- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784168130342
作品紹介・あらすじ
福田恆存の政治論・国家論のエッセンス文学と政治の峻別を説いた文学者の福田恆存は、政治や国家をどう論じたのか? 「個人なき国家論」への批判は今こそ読むに値する。
感想・レビュー・書評
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高校時代に少しばかり演劇をかじったこともあって『人間、この劇的なるもの』を読み、恆存の人間観に魂を揺さぶられた。大学では西部邁の恆存論に保守の真髄を見る思いがした。恆存が現役で活躍していた頃は、新左翼がひそかに読んでいたという話を聞いたことがあるが、一線を退いてからは、恆存を読んだり論じたりするのは大抵「オヤジ」世代と相場が決まっていた。当時の評者のような若者はめずらしかったように思う。編者の浜崎洋介氏は1978年生まれ、36歳という若さである。意外に骨太な恆存論を書いている。時代も変わったものだ。しかし考えてみれば、恆存が若者に読まれないというのは本来おかしなことだ。恆存の保守は老成した大人の知恵とはおよそ対極にある苛烈な精神だ。日本的ななれ合いの保守とも異質な孤独で強靭な個人を要請する。恆存的なるものにどう向き合うか。これによって保守の覚悟と真価が試される。
「ヒューマニズムのために死を辭せぬといふ少數派も少ないくせに、自由やデモクラシーやヒューマニズムの看板をかかげられると、それに刃向かう少數派になるほどの惡黨も少ない」(少數派と多數派)
「個人の内の或る部分は國家に対して忠誠を誓ふ。が、個人の内の他の部分は國家以上の存在に忠誠を誓ひ、その立場から國家を拒否することもあり得る」(現代國家論)
「個人が死ぬにたるものがなくては、個人の生の喜びすらない・・・平和はたんに戦争のない状態といふ消極的な意味しかもちえない・・・さらにまづいことに、倫理観の希薄さと平和論とがなれあひになる」(個人と社會)
「原水爆は確かに「現代の惡魔」に違いないが・・・人々は原水爆にはじめて「惡魔」を見たといふのであらうか・・・放射能や人類の滅亡を持出さなければ、「惡魔」を「惡魔」と認めえぬやうな薄弱な精神に「惡魔」退治は出来ぬ」(現代の惡魔)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
戦前の国家主義はダメで、戦後の民族主義は良い、とは言えない。ナショナリズムに戦前と戦後で違う訳をつけているだけだ。
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文章が難解で、社会情勢が現在と違うため、今ひとつピンとこない。
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100ページ読んで時間切れで返却です。
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2014/12/30