切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話
- 河出書房新社 (2010年10月21日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309245294
作品紹介・あらすじ
思想界を震撼させた大著『夜戦と永遠』から二年。閉塞する思想状況の天窓を開け放つ、俊傑・佐々木中が、情報と暴力に溺れる世界を遙か踏破する。白熱の語り下ろし五夜一〇時間インタヴュー。文学、藝術、革命を貫いて鳴り響く「戦いの轟き」とは何か。
感想・レビュー・書評
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読むと文章の可能性を信じたくなる。もっと言うと、発破をかけられているような気分になった。
文章を読むこと、そして書くことがそのまま世界を変えるということ……自分が書いても書かなくても世界は続いて行くのだということが、逆に今・ここの「私」を慰めてくれる。
特にルターの章は最高に胸熱。誰が何と言おうと「読んで」しまった人=ルターの躍進ぶりに、快哉を送りたくなる。
昨日までと世界が変わってしまうことの驚き、そして目覚め。もう戻れないということが彼を進ませたのだな……。そんな一人の「読んだ者」が世界を巻き込み、世界そのものを変えていく過程に引き込まれた。
そしてもう一つ驚くしかなかったのは、最後の章のロシアの文盲率の話。今こうして私たちの手元にある本は、砂粒のような可能性の賭けに勝ってきた文学なんだなぁ。それはまさに、真っ暗闇の銀河で石を放り、地球まで届くかというような可能性……絶望的状況の中で、それでも何かが生き残る可能性に勇気をもらう。
それでも彼らは賭けに勝った、そして彼らが賭けに勝ったなら、我々が勝てないとなぜ言えるだろう? というところがとても好きだ。
世界は変わり続けるし、そんな世界の中に私たちはいるのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本と革命、そして芸術、表現、思想などについて広く考えさせられます。今の時代「読む」という行為は、小説や新書、ネットの記事や軽いエッセイなんか、字を追ってなんとなく飲み込む、「消費」に近い行為かもしれませんが、かつて「読む」という行為はどういう意味を持っていたのか。そして、受け取り手がいないのになぜ過去の偉人たちは「書く」ことを続けたのか…。という話です。当時の人達の思いを想像するだけで、少し身震いしてしまいました。
ダイナミックで、戯曲のような語り口なのでずっと姿勢を正して読んでしまいます。まだまだ読み込みたい一冊。 -
生きる為に命を食す様に、生きる為に本を読む人達もまた存在する。それは娯楽としての安全な読書とは本質的に似て異なる物であり、自らの経験と人格を剥き出しにして一冊の書物と向き合う行為は時に傷付き、苦しみに満ちた物であるが、懸命に生きようとする行為をどうして愚かだと言えようか。佐々木中が文学の持つ可能性について情熱と確信を持って語り下ろした本書はそんな読書という孤独な航海を徹頭徹尾肯定し、灯台の様に道を指し示している。ここには幾度となく立ち返る言葉がある。とても勇気が出る。書物を持つ手が切り取られてしまう前に。
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先日いただいた本を読了しました。
ジャンルは現代思想系、とでもいうのでしょうか。
佐々木さんが聴衆または聞き手に向けて
語り掛け続ける口語体中心で構成された本です。
自分ごときが評価できるレベルの本ではありませんでしたが、
素養のない者が読んでの評価ということで書きます。
哲学、宗教系の教養がそれなりにないと、
枝葉末節だけでなく、本筋の裏のロジックがわかりづらい、
というような内容ではありました。
なので、自分には内容が半分もわかったかどうか怪しいです。
しかし熱量がすごい。それだけは伝わってきました。
○○は終わった、というような表現はよく使われますが、
それが本当に著者は許せないんだなと思います。
お前が終わったという前に、お前の○○は始まってもいない、
そう言い放つのです。
本当の意味での読むという行為を怖がっているお前に、
終わりを語る資格などないと叫ぶのです。
テクストがただの文字情報という意味を超えた、
上のレイヤーにおける情報価値そのものとして息づき、
それこそがこれまでの人類を作ってきたのだし、
今の自分が生きていられるのもそのおかげなのだ。
そういうことを忘れずに生きることが大事だし、
だからこそすべての人は臆せずにその思いを書き残すべき。
その一足が道となり、誰かがそれに続くかもしれない。
そんな風に自分の中では捉えることができた本でした。
難しい本でしたが、面白かったです。
ただ、これをくれた友人はこの本で人生が変わった、
という風に言っていましたが、
自分は変わるほどには理解できなかったようです。
(謙遜抜きで)
非常に示唆に富んだ本だったことは間違いありません。
著者の他の作品も少し読んでみたいと思いました。 -
「切り取れ、あの祈る手を」のなかで、佐々木中はとにかく文学について「読み、書くこと。読み変えて書き変えていくこと。全ての”テクスト”においてその行為を行うこと」の重要性を説いています。
文学を続けることの困難さ、情報じゃない文学を書くことの困難さ、は文学に関わったことがある方なら多少感じている所があると思います。
革命につながる暴力性を孕んでいるかもしれないし、全く無意味なものかもしれない。
自分が今やっている研究は、今書いているものは何の意味があるのか、なぜ書いているのか、何が得られて何が残るのか。
それでも読み続けるしかない、書き続けるしかない。
周りのひとからは本は読んでいるけれど、世の中のことは何も知らない奴だと言われたり、自分自身も本当に正しいことをしているのかは分からないけれど、とにかくそこに書いてあることを読んでしまったのだから
信じるしかない。
文学やそして藝術と向き合っていく、ということはそれほど辛いことでもあります。
それを続けられない人が藝術は終わった、文学は終わったと言い始めることについて特に批判している、と著者は述べています。とても辛辣に。
“文学が終わっただの純文学は終わっただの近代文学は終わっただの、もう何百年も何十年も繰り返し言われている。っそう口にする自分だけは新しいと思ってるわけでしょう。残念でした。そんなことはもう飽き飽きしているんですよ。”
終わった、というほうが楽なのかもしれないし、そう考えて続けないことが楽なのかもしれません。
文学は終わりません、と断言するにはその困難さと向き合って続けていかなければならない覚悟と力強さが必要で、
それを持って文章をつづろうとするとこうした文体で書かれた本が出来上がるのだと思います。
一読すると、扇情的に捉えてしまうけれど、それは著者なりの覚悟が現れているものなんじゃないかと思います。
本の最後に、パウル・ツェランの言葉を引用して、佐々木中は以下のように書いています。
“様々な喪失の只中で、手に届くものとして、近くにあるものとして、残ったものは言葉だけでした。言葉は失われることなく残った。”
“残るほうに賭けようではないか。そうするしかないのではないか。読んでしまったのだから。聞こえてしまったのだから。大丈夫ですよ。普通のことです。誰もがそうしてきたように、そうし続けるだけなのですから。”
何も終わらないし、これからも何もかも続いていくのだから、とにかく書け。
文学にできること、とか文学とは何か、とか書かれている本はあるけれど、
これほど端的に答えを出して、書く人を勇気づける本はめったに出てこないかと思います。
最後の引用は地震が起きて以来、ずっと頭のなかを巡っています。
続けていくことに目をそむけずに、残るほうに賭けていたい。 -
彼は読んだ、読んでしまった、自分が狂っているのか、世界が狂っているのか。文学はすなわち<革命>である。文学は終わらない。
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藝術というもの、ことさら文学というものに対する畏敬と愛を余すところなく降り注いだ賛歌の書。
文学は終わったなどと宣う人々や、自己中心的終末論をひけらかすナチスやオウムに代表される人々、革命というものを暴力的側面だけを偏視し見誤った人々、その他全ての「読むことを侮辱する人々」に対して、一切の手加減をすることなく徹底的にこれを断じ、あるべき姿を説き諭す著者の鬼気迫る熱量と峻厳さに心打たれた。