野の医者は笑う 心の治療とは何か? (文春文庫 と 34-1)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167921019

作品紹介・あらすじ

われらがカウンセラー、東畑開人の一般書デビュー作、文庫で登場!文庫版あとがき「8年後の答え合わせ、あるいは効果研究」を付した完全決定版です。人生に痛めつけられたからこそ、人を癒やす力を得た野生の医者たち。彼女・彼らと共に過ごした灼熱のフィールドワークの記録!気鋭の心理学者にしてカウンセラーは、精神科クリニックを辞め、学界を揺るがすこと必至のフィールドワークを開始。沖縄で人々の心を癒やし続ける謎のヒーラー達を取材しながら自ら治療を受け、臨床心理学を相対化しようと試みた。「野の精神医療」と学問の狭間で辿り着いた驚愕の発見とは? 涙と笑いの学術エンタテインメント。目次:文庫版まえがきプロローグ1章 授賞式は肩身が狭い2章 魔女と出会って、デトックス3章 なぜ、沖縄には野の医者が多いのか4章 野の医者は語る、語りすぎる5章 スピダーリ6章 マスターセラピストを追いかけて7章 研究ってなんのためにある?8章 臨床心理士、マインドブロックバスターになる9章 野の医者は笑うエピローグ謝辞8年後の答え合わせ、あるいは効果研究ー文庫版あとがき文献

感想・レビュー・書評

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  • 『野の医者は笑う』 「心の治療」問う意欲作 - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト(2016年2月14日)
    https://ryukyushimpo.jp/news/entry-221238.html

    臨床心理士が精神科デイケアで学んだ「麦茶を入れること」の思わぬ効用とは | 文春オンライン(2019/04/14)
    https://bunshun.jp/articles/-/11385

    文春文庫『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』東畑開人 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS
    https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167921019

    野の医者は笑う - 株式会社 誠信書房
    https://www.seishinshobo.co.jp/book/b200599.html

  • 野の医者(スピリチュアル的な)と精神科医(カウンセリングやセラピー)
    この対比的に沖縄での暮らしが描かれていく。

    冒頭に、この本を書く前と後では私は変わってしまった。という趣旨の事が書かれていた。
    変わろうとして変わるのか、変わっていくのか、変わってしまうのか。自分が変わるということはそれだけ多様であるし、選択的に変わるわけではない。ということは私の中に深く残った。

  • 問題点も含めて、新しい視点をくれる本だった。
    自分自身、精神的な病を抱える母が、スピリチュアルに傾倒していく姿を間近で見ており、当事者としてではないが、本の内容に身に覚えがあることも多かった。
    そして、なおかつ、ここは問題点でもあるかもしれないのだが、そうした当事者の姿を、あえて軽く、明るく書いてくれていたので、最後まで読み進められた。
    私の母も、野の医者になりかけたのだが、私も含めた周囲がそれを受け入れることはなく(できず)、結局その後、病がより大きな波となった時期に、数ヶ月の入院生活と、薬物療法によって、病を調整することとなった。
    入院直後は、薬物の影響か、病の転調か、抜け殻のように話さなくなってしまった母の姿も見ているので、薬物治療に抵抗のある当事者がいることも少しわかる。
    今も母は、薬を飲み続けているが、入院期間の薬の調整がうまくいったようで、かなり穏やかに生活しており、病の兆しも見えなくなった。
    ただ、そうした、外部からみて、「病の兆しがない」、ということが、当人にとっての寛解と言えるのかは、わからない。

    この本の中に出てくる野の医者が、具体的に何の病を抱えていたのかは、言及されていないため、母と同じ病ではないかもしれないが、彼らが「他者を癒す」という人生の目的を得て、生き生きと過ごす姿には、スピリチュアルにハマっていた時期の、母の姿が重なる。
    彼らが野の医者になろうとする背景には、私はおそらく、何かの役に立たなければ、という強い焦燥感のようなものがある気がする。
    私にもその気持ちはとてもよくわかる。
    普通に日々の生活を送っているだけでは、自分がこの世界に何も貢献していない、役立たずであると感じる。
    役立たずであるところの自分は生きている意味が無いとさえ思ってしまい、毎日生活するだけで、無力感に苛まれていく。
    そんな時夢見るのは、誰かの役に立てるような仕事を得ること。
    自分のように苦しみを抱える誰かを癒し、感謝され、自分はこの世界にいる意味がある、と認めてもらうこと。
    野の医者になればこうした欲求を叶えることができる。

    母がスピリチュアルにハマった時、私は彼女が科学的にものを考えることができないのだと思った。
    そしてそんな母を哀れに思った。
    しかし、私の母は、愚かなのではない。
    母は、私よりも何倍も努力して、良い大学に入り、理系の学問を学んでいた。
    そして、父よりも多く稼ぎ、父よりも長い時間家事をし、家を成り立たせるための仕事全てを担っていた。
    母方の祖父の闘病もあった。
    祖父の病を治したい一心で、良いと噂されるものをさまざま試していたが、完治することなく、祖父は亡くなった。
    そして、限界を迎えたのだ。
    祖父が亡くなる、前後から、明らかに母は普段と違う状態になっていった。

    科学的な思考で生き続けることは、完璧であり続けることだ。
    無駄を許さないことだ。
    しかし、人間は生身の生き物であり、完璧であり続けることなんてできない。
    洗濯物はたまり、料理だってうまくいかない時はあり、仕事も常に迫ってくるし、祖父の治療はうまくいかない。
    しかも、目の前にいる世界では、自分の求める完璧さとはかけ離れた様相が広がっている。
    自分がこんなに辛い状況なのにも関わらず、家事を手伝わない夫も、自分とは似ても似つかないぐうたらな娘も、科学的根拠に基づいて生活などしていない。
    思うがままにのんべんだらりと生活しているだけだ。
    そんななんの理論も通じない理不尽な相手と世界を受容しなければいけない苦難に比べれば、スピリチュアルを信じる困難さなど屁でもないだろう。
    そして、理想になれない自分自身を変えたいと強く意志して、癒されたい、癒したいと思った結果、スピリチュアルな治療へと踏み出していく。

    母はスピリチュアルな治療と、ついでに新興宗教にハマっていった。
    そして、そのコミュニティで楽しそうに過ごしていた、と思う。
    旅行に行ったり、誘われてライブを見たり、集会に参加したり、かなり頻繁に大きなイベントを体験していた。
    しかし、その頃ちょうど世界で一番無知な中学生だったであろう自分は、とにかくそのことが不気味に思えて仕方なかった。
    世間では、新興宗教にしろ、スピリチュアルにしろ、頭のおかしい人がやるものだ、という風に言われていたし、私もそれを鵜呑みにしていた。
    そして、私は母の病名について、何も知らされていなかったし、また、いつからそうした治療を始めたのかも知らなかった。
    精神的な病に関する知識もほとんど無かった。
    ただ母は頭がおかしくなったのだろうと思った。
    おそらく内面ではどこにも吐き出せない不安を抱えて苦しんでいたであろう母相手に、しっかり反抗期を迎えて、毎日を不機嫌に過ごした。
    私は記憶力がかなり悪く、この後どう言った経緯で、母がそうした活動をやめたのかを覚えていない。
    しかし、気づいた時には、そうした活動はやめていた。
    そして、その後母は酒にハマり、治療薬を断ち、そのことによって怒涛のごとき病の勃興があり、大学で、心理学入門をとった私は、そこでようやく自分の母の病名がわかるのだが、問題なのは、新興宗教とスピリチュアルにハマっていた時期、母が一見幸せそうだったということである。
    スピリチュアル的な治療について、本や、講習で学んだ新しい知識を私に話したり、試したりする母は、とても充実している様子だった。
    私はよくその治療を受けさせられたのだが、その時の母は、もちろん当たり前だが、金儲けを望んでなどいない。
    とにかく私の肩こりだの、腹痛だの、そうした症状を治してあげたい、という気持ちで臨んでくる。
    おそらくそこには、この怪しいような気もしなくもない治療が本当に効果があるか試したいという気持ちもあるだろうが、とにかく私を癒したいと、思う気持ちが持てること自体が、人生に目的が生まれたようで幸せなのかもしれない。

    また、野の医者が病者と接することで癒されるのは、そこに当事者同士がオープンダイアローグをするときのような効果があるんじゃないかと思う。
    病者は、健常者がいるから病者になるわけで、病を抱える当事者しかいない空間では、病者ではなくなる。
    そこでは病はお互い持っているので、そこに劣等感を持つ必要がない。
    そうした空間で話すことは、きっと安心感があるだろう。
    新興宗教や、スピリチュアルの集会が盛り上がるのも、そうした理由が、少なからずある気がする。
    そしてそれは行われる内容ではなく、集まること自体によってだが、確かに癒しが得られるのだと思う。
    しかも、野の医者として患者をみるときは、相手は自分より症状が重いことが多い。
    そうした人と自分を比べて、相対的に自分は健康だ、と思える効果もあるかもしれない。
    そう見ていくと、これらは否定されるべきものとは思えなくなってくる。

    しかし、この本でも触れられている通り、スピリチュアル系の治療が目指す健康状態は軽躁状態をさす場合がある。
    私の母がスピリチュアルに傾倒していた時、おそらくはその状態にあった。
    それまでの生活からは考えられないほどに、驚くほど活動的で、やる気に満ちていた。
    感情の起伏が激しく、多弁で、とても調子がよさそうだった。
    だが、それは私の知る母ではなかった。
    私の知ってる母は、物静かで、自然が好きで、人との交流が苦手なタイプの人だった。
    私は別人のように過ごす母が、どこかおかしいのではないかと感じて、受け入れることができなかった。
    だが今思えば、あのとき、本人は幸せだったのじゃないかと思う。
    今も、躁状態にならないように服薬しながら過ごす母を見て、それが本当に正しいことなのか、と思うことがある。
    本人にとって、幸せな状態を抑えることが、果たして良いことなのか、それは私たち家族や、世間による、抑圧なのではないかと悩む。
    もちろん躁状態になることは、いいことばかりではない。
    エネルギーが暴発しすぎた結果、社会的信用を失うような行動をしてしまうこともあるし、体は気づかないうちに、消耗して、エネルギーを使い果たしたあと、急激な鬱症状に悩まされることもある。
    しかし、躁状態を抑えたことで、得られている「穏やかな生活」が、本当に本人にとっての幸せかは、疑問だ。
    本の中での当事者の充実している様子を読んで、この疑問がより膨らんだ。

    一方で、野の医者による治療が表面的で一時的なものになってしまいがちなのも事実だと思う。
    母がスピリチュアルにハマった後で、急激に病を悪化させていったことにもあるように、根本的に病が治るわけではない。
    そして、軽躁状態で、服薬をやめた結果、とても大きな病の波がきてしまった。

    母が今、穏やかに過ごせているのは、服薬の調整の影響もあると思うが、父と私が、大きな波を経験してようやく、家族の生活に参画し始めたことも大きいと思う。
    母の心の病について家族内話をして、共有し、今まで母に任せきりだった家事を分担して担い、母と出かけ、話を聞く。
    こうした地道な生活に癒しがあるのだと思う。

    母が病であることをはじめは受け入れることがなかなかできなかった。
    病を悪化させる酒を飲み続けていることが許せなくてなんども怒りをぶつけてしまったし、病者の母よりも、自分の辛さが先に立ってしまって、なかなか母の苦しさに思い至ることができなかった。
    母の病名を知ってから10年近くを経て今ようやく、病を含めた、母の人生そのものを、あるがままに受け入れられるようになってきたと思う。

    心の病の1番の苦しみは、他人に理解されないことだと思う。
    自分は明らかに他者と違うという気持ちを抱えながらも、表面的には健常者と全く変わらないと言うこと。
    健常者と同じ土俵に上がり続け、同じルールの中で戦うことを強いられること。
    これは日々の生活で傷を蓄積させていく。
    目には見えない傷をたまらないようにするには、ルールを改訂するしかない。
    周りの健常者を啓蒙したり、当事者同士で話すことで、ルールの通用しなさを認識しあったりする場をもうけることで、少しずつ、自分と他者のルールの範囲を広げて、生きやすい状況を作り上げていく。
    それには時間がかかるが、毎日すり減っていた傷は確実に少なくなる。
    その積み重ねが病を癒していく。
    劇的な癒しではないが、着実で、静かな営みだ。
    私はこの劇的さのない、治療を信じたい。

  • 沖縄に多くいるヒーラーたち、野の医者たちとの交流の中で、専門であるはずの臨床心理学を再発見していく物語。
    野の医者たちはみな、自身が傷ついた経験からスタートしており、癒やされていく中で、みずから癒やす存在になっていく。傷ついた治療者であり、癒やす病者(p.179)である。
    ポストモダンなヒーラー、ドラゴンとトカゲなど、面白いフレーズがたくさんでてくる。野の医者たちはみな味の濃い人たちで、正直言って会えば苦手なタイプだと思うけれど、不思議な魅力を持って現れてくる。

  • 面白かった。
    アメリカではADHDと診断されてリタリンを処方され治療プログラムを組まれる子が、沖縄ではマブイを落としたと言われマブイグミと呼ばれる魂を込め直す作業をするかもしれないし、アフリカの狩猟民の世界では勇敢な狩人とされるかもしれない。
    健康って何だろう。治療って何だろう。そんなことを考えさせられる本だった。

    この本の結論としては、
    ・なにをもって「治癒した」といえるのかは、治療法によって異なる。
    ・「治癒」とは、ある生き方のことで、特に「心の治療」とは生き方を与えること。
    ・治療とはある文化の価値観を取り入れて、その人が生き方を再構成すること。
    ・治癒も生き方もひとつではない。臨床心理学と野の医者は親戚とも言える。
    ということなんだと思う。

    この著者のドライアイも、就職が決まったらすっかり治ったんだもんな…そんなことを考えると、いくら科学的に正しいとか言われても、点眼薬の処方だって「怪しげな療法」とも見られるのかもしれないよな…。

    あと、野の医者と貧困の関連性も、もう少し考えてみたい問題。

    ともあれ、私は、マタヨシ博士の「(治療とは)信頼だよ。相手がこっちを信じるか、信頼できるか。どんな治療もそれじゃない?」とか、ちゃあみいさんの「でも誰か、究極に健やかな人っているのかな。みんな病みながら生きていて、それを受け入れるってことがありのままなんじゃないかな」という言葉がとても好きだった。

  • 文庫版で追加された部分だけ読むのももったいなく感じて、全編通して読みました。これは再読になるのかな。

    今年読んだばかりだったので新しい気づきはないかもしれない、と後ろ向きな気持ちで読み始めましたが、ぐいぐい引き込まれるおもしろさがあり、最後まで楽しく読みました。

    野の医者、臨床心理学、人の心の治療に携わるということ。それは生活に、人生に結びついていて、治療者もまた、たくましく生きていかなくてはならないということ。終盤の考察、展開がリアルで、東畑さんいいなぁ、と思いました。

  • 3章まで

  • 文庫版あとがき、が良い。

  • 東畑さんは「若書き」の著書で今となっては不本意な点も多々あるとしていて、確かにそういう面はあるとは思うが名著と言わざるを得ない。沖縄の多分2010年代スピリチュアル界の記録としても貴重。あとがきの8年後の答え合わせにじーんとする。「居るのはつらいよ」の登場人物がたまに登場するのも嬉しい。シンイチさんのメッセージがこれまた胸アツ。

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著者プロフィール

1983年東京生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)・臨床心理士。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。白金高輪カウンセリングルーム主宰。著書に『野の医者は笑う―心の治療とは何か?』(誠信書房)『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)『心はどこへ消えた?』(文藝春秋 2021)『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)など。『居るのはつらいよ』で第19回(2019年)大佛次郎論壇賞受賞、紀伊國屋じんぶん大賞2020受賞。

「2022年 『聞く技術 聞いてもらう技術』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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