- Amazon.co.jp ・本 (533ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309412993
感想・レビュー・書評
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すごい、すごいよ!この小説は。
よくこれだけのものを書き切れたと思う。
メインは「天皇の戦争責任」に関してのディベートなのだが、それまでの狩やスピリチュアルが全て意味を持ちマリのスピーチに繋がっていく。
アメリカ人の横暴な考えや日本人の卑屈な事なかれ主義、真珠湾、原爆、東京大空襲、はては人間キリストなど目から鱗が落ちた気がした。
今、若い世代にぜひ読んで欲しい。そして現在の日本政府の在り方を考えて欲しい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本の学校に馴染めずアメリカに留学、氷点下20度の極寒地メイン州の高校に通う16才の少女<アカサカ マリ>に課せられたディベ-ト(肯定と否定の二組に分かれて行う討論)は〝天皇の戦争責任〟について弁明せよというものだった。 マッカサ-統治の「東京裁判」は、A級戦犯(平和に対する罪)、B級戦犯(通例の戦争犯罪)、C級戦犯(人道に対する罪)にクラス分けされたが、天皇は戦犯指名されずに終結した・・・ <マリ アカサカ>は〝TENNOUの言葉〟として弁論を展開する。会場は静まり返り、痛いほどの沈黙を破って拍手が起きた。〝彼らの過ちの非はすべてこの私にある。子供たちの非道を詫びるように私は詫びねばならない...彼らが狂気のほうへと身を委ねてしまった時の拠り所が、私であり、私の名であったことを、私は恥じ、悔い、私の名においてそれを止められなかったことを罪だと感じるのだ。私はその罪を負いたい...積極的に責任を引き受けようとしなかったことが、私の罪である...戦争前に、戦争中に、そう思い至らなかったことを悔いている〟
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若い娘にこういう事を聞くのはかなりむちゃだなあ…と思いました。
私も同じ年頃に聞かれたらわからなかったと思う…。 -
過去と現在、妄想と現実のパラレルがだらだらと続く。
一番興味の対象であった最終章にたどり着くまでにこの作品、作家への嫌悪感が高まりすぎて途中で断念。 -
著者初読み。
ブクログでのレビューが気になって、読んでみた。
レビューの評価もいまいちだったが、題材が東京裁判だったので、どうしても読みたくなった。
結果…
とてつもなく、がっかり。
哲学的な表現を意識しているのかもしれないが、9割が妄想。270ページにして、やっと東京裁判の話になったかと思えば、また妄想シーンに戻る。
最終章でディベートの形で、戦争責任が天皇陛下にあるか?と言うところに切り込むが、いかんせん話が中途半端。
何故、アメリカに留学して、その先で日本人が天皇陛下の戦争責任を問われる設定が必要だったのか?日本の文化では決して議論する場がないから、そのような設定をしたのであれば、もっと突っ込むべき。
平成が終わり、戦争も遠ざかり、戦争の真実を語れる人がいなくなる一方、天皇自らが戦争を語る時代になった。
今でもおめでたい場で「天皇陛下、万歳」と言う風潮は、戦争経験者にはどう映るのだろうか?
わざわざ東日本大震災を盛り込むぐらいならば、もっと戦争に対する日本人の本音を盛り込んで欲しかった。
最後まで読んでも、全く理解出来なかったのが、本当に残念。 -
物語の途中に唐突に入ってくる空想なのか夢のシーンにまったくついていけない。結果、物語の構造が理解出来ず、途中挫折。無念。
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天皇の戦争責任のことを
日本人の少女が
アメリカで弁明する
というあらすじに惹かれて手に取ってみた。
これまで深く考えようと思ったことはなかったけど、確かに天皇って、世界に類を見ない不思議な存在だ。
生と死、男と女、戦争と平和、傀儡と主体、人民と統治。
色々な概念を総合して考えても、答えの出せない人?神?
だから、この小説は正直とてもわかりづらい。
色々なところへ飛んでいき、これはあれだと思った。
難解な演劇によくあるやつ。
ひとつの空間を色んなものにみせてくかんじ。
演劇みたいな読書体験。
でもこれはそうしないと、伝えられないからなんだ。
それくらい、私たちは複雑に屈折したものを抱えている。
それは天皇という範囲を超えて、太古の日本から、第二次世界大戦以降まで、私たち日本人が抱えているもの。
もっと広く、世界中の「国民」と呼ばれる人たちが、かかえているものなのかもしれない。
その国に生まれただけだけど、その国の国民となって、生きていく。
その国のルールの中で、考え方の中で。
これまで戦争ものって、人としての生死の尊厳を主題として感じることが多かった。
でもこの本が私に提示してくれたのは、人として生き、行動し、意思を持つことに対する尊厳の根源のようなものだ。
それを揺るがされてしまうものが、戦争ということそれ自体に内包されている。
こんなことしていいのかっていう畏怖みたいなもの。
それを抱えきれない、人は。
そんなストレスフルなこと、絶対やめようよ。 -
戦後に生まれ、戦争のことを知らないまま、アメリカに留学した、高校生のマリの物語。
アメリカン・ガヴァメントという授業で、天皇の戦争責任について、進級をかけディベートすることになる…という話は、この本が話題になった頃に知った。
複雑な物語で、どう言っていいかわからない。
たった一人で、カルチャーショックの中、母を国際電話で呼ぶ。
その回路が、2010年前後の、現在のマリに繋がり、二人は母子を演じながら会話する。
二人のマリは、両親の戦中、戦後を追い、バブル前後の自分たちも振り返る。
こういう、日本の近代史を見返していく部分がある。
その一方で、マリが留学中に地雷を踏むような形でアメリカ人の禁忌に触れていくところも描かれる。
ベトナム戦争と、神のこと。
もはやアメリカ人の思考停止に、マリと一緒に、フラストレーションをためてしまう。
ベトナムの二重双生児や、ヘラジカの姿にもなる「大君」の幻が、マリを揺り動かす。
母親と現代のマリが交錯することで、既に私たるものが何だかわからなくなるカオスが生まれていく。
そこに、これらの幻影だ。
もう、この小説がどんな結末を迎えるのか、さっぱりわからず、迷走するかのような気分。
しかし、このカオスの中、ディベートをしながら、マリはほとんどシャーマンのように、生身の体を持ちながら神でもある、大君にして人々そのものでもある、矛盾に満ちた「天皇」というものを理解する。
なるほど、カオスは周到に用意されたものであったか、と遅ればせながら気づく。
不思議なことに、読者として、大君を語るマリにカタルシスを感じてしまうのだ。
二度とは読めない、読まない小説だと思うが、衝撃的だった。 -
自分には合わない。現実と妄想あるいは夢の中を行き来しているのだと思うが、区別が全くつかず話が理解できなかった。クライマックはディベートの場面でそこに向かって話が進んでいるのだろうが、作者が何を訴えたかったのも理解できなかった。
多くの人は「東京裁判」を描いている作品と捉えているようだが、本作の主題は、自分には日本人のイメージにはないアメリカを描いているように感じた。その歴史的な経緯も含め。
本書は沢山の賞を受け絶賛されている。確かに、私も作中のマリと同じで、意識的にか無自覚かも分からないが、天皇の戦争責任などということは深く考えたこともなかった。そう言う意味では、一石を投じた作品ではあるのだろう。 -
面白かったけど、話にまとまりがない。
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読みにくい話だと思う。
主人公マリの1980年と2011年を、アメリカと日本を行き来しながら、更に彼女の実世界と精神世界を混沌としながら渡り歩いてゆく。
初読では捉えられない、たった一人の女の子に翻弄されてしまった。
東京裁判、敗戦国、天皇の戦争責任。
ベトナム戦争、南北戦争、東日本大震災。
散りばめられた点は、自分自身が考えて線にしていかなくてはならない。
抗いようもなく蹂躙されるヘラジカも、マリも、敗者としての私たちの姿の代わりである。
天皇とは何か、日本とか何か。
神によって創られた国に住みながら、私たちは朧げにしかそのことを考えない。
私たちは何故戦ったのか。
原子爆弾は何故落とされたのか。
負うた傷に涙は流せど、考えることはどんどんと阻害され、白痴化する現代が到来した。
私たちの立場は、変わったか。
この国は紛れもなく日本である。
グローバルである前に、足下を見るべきだ。
私たちにとって、天皇とは何か。
なんだろう。ズキズキする話なのである。
悲しいではなく、懐かしいでもない。
紛れもなく日本にいるから、当たり前の問いを考えずにいられるのかもしれない。
さて。2014年の私たちには『東京プリズン』を通じて、大きな問いが投げかけられてしまった。
私たちは、何のために戦うのだろうか。
補足的に。
この小説にはリトルピープルと白い繭が出てくる。
初出は村上春樹『1Q84』のおよそ一年後。
オーウェルの『一九八四年』に対し、マリの時間軸は1981年。
これらの相関性がどうであるかは分からないが、置いておきたい。 -
16歳のマリが挑む現代の「東京裁判」とは? 少女の目から今もなおこの国に続く『戦後』の正体に迫り、毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞受賞。読書界の話題を独占し“文学史的事件”とまで呼ばれた名作!
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2024.02.12
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アメリカの地で、『日本の天皇には第二次世界大戦の戦争責任がある』という議題でディベートすることになったら、どう議論を展開させていきますか。
天皇制や東京裁判、アメリカの歴史など、もっといろんなことを勉強し、もっとちゃんと考えておかなくちゃと痛切に思いました。
こんなにスピリチュアルな作品だとは思ってなかったので面食らいましたが、日本人としてのアイデンティティを改めて考えるきっかけを与えてくれました。
私は日本人で良かったと、心から思うのでありました。
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「太平洋戦争では多くの日本人が天皇のために戦い、死んでいった。国の「元首」は天皇だった。戦争の終結を決めたのも昭和天皇だ。だがその天皇が、戦争犯罪を裁く東京裁判の法廷に立つことは無かった。ーなぜかー。
主人公は15歳の少女、マリ。留学したアメリカの学校で、天皇の戦争責任を論じなけれればならないはめにおちいる。「天皇は戦争犯罪人である」という論題にイエスとノーの立場で論を戦わせるのだ。
この国の「戦後」とは何だったのか。読者は問いをのど元に突きつけられる。」
(『いつか君に出会ってほしい本』田村文著 の紹介より) -
いやぁ、難しい本だった。
なもんだから、すごく時間がかかってしまった。
いわゆる文藝作品であり、物語小説ではないので書いてある事がちんぷんかんぷんなのだ。
内容はアメリカに留学した16歳の少女が、授業の一環で「天皇の戦争責任」を題材にしたディベートに参加するするという内容。
そもそも日本の社会科教育では、昭和史はほとんど勉強していない。
私自信もそうだし、今でもそうでしょ。
そんな少女がアメリカに留学してきた訳だから、日本人はそこんとこどう考えてるんだ?と興味が沸くのも解る。
しかし、日本人は知らないんだなぁ。。。。
で、必死に勉強する訳ですが、まあ解らない。
日本人の誰もがわからない事なんですから。
東京裁判とか日本国憲法とか。
それらはすべて英語。
英語を訳して、日本国憲法が出来てるわけだから、そんなの成立する訳ないのであって・・・
例えば天皇は「Emperor」と訳されてるけど、外人が感じるヨーロッパの君主としての「Emperor」と天皇は本来違うでしょ。
また、天皇に関しては、例えば「人間宣言」のくだりでは日本人さえわからない日本語が使われてて、それを英語に訳してアメリカ人(すなわち戦勝国)が理解しようとしてるし。
わかりやすい所で言えば、A級戦犯。
ほとんどの人が「rankA」と思ってるけど、元々は「classA」が訳されて「A級戦犯」になっちゃって、それが誤解を招いてるし、そういう事がいっぱいある訳ですよ。
私もまだまだ解らない事だらけで、その辺の事を少しでも知りたいなぁと思ってこの本を手にしたわけだが、ますます解らなくなってしまった。
ただし、解らない事さえ解らない人達は日本の事を論じてはいけないと感じます。
憲法守れ!とか言ってる連中・・・
それちょっと違うでしょ。
平和を守れ!なら百歩譲って理解しても良いけどね。
日本国憲法はもともと英語なんだから、英語で理解した上で「憲法守れ!」って言ってる?
その辺の事を考えさせられる本でした。
ただし、最初にも書きましたが、文章が凄く難しいです。
覚悟してください。
この本の後では、村上春樹だって簡単な文章に感じると思います。