葉→フロイトの自伝→歴史意識への言及。このアクロバット。
・「言葉」。本居宣長。生活され経験される言葉にしか興味がなかった。言葉の、形を似せるか意を似せるか。感情をととのえて歌が生まれる。
・「ヒットラーと悪魔」。スタヴローギン。
後半、「四季」。このエッセイも、冴え冴えとしている。
・「さくら」。本居宣長の歌について、やまとごころがうんたらかんたらではなく、「桜はいい花だ、実にいい花だと私は思う」と解釈。
・「人形」「花見」。これはもはや小説だ。それも極上の、やさしい情感の込められた。 -
小林の評論は、対象について評論しているつもりでも、いつのまにか小林自身を表現してしまう。
という様なことを青山二郎が言っていた、という様なことを白洲正子が書籍に残しています。
私にとって、このシリーズの読後感が、
「小林秀雄についてもっと知りたい!」
である以上、これは正しい評価なんだろうと思います。
評論の対象がなんであれ、小林的であるその点について、熱狂的に読めました。
評論を読む態度としては失格ですが、小林的なものを批判的に読むのは私には無理です。 -
「いつかはクラウン」ならぬ、「いつかは小林秀雄」
の思いは以前から持っているものの、挑戦した数冊は50頁も読み進められずに撤退。書店で手にしてパラパラと頁をめくった限りでは、遂にこの日は来るのか⁈と思わせたのだが…
結果は、またもや返り討ちとなった。
それにしても、ここまで難解な表現を使う必要があったのか?皆にわかりやすい表現を敢えて避ける事によって、解釈の幅を広げて逃げを打っているのか?または、大家の表現をありがたがって奉ってもらう為の手段だったのではないか?と、未だ1冊も読み切れてない者が言ってもバチは当たるまい…
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学生時代、小林秀雄という批評家は権威の象徴であった。その格調高く示唆に富んだ文体に陶酔もしたが反発もした。結論の出ないまま関係が途絶して数十年。最近、彼の文章が大学入試に初めて登場した、というニュースを聞いて読み返した。頭の中で何かがまた回りだした、そういう印象だった。そして彼の文章が自分の血や肉になっていることを再認識。再評価されるべき。
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〈顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文をなしたものではない〉
批評家、小林秀雄さんのエッセイ集。
小林さんの本は初めて読んだのですが、これを紹介する言葉が、今の僕にはありません。こんな風に物事を考えられるようになりたい。
ヒトラーやら平家物語やらプラトンやらをテーマに批評をする中で、現代人を論じます。
スケールが大きくなりすぎないのがすごい。自分の語れる範囲は出ないんですよ。
とても正直。
魂というか、精神というか、そうしたものを非常に重んじていた方。作品を批評する際に、その作者がどんな人間かをジィーーっと見ていた。
そこには時代を飛ばした親近感があります。
読んでて気持ちいいです。
うおー、ってなった。
読み返したいが時間があるかな笑 -
小林秀雄の思考のスタイルは、徹底的に「私」(近代的自我ではない)や、「人」、「情」にこだわるところだと思う。社会や政治の蒙昧な一挙一動に注意を払うのでなく、個人、言葉、歴史のほんとうの姿を掴んで離さぬ小林の姿勢を見て、身につまされる思いがする。ただ、ドゥルーズのような「概念の創造としての哲学」や、寺山修司の「行為としての詩」が好きな私は反発を覚えることもあるのですが。
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考えるとは、合理的に考える事だ。能率的に考える事ではない。考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に考える人には、極めて正常な事である。だが、能率的に考えている人には異常な事だろう。