- Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
- / ISBN・EAN: 9784260031578
感想・レビュー・書評
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面白いんだが、自分の中で今ひとつ消化しきれてない。じっくり再読が必要か。
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「本書がこのような形で世に出ることができたのは、医学書院の白石正明さんの提案【中略】依存症が明るみに出した問題と中動態の概念が本質的なところでつながっているという強い信念を抱いていたのは私よりもむしろ白石さんであった」(あとがきより)「シリーズケアをひらく」って本当にすごい。なるほど依存症を考えるときに中動態を知っているのと知らないのとでは理解が違う。と言っても書かれている内容はけっして平易ではなく理解が大変だが。
P026 人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものとみなしてよいと判断された時に、能動的であったと解釈されるということである。意思を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意思の概念が突如出現する。「夜更かしのせいで授業中に居眠りをしているのだから、居眠りの責任を負わせてもよい」と判断された瞬間に、その人物は、夜更かしを自らの意思で能動的に選択したことにされる。
P029 意思の概念や能動と受動の区別を批判できるのは、論じている側が平然としたままでいられる事例のみが取り上げられているからだとも考えられよう。つまり、直接には当人だけを害する事態や行為が取り上げられているということだ。【中略】確かに意思の概念は難題を抱えている。能動と受動の区別も不正確なものだ。だが、「意思など幻想だし、意思の概念に基づいた能動と受動の区別もまやかしだ」などと主張する者は端的に能天気である。その人物は、自らがこの概念や区別にすがらずにはいられなくなる場面が訪れるかもしれないことを想像できていないだけである。
P072 受動は中動態が持ちうる意味の一つに過ぎなかった。この意味で中動態という名称は不正確である。中動態は中間的なものではない。中動態という名称は、中動態が表舞台から追いやられた後の、このパースペクティブによりつくられたものである。
P089 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。
P146 権力は人々が行為するのを妨げるのではない。権力は行為に働きかけ、人がある行為をするように、もしくはその行為のありかたを規定するように作用する。【中略】それにたいし暴力は、身体に直接働きかけるという意味で権力から区別される。【中略】権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む。
P148 暴力の行使それ自体によっては服従を獲得できない。服従を獲得するためには、暴力は行使可能性のうちに留まっていなければならない。【中略】抵抗できないほどに衰弱している相手には便所掃除をさせることもできない。
P158 強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している。そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かと言う対立で物事を眺めているからである。そして能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。
P171 動詞はもともと、行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示していた。【中略】(私に○○が生じるという言い回しは)人称の発達とともに動詞の活用にとってかわられていく。
P184 「見える」は文語では「見ゆ」である。同じ系統の動詞にはたとえば「きこゆ」「おぼゆ」などがある。この語尾の「ゆ」こそが、インド=ヨーロッパ語でいうところの中動態の意味を担っていたと考えられる。
P238 スピノザによれば、神とはこの宇宙あるいは自然そのものに他ならない【中略】神こそが唯一存在している実体であり、これが様々な仕方で変状することによって諸々の個物があらわれる。
P256 本質は単に外部からの刺激を打ち返すだけではなく、打ち返しながら自らに変化をもたらしている。そして、この力としての本質が原因となって、一定の変状が、すなわち欲望が起こり、それが行為や思考という結果としてあらわれる。【中略】我々の変状が我々の本質によって説明できるとき、我々は能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまって入る場合には、そこに怒る変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部からの刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。【中略】スピノザは、能動と受動を、行為の方向ではなく質の差として考えた。
P285 歴史は人間が思ったように作り上げた物ではない。だが、それは人間が作った歴史とみなされる。人間が、参照の枠組みを選んだことなど一度もない。人は、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた参照の枠組みのもとで判断を下すほかないのである。
P287 善と悪には、人間の社会で通用しうる、そして通用している規範には閉じ込められない過剰さがある。その過剰さを知っている人ならば、善が徳に背く場合があることをわきまえているだろう。あるいは悪徳と言われているものが善の機能を果たす場合もあることを。しかしこの過剰さを知らない人、この過剰さに目を向けようとしない人は徳に絶対的な善の役割を与えようとする。相対的なものでしかありえないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する。一言でいえば、アレントはこの徳と善の混同に、ロベスピエールが陥った恐怖政治の一因を見ている。
P293 完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。我々は中動態を生きており、時折、自由に近づき、時折、強制に近づく。 -
難しかったけど、面白かった。はじめてのスピノザを読んだ時の不思議な感覚は中動態の世界に触れたからなのかも、と思った。小説ばかりを読んできたけど、國分さんの本を読んでいると、胸躍るのは小説だけではないのだと分かる。まだまだ内容よりも読み切った達成感の方が強いという情けない状況ではあるけれど、読書が楽しくなる。
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http://igs-kankan.com/article/2019/11/001201/
完全な自由も完全な強制もない中で、人生をどう選択するか。「勉強の哲学」で言うところの、「享楽的こだわり」が一つのカギになるのではと感じた。
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本書要約メモ
・中動態では、主語は過程の内部にある。例:ものができあがる。その対立語としての能動態では、主語は過程の外にある。例:スプーンを曲げる。
・実世界において、中動態でこそ適切に表現可能な物事は多いにも関わらず、歴史の変遷とともに中動態は忘れ去られたが、現在見直されつつある。
・我々は、意識などの多数の諸条件を元に、何らかの選択を行う。その選択の結果として「責任」を負わなければならなくなったとき、その選択が「意志」の下で行われたかどうかが事後的に問われることとなる。
・権力をふるうものは能動態的で、ふるわれるものは中動態的である。非自発的同意や反発などの行動を選択可能だが、完全な自由ではない。対して暴力が発動する場合は、暴力をふるわれる側は受動態的であり強制力がある。 -
選択は過去からの帰結であり、責任を問われる時に意志が急に持ち出される。
僕たちは完全な能動態でも受動態でもない、中動態を生きているのだ。 -
國分さんが中動態と言い、中島岳志さんが与格と言い、そういう考え方に興味を持った。本書も早く読みたいと思いつつ、サイズが大きいこともあってなかなか手が出せなかった。そして、やっと図書館で借りて読むことができた。それで、中動態への考えが深まったか、と聞かれれば、否としか答えられない。能動と受動の間にある大いなるグレーゾーン、これが中動態と言ってしまっていいのか。それもなんか違うような気がする。それでも、能動でもなく受動でもない、どちらとも言えない状況があることはよく分かる。定義だけの問題ではないのか。2500年前だろうと、500年前だろうと、人間の脳の仕組み自体は大きく変わらないだろうし、一般人がいちいち能動とか、受動とか、いや中動だとか、そんなこと考えて行動するわけではないし。ふだんの生活ではそれほど問題にもならないだろう。犯罪と呼ばれるような行為があった場合に、そこを法でどう解釈していくのか。そこではじめて問題になるのだろう。情状酌量なんていうことなのだろうか。今後もまだまだ自由、意志、責任といろいろ考えないといけない。國分さんがアガンベンの名前をよく出す背景がわかった。デリダとかドゥルーズとかには手は出せないが、アレントだけは何としても読んでみたい。それからメルヴィルの遺作「ビリー・バッド」。まあ、「白鯨」を先に読んでおくべきかもしれないが。ところで、先日、卒業生たちとオンライン飲み会をしていたとき、一人が本書を読んだと言っていた。さすがなみほさん。
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意思は存在せず、過去からの地続きの選択の積み重ねがあるだけ。そこでの選択は状況がそうさせるのような非自発的な同意もある。これは能動でもないし受動でもない。主体的に振る舞うことを考えたとき、意思と能動を求めるよりも過去からの連続性や状況づくりといったアプローチに可能性があるという示唆があるように感じた。
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「能動態↔受動態」という二項対立のパースペクティブで
物事を考えがちな現代人。だがかつては能動でも受動でも
ない「中動態」という動詞の態が存在していた。この中動態
を考察することを通じて、「責任」や「自由意志」について
新たな見方を展開しようとする著作。中動態という文法的な
トピックを考えることが哲学的な問題につながっていくと
いう展開はまさしく私好み、大変面白く読ませてもらった。
まだ「能動対受動」ではなく「能動対中動」であった古代
ギリシア世界に「意志」という概念は存在しなかったという
考えは非常にそそられた。言語が思考を規定するのではない。
言語は思考の「可能性」を規定するのだ。
言語学(文法)と哲学という、下手をすると難解になりがちな
内容であるにもかかわらず、これほど読み易い本にまとめた
著者に賛辞を贈りたい。 -
まず、動機が良かった。この本を書く動機。哲学者って、こんなに具体なんだ、素敵だな、と思った。スピノザに至るまでの冗長とも取れる言語化、それが最後に全て集約してくる(完全にはしきらないが、それもまた中動態的というか、「幅」的である)のが本当にすごい。鴻上尚史さんの「言葉はいつも想いに足りない」の実践形である。
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3,8,9章あたりの盛り上がりが本当に良くて、興奮しながら一気に読んだ。この本を読んでから、能動と中動の対立、「原因(の原因)」や「変状」から日常を捉える思考に取り憑かれている。僕はスピノザ的な「自由」に近づくことができているんだろうか。
権力や意志をめぐる論旨もわかりやすい。例えば、反出生主義なんかも、親から産み落とされた過去からの「切断」の意志なのではないかと思う。『ビリー・バッド』は絶対に読まなくては。