切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309245294

感想・レビュー・書評

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  • 哲学、宗教学?瞑想に沈まらせる不思議な本。5つのエッセイ集。本の装丁が素晴らしい。ヴァージニア・ウルフの言葉。「この者たちは報いを必要としない。彼らに与えるものは何もないのだ。この者たちは本を読むのが好きだったのだから。」これは読書自体が神を羨望させるほど愉しいものであることを強調しているとのこと。ルター、ムハンマドも革命者として彼らが言葉をいかに大切にしたかを力説する。ルターは読むことを「祈りであり瞑想であり試練である」と言ったらしい。1522年の「9月聖書」(新約聖書ドイツ版)の初出版の時85刷10万部。そして年間の出版点数が498冊と激増し、ルターと敵対者のものが書籍の1/3を超えた記録も、本の歴史では最重要の出来事だろう。

  • (2021.1.11再読時感想)文学こそが革命の本体なのです(p.80)と熱く語りかけてくる。ルターは、ムハンマドは、中世の聖職者たちは、聖書を、クルアーンを、ローマ法大全を、読んでしまった。”彼らは読んだ。読んでしまった以上、読み変えなくてはなりません。読み変えた以上、書き変えなくてはならない。読んだことは曲げられない、ならば書き始めなくてはならないのです。繰り返します。それが、それだけが「革命の本体」です” 暴力などはその派生物にすぎない、と。このあたりは前回同様、響いてきた。そして今回目に止まったのは、歴史の終わり、文学の終わり、世界の終わりなどと喧伝する人々への強い批判。"まさに現代文学は、自分の生きている間に何か決定的な没落や終焉が起こってくれなければ困るという幼稚な思考への闘争として組織されてきた。"(p.127)という反駁。何度も繰り返し語るのはそれだけ強い思いがあるからと感じた。それに対して、世界の終わりなんてもう五度も来ているんだよ、それでもわれわれは生きているんだ、というスケールの大きな反証。ペケットをひいて、それでも前へ、という意気に感ずるものあり。/ムハンマドの評伝、ルターの評伝、安吾「イノチガケ」、ブランショ、ニーチェあたりはいくつかあたってみたいと思った。/細かいことを言い出すと、16世紀ドイツとはどこを指すのだろうか?今のドイツは存在しなかったが、現ドイツの領域における16世紀の状況を指すのか。神聖ローマ帝国のことを指すのか。あるいはルターのいた都市を?そして、身をもって賭すほどのテキストとは何かというのはどう決めるのか?たまたまの出会いか、そんなことは当たり前のこととして決まっているのか。ローマ法大全はビザンツ帝国で編まれたのになぜ西ヨーロッパで「発見」されたのか、ビザンツ帝国では同様の革命がおこらなかったのか。最初の方で無前提に欧米の革命のみを語るとし、中世改革者革命、(ルターの)大革命に焦点があてられるが、他の4つの革命もテキストにより革命は起こったのか。他の地域、ムハンマドについては語られるが他の時代の中東や中国、中央ユーラシアなどなどにはなかったのか。また、中世解釈者革命の「発明」とされるものは本当にそこにだけでてきた独自の「発明」だったのか。他地域にはなかったのか。それだけ世界を変えるほどの衝撃をあたえた革命が、なぜ時が立つと内実が廃れていき、あらたな革命を必要とすることになったのか。そのへんは宿題として自分でも考えていきたい。と思った。/(2015.4.12読了時感想)これほど、読むということを、熱く激しく人生を賭けて引き受けて、論じた本があっただろうか、という気迫に満ちて。読み終えて、つるっと何も痕跡を残さないだなんて、それは本当に、読むということにはなっていない、と。刺激と企みに満ちた言葉も引かれて。/読んでいてちっとも頭に入らなくて「なんとなく嫌な感じ」がするということこそが「読書の醍醐味」であって、読んでいて感銘を受けてもすぐ忘れてしまうのは、「自然な自己防御」だと言うんです。だから読み終えると忘れてしまうし、ゆえに繰り返し読むのだ、とね。(古井由吉 p.30)「明日で世界が終わろうと、私は今日林檎の木を植える」(伝ルター p.66)聖書にそう書いてあるのだから、それを否定しなければ殺すと言われても、そんなことは知ったことではない。本を、テクストを読む、それは狂気の賭けをすることである。そして、そう読めてしまった以上はそれに殉じなければならないし、準じなければならない。「我、ここに立つ。私には、他にどうすることもできない」。(p.73)/テクストを、本を、読み、読み変え、書き、書き変え、ーーそしておそらくは語り、歌い、踊ること。これが革命の根源であるとすれば、どういうことになるか。どうしてもこうなりますーー文学こそが革命の根源である、と。(p.80)/残るほうに賭けようではないか。そうするしかないではないか。読んでしまったのだから。聞こえてしまったのだから。(p.207)

  • 久しぶりに丁寧に読む気になる本。ページをゆっくりめくったのは久しぶりかも。
    2010年か。読んでいる途中だが、あやうく哲学者になるところだった。普通の人間にもなかなか分かり易い。鵜呑み笑。会ってみたいな。

  • いわゆる常識にとらわれずに、テキストに真摯に向き合った結果完成した思想が語られます。インタビュー形式をとっているので、語る部分によってはクールだったり熱くなっていたり温度が伝わってきて面白い。本当に大事なことは、寄せてはかえす波のように何度も繰り返し述べられています。それゆえ主張はとても分かりやすい。理解しやすいという意味ではないけども。
    様々な読まれ方ができると思います。ひとつは読書論として。読書を情報フィルターにかけて読むことを拒否し、読めなささを自覚させる。冷静に考えれば確かに、カフカなど完全に読めてしまっては狂うのでしょう。それは容易に想像できます。理解するその一歩手前で私たちは読んでいると思いながらも無意識的にブレーキをかけているのかもしれません。
    次に革命論について。革命による暴力をあくまで二次的なものとして述べています。革命における根本的な原動力は読み、理解し、書くことです。このとき本は危険な爆発物に比喩されています。暴力革命よりも、テキストとの格闘から発生する革命に優位性を持たせる言説は読む人によって納得感が異なることでしょう。
    それから近代国家論や宗教論。ウェーバーが否定されて中世解釈者革命が肯定されています。宗教の神秘性への嘲笑が否定されてその普遍性が肯定されています。激しい台詞の割には、国家や宗教の在り方について極めて常識的(保守的)なことを言っているなと思いました。納得です。
    主に最終章で取り上げられる文学論。あまりに力が入りすぎて笑ってしまう個所が散見。文学の定義に納得感があるかどうかは差し置いて、文学の持つ影響力や潜在力を信じている感じがひしひしと伝わってきます。たぶん現代の文学が孕む問題を過去5,000年や10,000年単位で論じるなんて滅多にないでしょう。良い意味でやりすぎです。そのざっくり感が精緻な前4章までと趣を異にしています。
    現在を過去とは異なる特別な状況として把握する思想たち…ポストモダンとかでしょうか…に辛辣です。主に文学や思想について辛辣ですが、文学のみならず政治や経済についても言えるのでしょう。なんとなく今は近代の終焉、羅針盤なき現代、大きな物語が語られ得ない時代みたいな風潮がありますが、きっと著者に言わせれば笑止千万なのでしょうね。

  • 2010年に刊行された随筆。テクスト論など。
    私は著者のことを作家だと思っていたが、公式プロフィールによると哲学者らしい。

    ブログではこのエントリがわかりやすい。
    http://www.atarusasaki.net/blog/?p=599


    【省略目次】
    第1夜 文学の勝利
      「焦慮は罪である」
      誰の手下にもならなかったし、誰も手下にしなかった
    ほか

    第2夜 ルター、文学者ゆえに革命家
      われわれは革命から来た
      六つの革命
    ほか

    第3夜 読め、母なる文盲の孤児よ――ムハンマドとハディージャの革命
      「取りて読め、取りて読め、取りて読め」――“世界”の滅びのなかで
      大革命と「カトリック対抗大革命」
    ほか

    第4夜 われわれには見える――中世解釈者革命を超えて
      一二世紀に革命が起きた――全ヨーロッパ革命の母なる革命が
      一二世紀における資本制の胚胎
    ほか

    第5夜 そして三八〇万年の永遠
      ビニールのかわいらしいプールなのかもしれません
      「世界は老いたり(Mundus senescit)」――終末幻想の長い歴史
    ほか

  • 最後の「ツァラトゥストラ」からの引用で号泣。弱ってるのか私。。。
    1850年ロシア帝国の文盲率が90%だったにもかかわらず、プーシキンやドストエフスキー、トルストイらが次々と文学を書き上げていったことを引き合いに出して、文学の危機とか言って騒いでるやつは温い!と言ってる部分に吹いた。

  • 文学の力を盲信していると指摘することは簡単だと思う

    けれど、そもそもその何がいけないのだろう
    ある目標を達成しようと思うならそれ以上を目指せというのはよく知られた話である

    文学の力を信じることなくして、文章に力強さを宿すことなんて出来やしない

  • 音楽に救われた。力をもらった自分にできることは、音を鳴らし、歌い続けていくしかない。
    今こそ歌ってる場合なのだ。

    • daichi8106さん
      ホントに最高の一冊。自分が音楽に携わっていた理由を深めることができた。
      表現に携わる人には必読なんじゃないかと思うくらい元気が出る。
      そ...
      ホントに最高の一冊。自分が音楽に携わっていた理由を深めることができた。
      表現に携わる人には必読なんじゃないかと思うくらい元気が出る。
      そして何より文体がかっこ良すぎる。オススメです!
      2014/02/20
  • 読む、そして読め。パウル・ツェランを読もうと思った。

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著者プロフィール

1973年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会研究系基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了、博士(文学)。現在、立教大学兼任講師。専攻は哲学、現代思想、理論宗教学。論文に「鏡・エクリチュール・アンスクリプシオン」(『東京大学宗教学年報XXI』)、「宗教の享楽とは何か―ラカンの〈享楽の類型学〉から」(『宗教研究』352号)など。翻訳にフェティ・ベンスラマ「冒瀆する羊―『イスラームの名における検閲』会議での発言」(『現代思想』2006年5月号、青土社)、ピエール・ルジャンドル『ドグマ人類学総説―西洋のドグマ的諸問題』(共訳、平凡社、2003年)など。

「2008年 『夜戦と永遠』 で使われていた紹介文から引用しています。」

佐々木中の作品

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