ジャック・オブ・スペード

  • 河出書房新社
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感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309207490

感想・レビュー・書評

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  • 人は自分の見たいものだけを見て、見たくないものは見ないで生きているのかもしれない。ごくごく平凡な人生を生きている自分のことを、たいていの人間は悪人だとは思っていないだろう。でも、それは本当の自分の姿なのだろうか。もしかしたら、知らないうちにずっと昔から自分の心や記憶に蓋をして、自分の見たくない自分を、自分から遠ざけ続けてきたのではないだろうか。ふと、そんなことを考えさせられた。

    どちらかと言えば苦手な世界を得意とする作家なのに、『邪眼』、『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』で、ハマってしまったジョイス・キャロル・オーツの長篇小説。まあ「とうもろこしの乙女」も、かなり長めの中篇だったから、長篇小説の技量についても疑ってはいない。冒頭、いきなり斧が振り回されるので驚かされるが、次の章からは実に微温的な書きぶりに落ち着いてくるので、ほっとする。だが、これも仕掛けのうちだった。

    ニュージャージー郊外の屋敷に妻と二人で暮らす、アンドリュー・J・ラッシュは五十三歳。「紳士のためのスティーヴン・キング」と称される「少しだけ残酷なミステリー・サスペンス小説のベストセラー作家」だ。作品は適度に、不快でも不穏でもない程度の残酷さを持つが、卑猥な描写も、女性差別的なところもない。善意の寄付にも熱心な地元の有名人でもある。そう書けば、ほのぼのとしたストーリーが想像されるが、この作家を知る者なら誰もそんなことは信じない。

    アンドリューには秘密がある。大したことではない。「ジャック・オブ・スペード」という別名で、ノワール小説を書いているのだ。ある程度キャリアが安定してきた作家にはよくあることで、「別人格」を作りあげ、全く異なる世界に挑戦したくなるものだ。別人格の作家、ジャック・オブ・スペードは「いつもの私とは違って残酷で野蛮で、はっきりいって身の毛のよだつ作家」である。そのアイデアが浮かぶのは真夜中、奥歯が勝手に歯ぎしりして目を覚ますと、小説のアイデアが浮かんでいるという。

    もうお分かりだろう。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』に代表される解離性同一性障害をテーマにした作品であることの仄めかしである。ただし、薬品によって別人格に変わるジキル氏とちがい、アンドリューは作家として別人格を作り、その名前で小説を書いているだけのことで、故郷の田舎町に住む有名人としては、血まみれの大量殺人が売り物の「身の毛のよだつ作家」が自分だと知られることは避けたくて家族にも秘密にしている。

    その完全な隠蔽がふとしたことで危うくなる。出版社が送ってくるたび、地下室の書棚にしまうはずのジャック・オブ・スペードの新作が、机の上に放置されていて、たまたま帰郷していた娘の目に留まる。それは娘の過去の出来事が素材になっていた。誰も知るはずのない私事をなぜこの作家は知っているのか、娘は父に迫るが、偶然の一致というやつだろうとその場は切り抜けた。

    さらに厄介な事件が起きる。ある日裁判所から出廷命令書が届く。地元のC・W・ヘイダーという女性がアンドリューを窃盗の罪で訴えたのだ。身に覚えのないアンドリューはパニックに陥る。第一、何を盗んだというのか。裁判所に電話をしてもらちが明かないので、直接本人に電話すると、その女はアンドリューが自分の書いたものを盗作している、と怒鳴り出した。弁護士に言わせると、その女は過去にスティーヴン・キングその他有名な作家にも同じ訴訟を起こしているという。

    アンドリューは弁護士に出廷するには及ばないと言われていたにもかかわらず、のこのこと変装までして裁判所に出かけてゆく。それからというもの、ボサボサ髪をした老女の顔や声が、頭にとりついてしまい、執筆に集中できなくなってしまう。証拠として裁判官が朗読した自分の文章が紋切型でつまらないもののように聞こえてしまったのが原因だ。自分をこんな目にあわせた相手を憎むアンドリューの頭の中で、ジャック・オブ・スペードの声が聞こえだす回数が増えてくる。

    自分に危機が起きると第二の人格が目を覚まし、過剰に防衛機制をとる。ここでアンドリューに起きているのがそれだ。温厚篤実で良き家庭人、良き夫を任じていたアンドリューに変化が現れてくる。酒量が増え、妻が言ったことを聞きもらす回数が増える。しかし、それが自分のせいだと思えず、妻を疑い、うとましく思うようになる。次第に妻は家を空けることが増え、夫は不倫を疑いはじめ…と事態は思わぬ方向へ。

    別人格を抑圧する決め手となる「兄弟殺し」の記憶は『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』所収の「化石の兄弟」、「タマゴテングダケ」にも登場する主題で、そこでは双子の兄弟という関係になっている。双生児とは、ある意味もう一人の自分である。もう一人の自分を抑圧することで自分を自分として確立しようとする、その確執と葛藤が主要なテーマとしてジョイス・キャロル・オーツの作品に繰り返し現れていることが見て取れる。

    幾つもの変名を使って、別種の本を書くミステリー・サスペンス作家という自分のキャラクター、さらには自分に起きた過去の盗作疑惑までネタにしつつ、小説のアイデアというもののオリジナル性の不確かさや、自分が思いついた物語にはどこかに起源があるのではないか、という作家ならではの拭い去れない恐怖が、生々しいほどに表現されている。せんじ詰めれば、オリジナルなものなどない。すべてはすでに誰かによって書かれている。それを如何に自分のものとして再創造するのか、という主題を扱う手際がこの作家らしい。

  • 二重人格もののホラー。
    「紳士のためのスティーブン・キング」と評される作家アンドリュー・J・ラッシュは成功したミステリ作家で地元の名士。妻と成人した子どももいて何不自由ない暮らしをしている。しかし、夜中には覆面作家ジャック・オブ・スペードとして暴力と悪意と差別に満ちた作品を書いている。アンドリューが盗作したと頭のおかしい老女から訴えられたことをきっかけに、辛うじて保たれていたアンドリューの精神バランスが狂い始める。筋だけで言えば、こういう話、普通の作家でも考えつきそうではあるのだが、さすがオーツ、怖さの質が違う。
    主人公の犯罪より、彼の精神状態が怖い。紳士的な社会人で立派な父親の顔に隠れた、どうしようもない悪意が怖い。
    キングやアップダイクからアイデアを盗まれたと主張する老女の小説が、欠点はあるもののプロットなどに光るものがあり、彼女が女でなかったら、あるいはもう少し世渡り上手だったり美人だったりしたら(男に引っ張りあげてもらえるような)、結構いい作家になれたかもしれない、とか、主人公の妻が若い頃純文学作品で素晴らしいものを書いていて、彼女のアドバイスにおかげで彼の作品が奥行きと芸術性のあるものになった、とか、女性が才能を伸ばして認められることがいかに難しいか、ということもちゃんと書いている。そこにつけこむ男社会のエゴイズムについても。
    単なるホラーなら、作家はいっぱいいる。でも、この忍び込んだら心から出ていかないような厭な感じはオーツにしか書けない。
    このところ体力が落ちて、イッキに読めなくなってたけど、これは目が離せなかった。そして読み終わっても興奮して目が冴えるっていうのも久しぶり。
    ノーベル賞、取ってほしいな、オーツに。

  • 女だなぁ

  • 読む気にならなかった

  • 割合ありがちな話のような気もしますが、怖さとうまさであっという間に読んでしまいました。キングとは言わなくとも(逆にキングは長すぎる)もう少し
    長くても良かったのではという気もしました。73

  • きゃーっ!面白かった!(風邪気味)

    小説家が主人公の「ジキル博士とハイド氏」。家族を養うために素敵な家に住んで、人が羨ましがるようなイメージで作家像を作る一方、酔いにまかせ欲望任せに書きなぐった作品も別名義で家族には内緒で出版している。
    ある日盗作疑惑で裁判が起こりストレス発症。むくむく存在を現すハイド氏。長年気になりはしたけどスルーしていた家族の問題も色々我慢が出来なくなり爆発してしまいました。。。
    結構スティーブン・キングの名前出てくるけど、まあ巨匠としてのイメージであるけど、本人的にどうなんだろ。

  • たんなる殺人事件だった

  • もっと二重人格的なところが引き立つのかなと思ったけど、割りと平凡な巻く引きだった。子どもの頃に犯した罪、奇妙な乱入者、錯乱、というのはつかいふるされた流れではなかろうか…

  • 以前読んだ短編集が面白かったので購入。長編の邦訳は初めてなのかな? 調べていないのでちょっと解らない。
    不穏さというか、所謂『黒い』部分が短編より強く出ていて良かった。他作品も邦訳されて欲しい。

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著者プロフィール

1938年ニューヨーク州生まれ。68年『かれら』で全米図書賞受賞。著書に『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』『邪眼』『ブラックウォーター』など。近年ノーベル文学賞候補として名前が挙がっている。

「2018年 『ジャック・オブ・スペード』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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