中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史 (文春文庫 よ 35-1)

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  • / ISBN・EAN: 9784167900847

作品紹介・あらすじ

與那覇先生の日本史名講義! 文庫版附録・宇野常寛氏との特別対談!中国が既に千年も前に辿りついた境地に、日本は抗いつつも近づいている。まったく新しい枠組みによって描かれる、新日本史!

感想・レビュー・書評

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  • 近世(初期近代、early modern)の中国に注目する
    近世は日本史だけではない

    世界ではじめに近世に入ったのは「宋朝の中国」
    ヨーロッパの近代啓蒙主義は、宋朝の近世儒学のリメイクとして考えられる
    ルネサンスの三大発明はどれも宋代中国の発明
    →どうして近代には西洋が中国を追い越し、産業革命は起きたのか?
    →どうして近代化・西洋化が捗っていなかったはずの中国が大国に返り咲いたのか?
     どうして先進国だった中国は、人権意識や議会政治だけはいつまでも育たないのか?

    【1】
    冷戦後
    ・一極支配
    ・自由(機会の平等)の名の下に平等(結果の平等)が蔑ろにされる=自由競争

    内藤湖南「宋代以降近世説」
    唐(中世)と宋(近世)=中華文明の分け方
    ①貴族制度を全廃し皇帝独裁政治
    ②経済社会を自由化する代わりに政治の秩序を一極支配によって維持する仕組み
    ・農民に貨幣使用を行き渡らせるように王安石の青苗法→商売をするように
    ・自由競争で負けた時の保険として、「宗族」という父系血縁のネットワーク
    ・朱熹の朱子学=褒める道具

    ・日本は理念に賭けることができない、現実との落差を騒ぐ
    ・古代日本で科挙ができなかったのは、メディア・教育インフラが整っていなかったから(中国にはすでに印刷技術があった)
    ・令外官は実質に貴族の世襲になった→藤原氏の台頭

    ・武士に注目しても古代と中世を区別できない。日本中世は「中国銭の時代」
    ・日宋貿易→院政?
    ・新しいことを始めようとした平家が旧体制的な源氏に負けた(だから武士の時代ではないし、日本はグローバル化が下手)

    【2】
    ・モンゴルは野蛮な侵略者ではなく、グローバリゼーションの原点
    ・間接統治形式の採用→広い支配
    ・日本の元寇と韓国の高麗の違い。「国難ここに見る」ではなかった。軍閥政府の鎌倉幕府こそグローバル化の道を閉ざした
    ・後醍醐天皇は異形というよりスタンダード、他の奴らが変
    ・最後の挑戦者・足利義満も上手くいかなかった(暗殺?突然の病死)
    =日本において中国化を目指すとおおむね短命に終わる
    ・明朝の朱元璋は反グローバリズムで、その隙間をヨーロッパが埋めた
    ・銀の大行進→全世界が戦国乱世
    ・清朝は自由放任政策→好景気→格差

    【3】
    ・応仁の乱という転換点
    ・安土桃山期に象徴天皇制ができた?
    ・信長のライバルは「本願寺」

    ・☆なぜ近世日本は身分制社会を選んだのか?
    →イネとイエ。稲作の普及は徳川初期の新田開発によるもの。中世までは畑作の比率が高かったが稲作より収入が得られないため、中国化に賛成していた。が、インフラ的に食えるくらいにはなったので自由市場の魅力がなくなった。→大家族から直系家族へ。核家族化によって子供が増えた。≒農地改革から高度成長とも似てる
    封建的
    ・家職制によるジョブトレーニング

    【4】
    ・「マルサスの罠」の抜け穴=家事の市場化@西洋
    ・☆「姥捨山は偽の江戸、孫捨て都市が真の江戸」(都市の蟻地獄効果、速水融)=若者のために老婆が犠牲になるのではなく、イエを長男に継がしたジジババが次男・三男を都市に捨てる=出稼ぎ者の高死亡率
    =日本型の福祉社会
    ・江戸時代≒北朝鮮?

    【5】
    ・明治維新は大したことなく、日本独自の近世が耐用年数を超え、中国化せざるを得なくなった
    ・福沢諭吉は「機会の平等」は説いたが「結果の平等」は説いていない
    =新自由主義的、市場原理主義的
    ・西洋化と中国化のタイミングが重なった、中国や朝鮮はそもそも中国化していたので西洋化には魅力がなかった

    ・識字率はバラツキがあり、仕事柄文字を使う人が近世から読み書きができた
    →近代以降の市場経済に適応できるか否かをつくっていた
    ・底辺労働者でも実力主義で、女工にも手先が器用なエリートと雑で罰金を取られた負け組がいた

    【6】
    ・『ラピュタ』は『わが谷の緑なりき』への返歌
    ・再江戸化のさいに、社会主義の一部を適用した=日本がいちばん社会主義国家で成立した
    ・明治維新は失敗したが、昭和維新は成功した

    【7】
    ・『ナウシカ』は、満州事変から原爆投下まで
    ・創氏改名は同化というより江戸化
    ・東アジアに基地を持たないドイツ・イタリアと同盟することで、中国とアメリカに対立することになり、自滅した
    ・愛国心はムラ社会の結果であり原因ではない。戦中に徴兵制がうまくいってなかった中国に勝つことはできても掌握することはできなかった
    ・「日中戦争とそのオマケ」、アメリカに負ける前に中国に負けた
    ・Japanimationは戦時下に生まれたが故に生死や戦争が描かれる

    【8】
    ・戦前の軍国国家=軍部による社会主義→議会政治家による戦後社会主義
    ・自民党が作られなかった戦後史の方が西側の「普通の国」
    ・社会主義が経済ではなく平和問題になった
    ・戦後民主主義は新しいブロン

    【9】
    288
    新しい歴史観☆


    【10】
    300
    西洋型の近代社会のインフラ=法・人権・議会制民主主義は中世貴族の既得権益
    そもそも中国にはそのようなものはない
    306
    公務員を薄給にしてしっぱいした近世中国
    316
    北朝鮮化か、中国化


    宮台・仲正『日常・共同体・アイロニー』

    溝口健二『新・平家物語』

    『樽山節考』

    『郡上一揆』

    『スパイ・ゾルゲ』

  • 「中国化」…。文庫化のタイミングが、このキナ臭い時節柄にピッタリ(?)だ。


    もっとも、内容はしっかりしたグローバル・ヒストリーの学説に基づいている。
    要するに「中国化」とは、極端な競争・格差社会になるというものだ。サッチャー主義やレーガノミクスと同義である。それを歴史的には、中国(宋)が先駆けて達成したから、その現象を著者は「中国化」と名付けたというわけだ。


    世界は「中国化」する一方、日本は常に「江戸時代」に逆戻りしてしまうらしい。つまり、分権化による非競争社会を、日本人は求めているということになる。日本史上の異端児たちは皆、「中国化」を目指していた。そして失敗してきた。


    「中国」と「江戸時代」を比べてみよう。

    「中国」は、市場機能を最大限に発揮できるため、資源を効率的に使える。従って経済は好調だ。また能力がある人は、どんどん昇進できる。ジョブズみたいな天才が次々に現れるだろう。だが逆にいえば、そうでない人たちは大変だ。そのうち「1対99」の格差が生まれてしまうだろう。(本場のようなカクメイだってあるかも…!?)

    「江戸時代」はその真逆だ。閉鎖的な市場ゆえ、資源の利用は非効率。能力があっても出世できない。技術革新も進まない。その代わり、少ない資源を分け合って、なんとかかんとか生きられる。弱者が死なない(抜け出せもしない)社会だ。

    無論どちらにも、好いところと悪いところがある。困ったことに、筆者によると、両者の好いとこ取りはできないそうだ。しようとすると必ず機能不全になってしまうらしい。だから、放って置けば「中国化」するし、それが嫌なら「江戸時代」をとことん目指すしかないようだ。


    ちなみに、本書の見応えは、筆者のギャグセンスでもある。本書をめくると、太字が目立つことに気づくだろう。そしてその部分は、必ずしも重要なことではないし、往往にして刺激的な文面である。わざわざ強調するのは、アンサイクロペディアでいうユーモア欠乏症患者(=ウィキペディアン)への皮肉なのかもしれない。本書が(娯楽として)楽しめるかどうかは、太字部分が楽しめるかどうかによって決まる(私は楽しめました)。

  • 源平合戦から東日本大震災後まで、これまで使われてきた歴史の枠組みを捨てて、「中国化」「再江戸時代化」という新たな概念をキーワードに、日本史の大きなストーリーを描きなおす。宇野常寛との特別対談などを増補。【「TRC MARC」の商品解説】

    関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB40278610

  • 普段日本史は読まないが面白く読めた。

    グローバル化を中国化、封建遺制への回帰を江戸時代化とややしつこくリフレーズし、やや強引なまでに押し通すことで、我が国がたどってきた物語に新鮮な整理を示すとともに、これから向かう道筋の方向性に歴史的な視座を示している。

    10年前の、割と時代に応じた記述も含まれる著作ではあるが、今も色褪せることなく読む価値は十二分。

  • またしてやられた、というのが正直な感想である。

    著者の本は「知性は死なない」から読み出したが、同書のインパクトが強く、それ以前の本を手に取ることがなかったので、鬱前後で区切ったときに、鬱以前を知らなかった。
    しかし、「知性は死なない」でしてやられた感覚はそれ以前のこの本でもまた思い知らさせた。

    筋で見方をひっくり返す、という意図は見事に果たされ、「輿那覇史観」をこれでもかと投げつけられた。恐らく、細かな論点はいくつも挙げられるのだろうが、主な論旨を覆すほど反論できる根拠が恥ずかしながら今の私には見当たらない。
    そして、最終章の最後で記されている憲法前文の扱い方は、この筋を一通り読むとまた格別の味わいである。

    この本の論旨を今の政治状況と並べて見た時に10年経った今でも全く損なわれていないと感じる。
    この10年間、色々な人がオリンピックというものに気が向いていただけで、ここに書かれた克服すべき課題は変わっていないのだと思う。

    冒頭の鬱前後の記述で気になるのは、鬱後の方が記述に皮肉めいた部分が少なくなった、もしくは弱まったと感じるところだ。
    その点については、著者の別の本を読みながらまた考えてみたい。

  • タイトルに惹かれて買った人は、あれっ てなる内容。
    著者は狙ってつけたタイトルだと認めている。
    しかし、副題も全然違うぞ。

    本書は日中文明衝突を書いたものではない。
    本書の言う「中国化」とはグローバル社会・自由競争・実力主義・格差社会化のことで、これは中国ではすでに宋代に実現されていた。(ヨーロッパは20世紀になっても王制の残る遅れた地域であった)

    対する日本は江戸時代の封建的な社会を維持し、1990年頃までその伝で来た。その後ようやくグローバル化すなわち中国化の時代がやってきたのだが、日本人はやっぱり江戸時代回帰志向が強い。終身雇用や家族制度の崩壊した状態でもはや江戸時代方式は無理なのだが……。
    日本は議会制民主主義や人権があるからいいと思っている人がほとんどだが、実はみんなその本質を理解しているとは言い難く、ポピュリズムに踊らされてそれらを簡単に手放し、北朝鮮化する危険が大である。

    右でも左でもこの本を買いそうな、政治談義好きな人々の怒りを喚起することがいっぱい書いてある。
    著者の書きようは、もちろんそういった人々を冷やかし、無知ベースで政治的主張をやめ、もう少し勉強して考えようねという事である。

    個人的には
    冷やかし口調が大変不快であった。右を揶揄し返す刀で左も斬る というまあ公平な話ではあるけれど、あれは無知これは浅はかという扇情的なところが気になった。
    著者は研究者であって、書いてある内容はなるほど嘘はなさそうで、日本の来し方のおさらいと為になる新知識もいくらかあったのだけど、全体に浅い……人の著書を基に構成してあって、深い研究ではありません。歴史や政治が専門ではなく、評論家的な言説である。ジャーナリズム的というのかな。私でも、それは言いすぎだろう……という箇所が多々見受けられました。

    しかし、一面的な理解で盛んにせこい政治談義をしてる人にはやっぱり読んでもらいたい本だし、何も知らない若い人が日本の現状(とその歴史の流れ)を手早くつかむためには良い本だと思う。

    日本人の自由主義の法治国家の構成員として民度が低すぎる、江戸時代回顧というあたり、人の損が自分の得になるという百姓根性、その他諸々うなずけるところも、情けないながら大変多かった。

  •  通読一回ではまだよくわからないところも多いが、まず一番にお伝えしたいのは、その視点の新しさ。

     内容は歴史の話です。日本が中国化してゆくというとても議論を呼びそうなタイトルですが、読み進めると筆者の述べることが分かります。加えてこの本の良いところは、この日本を何とかしたいという筆者の思いが感じられるところです。その熱意のようなものと筆者の論の新しさに感動すら覚えました(ただ本文中では非常にシニカルな文体です)。

     まず、日本史の新たな見方について大いに驚嘆。戦国時代とは決してかっこいい時代ではなく飢餓をしのぐために殺し合って食べ物を奪い合っていたという見方。また江戸時代の安定はお上とイエとの相互共存の関係である封建制によって支えられ、さらにこれは相当度に社会主義的であった点。加えてこの江戸時代的な安定は、農家の次男三男などを犠牲にして成り立っており、こうした不満分子が明治維新を起こしたという推測。
    このような方は高校ではおよそ教わらない話であり、かといっていわゆるトンデモ話ではなく、論拠もあり納得して読める。

     次に面白かったのは中国化の話。
    中国の特徴を宋の時代の政策を引き合いに出し、頂点の支配者の下での厳しい競争社会としており、これが現在進んでいるグローバリズムや新自由主義が出てくる遥かに古くから中国で実行されていると主張する点。ここから中国化と述べているのはいわば市場万能主義、厳しい競争社会を意味しており、政治体制が共産主義になるというわけではありません。

     更にこうした江戸時代的なるもの(封建制・社会主義的)と中国化(苛烈な競争社会)とが明治維新以降の日本近現代史で揺り動いていた点を現代の西暦2000年代の政治状況まで辿って説明していいます。

     右翼とか左翼とか知識人とか、どうにも面倒くさくて胡散臭くて、一般の人のほとんどがシニカルに斜に構え距離を置くものが政治だと私は思います。でも筆者はそうした現状も踏まえて我々が今住む日本をどうにかしたいという思いを持っており、歴史という武器を使って本当にこのままでいいの?或いは、大声をあげている両ウイング(右翼左翼)に、君たちほんとは矛盾してね?と問いかけているように思えます。

     巻末に文庫本用のあとがきと宇野常寛氏との特別対談が掲載されており、より彼の考えていることがわかると思います。また参考文献も詳細に記されており、今後の読書の参考になります。政治好き・歴史好き・小難しいのが好き・日本の将来が心配な人等々には是非お勧めしたい本です。

  • 《この、相手の信じている理念の普遍性をまず認め、だったら他所から来たわれわれにも資格があるでしょうという形で権力の正統性を作り出すやり方が、宋朝で科挙制度と朱子学イデオロギーが生まれて以降の、かの国の王権のエッセンスです。言い方を変えると、世界中どこの誰にでもユーザーになってもらえるような極めて汎用性の高いシステムとして、近世中国の社会制度は設計され、そのことを中国の人々は「ナショナル・プライド」にしてきたと見ることもできます(「日本でしか使えない」ことを自慢する「親方日の丸」方式とはえらい違いですね)。》(p.84-85)

    《つまり、小単位ごとの自給自足体制(それ自体が飢餓の一因となることが多い)ゆえに、統治機構のトップ(やはり、彼自身が飢餓をもたらしている疑いが強い)に解放者としての期待を託してしまうという点だけを見れば、確かに江戸時代は北朝鮮に似ていなくもない。》(p.129)

    《逆にいうと、ブルジョワ革命だの市民革命だのといった、「広く一般大衆を巻き込んだ『人民の、人民による、人民のための』政治改革のプログラム」などというのは、最初から彼らにとってアウト・オブ・眼中だったわけです。明治維新の政治過程が、おおむね武家社会内部での恨みつらみの果たしあいにすぎず、多くの庶民は「ええじゃないか」に躍り狂うだけで積極的な勧誘も動員もされなかったから、近代世界の書革命に比べて死者が少ないのです(今日の日本政治は、どうでしょうか)。》(p.144)

    《動機オーライとはもちろん「結果オーライ」の対義語で、「おわりよければすべてよし」ではなく「はじめよければあとはどうなってもよし」、純粋にピュアな気持ちで考えて「今の世の中は間違っている! こっちが正しい!」と心の芯から感じ入ったのであれば、あとは既存の法令や社会の通念はおろか、自分の行為がもたらす帰結についても一切考慮することなく突っ走ってよい、結果は必ずついてくるはずだ、いやついてこなくてもそれはこの俺様の魂の叫びに反応しない周囲の不純な連中が悪いのであって、俺のせいではないのだからかまやしない、というような発想のことです。》(p.177)

    《そもそも戦前以来、「貧乏人は自己責任」の自由主義者に対して、「貧困は社会の責任」を主張する社会主義者は「進歩的」な人々だと思われていたのですが、(共産党などの例外を除くと)戦時中はそちらの方が主に軍部と手を握って、江戸時代のような「反動的」な体制を作るのに貢献してしまった。一種のパラドックスが起きたわけです。
     戦後、社会主義者の多くはその反省から(あるいは、自らの汚点を隠したいという下心ゆえに)、平和主義者に転ずるのですが、これは、自由主義者からみると面白くない。「戦時中は戦争を煽り、平和になったら平和平和と連呼する日和見主義者が、知識人を気取っているとは何様だ」という、感情的な反発が生まれる。だから、社会主義者に対して「バカな左翼の寝言など聞く耳持たぬわ」と極めて居丈高になる(『ビルマの竪琴』の作者として知られる竹山道雄は、かような反共自由主義者の典型でもありました)。
     ところが、そのあたりの機微がわからない世代にとっては、彼らの方が「視野が狭量で自省能力のないバカな右翼」に見えますので、「あの人たちとだけは関わらないようにしよう」となり、結局、左右の両陣営がどんどん偏屈かつ意固地になっていっててんという悪循環が生まれゆきます(福間良明『「戦争体験」の戦後史』)。「社会主義者は常に被害者」で戦争協力の過去には口をつぐむ「左傾した教科書」と、「コミンテルンの陰謀で戦争に巻き込まれた日本は共産主義の被害者」という意味不明な「極右の新説」ばかりが声の大きい、今の日本の「歴史認識論争」とは、要はそのなれの果てなわけです。》(p.210-211)

    《日本人が赤紙一枚だけで粛然として徴兵されていったのは、江戸時代以来ガチガチに固定された地域社会における隣近所の目線があるからで、中国には近世以来。そんなものはないのだから知ったことじゃありません。愛国心はムラ社会の結果であって原因ではない。替玉兵士を「非国民」として非難するどころか、やり手の商売上手ともてはやすのが、当初は中国の世論だったとさえいわれています。》(p.227-228)

    《要するに、社会主義が経済ではなく平和問題になってしまったわけで、今でも社民党や共産党というと、「社会主義政党」よりも「護憲政党」のイメージが強いのは、かような経緯に由来します(そして近年も、「格差是正」で一致していはずの2度目の民社国連立が、米軍普天間基地移設問題で決裂に至って、歴史は繰り返されたのです)。》(p.244)

    《つまり、戦後民主主義とは新しいブロンだったのです。憲法九条という形で「中国化」した理念が残る一方、あたかも「武士が富を商人に、商人が権威を武士に」譲りあった江戸時代の再来であるかのごとく、「政権選択では常に自民党が勝ち、憲法論争ではいつも社会党が勝つ」地位の一貫性の低い政界の構図が固定化することになる。》(p.246)

    《今日の問題は、パキスタンや北朝鮮が核武装したことで、この「核を持っているのは大国だけ」という前提が壊れてしまったことです。さらにいうと、そもそも「核保有の主体は国家に限る」という前提さえそのうち壊れるのではないか、というのが、世界中の有識者が感じている懸念なのです(アメリカでも核廃絶の動きが出てきたのはこのためです。「オバマさんがいい人だから」ではありません)。》(p.249)

    《言い方を変えると、日本を「中国化」させて自由競争中心の社会にしたいのか、「再江戸時代化」を維持して多少停滞気味でも安定した社会にしたいのか、政治家自身がよく考えないまま「維新の志士」気取りの動機オーライ主義で行動し、有権者もわかっていないまま百姓一揆根性の「ええじゃないか」で躍り狂っているだけだから、首相や党名は入れ替わっても日本社会はぜんぜん変わらず、政治不信ばかりがこの間募っていったのです。》(p.281)

    《結局のところ、小泉改革とは何だったのか。私は小泉政権の格差社会に対する「貢献」とは、格差自体を作りだしたとか拡大したとかいった経済上の問題ではなく、「格差なんて気にしなくたっていいじゃないか」という中国社会のようなエートスを公言して、それでもなおやりようによっては当の底辺層をも含む人々の支持を集め、権力を維持し続けられるという先例を作った点にあるように思います。》(p.294)

    《中国というのは本来、人類史上最初に身分制を廃止し、前近代には世界の富のほとんどを独占する「進んだ」国だったわけですから、むしろ、「なぜ遅れた野蛮な地域であるはずのヨーロッパの近代社会の方に、法の支配や基本的人権や議会制民主主義があるのか」を考えないといけないのです。中国近世の方がより「普通」の社会なのであり、西洋近代の方が「特殊」なんだと思わないといけない。
     実は、その理由は簡単に説明できます。西洋型の近代社会を支えるインフラであり、また他の社会と比べてその最大の魅力となっている法の支配や基本的人権や議会制民主主義とは、もとはといえば、どれも中世貴族の既得権益なのです(村上淳一『近代法の形成』)。
     俺様は貴族だから、公平な裁判なしに、王様の恣意で処刑されたりしない(法の支配)。俺様は貴族だから、不当に自分の財産を没収されたり、令状なしに逮捕されたりしない(基本的人権)。俺様は貴族だから、自分たちが代表を送った議会で合意しない限り、王様の増税や戦争には従わない(議会制民主主義)——そう、身分制という「遅れた」時代に生まれた特権が、実は現在の人権概念の基礎をなしている。
     逆にいえば、ヨーロッパ型の近代化とは、このような貴族の既得権益を下位身分のものと分け合っていくプロセスだったわけです。(…)
     とすれば、中国にそれらがない理由もまた自明でしょう。だって宋朝の時代に「近世」に入って以来、そもそも中国には特権貴族なんかいなくなったのですから。》(p.300-301)

    《約束があったはずだというフィクションを立てることで、初めて現状をその未達成として捉え、もう一度希望を持ちうるという技法。それはおそらくは天子による「徳治」の約束を仮定することで生き抜いてきた、「中華」の民にも共通するということも、本書では述べた。

     裏切られ打ちひしがれたと感じる人々が、日々この国に増えている。だけど、それは何に?——そもそも「約束」を仮定してすらこなかった国の伝統の中で、私たちはどこに希望を探せるのだろう。》(p.339)

  • 高校レベルの日本史の知識を土台に全く異なる歴史を描く一冊。歴史が単なる事実の積み重ねではないということを語らずして教えてくれる。

  • ●ここでいう「中国化」というのは、宋朝の皇帝専制による自由競争と機会平等。

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著者プロフィール

1979年生まれ。東京大学教養学部卒業。同大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。専門は日本近現代史。2007年から15年にかけて地方公立大学准教授として教鞭をとり、重度のうつによる休職をへて17年離職。歴史学者としての業績に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)。在職時の講義録に『中国化する日本』(文春文庫)、『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫)。共著多数。
2018年に病気の体験を踏まえて現代の反知性主義に新たな光をあてた『知性は死なない』(文藝春秋)を発表し、執筆活動を再開。本書の姉妹編として、学者時代の研究論文を集めた『荒れ野の六十年』(勉誠出版)が近刊予定。

「2019年 『歴史がおわるまえに』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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