- Amazon.co.jp ・本 (648ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309464411
感想・レビュー・書評
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画家ポール・ゴーギャンとその祖母フローラ・トリスタン。2人の人生の軌跡を描いた長編。
ゴーギャンの祖母がスカートを履いた扇動者と呼ばれ、19世紀フランスで女性解放と労働組合を作るため全土を奔走した政治活動家だったとは知らなかった。
とにかくフローラの人生は波乱に富んでいて且つたくましい。最初の結婚に失敗し、DV夫のせいで男性嫌い、セックス嫌悪。夫との離婚から裁判、娘の親権を奪われ、また奪い返し、さらに執拗に追うDV夫から銃撃され胸に弾丸が残ってそれがもとで病気になるという凄まじい人生。食うために亡き父の一族を頼ってペルーに渡り、そこで貧困と奴隷制度を目の当たりにし胸を痛め、世の不条理を知り労働者と女性解放の闘士として目覚めフランス本国で活動家として生きていくことを決意する。フランス全土を駆け巡ったフローラの姿は強情ともいえるほどの行動力で、フーリエ主義者やサン=シモン主義者たちと議論し、女性や労働者に理解がないと分かると相手を罵り、金持ち資本家に組合の支援を頼み、断られると罵倒し口舌鋭く批判する。と、いろいろ忙しい。
強靭な意思と信念に貫かれているが、ときにその姿は痛々しいほど。
かたや反逆の芸術家・ゴーギャンは、西洋文明に背を向け、西欧絵画に新しい作風と考えを取り入れ、印象派をつくり、のちの絵画史に新風を注ぎ込んだ。
そもそも株式仲介人として成功し、スーツ着たブルジョワだったゴーギャンは、たまたま同僚に薦められた絵描きに夢中になり、地位も名も家族も捨て、画家になるためタヒチに向かう。芸術の再生を願って、家庭を捨て、タヒチに渡ったゴーギャン。愛人や恋人を次々作って(多くは画のモデルとなった)、すぐ結婚し、離婚したり、現地で知り合ったタヒチ人やヨーロッパを捨て現地に住み着いたボヘミアンの白人どもと毎晩乱痴気騒ぎし、酒とクスリに溺れたり。行き当たりばったりの人生の放埓さはずいぶん自分勝手にみえるが、むしろその奔放さにこそ新しい芸術への創造の源とエネルギーがある。
無節操な性衝動も西洋文明に抑圧された人間の本能として表現活動に昇華しようと利用している。ゴーギャンの代表作の成立背景やモデルとなった人物たちとの関わりも描かれており(著者の創作もあるだろうが)、ここはゴーギャンの画集を見ながら読むと楽しめる。
そんな強情と放縦さが特徴の2人の人生も、病に冒され死を迎える。楽園を求め彷徨っても辿り着くことができなかった各々の人生は、それでも楽園を求め得ずにいられない人間の業を評しているようで圧倒される。
600ページを超える長編を読むと、人物への感情移入と同時に、長年ひとりの人生に寄り添って生きてきた錯覚に陥る。だからゴーギャンやフローラが天に召される瞬間は、臨終の床で死を看取った気分で淋しい。これは著者の小説の技法がそうさせるのかもしれない。「このときは、~で、まだ・・・だったね、」と結末を知るがゆえに語り掛ける過去形の語り口と、ゴーギャンを「コケ」とあだ名でよび、フローラをときに「怒りんぼ夫人」「アンダルシア女」と呼びかえる三人称の視線は、神の視点から2人の人生を綴っている。神の俯瞰だが同時に寄り添う語り口は、どこか慈愛に満ちて優しい。
長編小説として物語はもちろんおもしろかったが、同時に小説を読むという行為が為す多様な意味と、そこに含む豊饒な世界を思い知らされた作品だった。 -
600頁ぶあついけど文庫化嬉しい。画家ポール・ゴーギャンと、その祖母で女性と労働者解放のために戦った活動家フローラ・トリスタン、それぞれの目指した「楽園」への道のりが交互に描かれている。
ゴーギャンについての私の知識はモームの「月と六ペンス」レベル。小中学生の頃の美術の教科書に載っていたような画家の中でも、ゴーギャンなら名前は知っているし作品もインパクトはあるけれど、個人的には印象派は好きじゃないし、ダリやキリコのようなシュールレアリズムの絵のほうが当時から好きだった。正直今もそう。しかし改めてこうして、ゴーギャンの「人となり」みたいなものを知ると、がぜん描かれた作品にも興味が湧いてくる。
この小説の中でもゴーギャンの章のほうには主に彼の作品タイトルがつけられており、物語の進行にしたがって「死霊が娘を見ている(マナオ・トゥパパウ)」「神秘の水(パペ・モエ)」「ジャワ女、アンナ(アイタ・タマリ・ヴァヒネ・ジュディット・テ・パラリ)」「アリーヌ・ゴーギャンの肖像」「ネヴァーモア」「われわれは何者か(われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか)」「天使との戦い」「ヒヴァ・オアの呪術師」等の絵を検索して物語中のエピソードと照らし合わせながら読むのはとても楽しかった。モデルとなった女性や男性との出会い、背景に書き込まれたものの意味等、もちろんリョサの創作もあるだろうけれど、とても興味深い。「ネヴァーモア」は、そうか、ポーの「大鴉」のことか!とか、目からウロコ感。またとなけめ、ですね。
一方フローラのほうは、ゴーギャンサイドが回想を交えつつもタヒチに渡った1892年から1903年までの十数年にわたって後半生に焦点が当てられているのに対し、1844年に亡くなる前の数か月に絞らている。しかしやはり膨大な回想が織り交ぜられているのでどちらの章も読み応えはたっぷり。最初の結婚に失敗し、DV夫のせいで男性嫌悪、セックス嫌悪に陥ったフローラは、父の故郷ペルーに逃亡。内戦や奴隷制度を目の当たりにして、女性と労働者の解放のための活動を開始する。「怒りんぼ夫人」とあだ名のあるこの「アンダルシア女」フローラは確かにいつも怒っており、しかしその「怒り」こそが彼女を活動に駆り立てた原動力で、この怒りがなければ彼女はきっと平凡な幸せを求めて一生を終えられたはず。
ポールとフローラの共通点は、比較的「遅咲き」で自分のやりたいことに目覚めたことと、そしてそれを見つけてからは、家族を顧みず自分のやりたいことの追及を優先したこと。そして男嫌いでありながら女性としての魅力をふりまいて数々の男性を虜にし、なおかつ女性の恋人をもったフローラ、一方ポールも数々の女性遍歴を重ねつつ、マフーと呼ばれる中世的な男性に惹かれる同性愛的側面ももっていた点かな。そして二人とも「楽園」に辿り着く前に力尽きた。どちらの生き様もとても魅力的(※真似はしたくないけれど)だけど、しかしやはり、ほったらかしにされた子供たちはちょっと不憫。とくにフローラの唯一の娘(息子二人は死亡)であり、ポールの母となるアリーヌの生い立ちは結構悲惨。過激な親と自由な息子に挟まれてさぞや苦労したであろう・・・とても気の毒。
二人分の伝記が1冊になっているけれど、作者の文体というかフローラとコケ(ゴーギャンのタヒチでの呼び名)に対する呼びかけというか語りかけのような口調が優しいので、辛いことばかり起こっていてもなんだかほっとする。あと例えばゴッホのことはフィンセントだけでなく「狂ったオランダ人」、デンマーク人だったポールの妻メット・ガッドのことは「女ヴァイキング」等、フローラに対する「アンダルシア女」と同じく愛情込めた(?)あだ名で語っているのも独特の味になっていて好きだった。 -
ふたりの頑固者の人生に伴走して、大河ドラマを見終わった満足感。つまり「あーいろいろあったが終わりましたなあ」という気持ち。たくさん取材してたっぷり盛ったバルガス=リョサの大盤振る舞いを堪能した。文庫で600ページ、2週間かかってしまったが途中でダレないドラマ性の強い小説だった。夏休みやお正月、思い切り小説を読むぞ!というときにも良いと思う。
モーム『月と六ペンス』でゴーギャンがモデルになったストリックランドより、本書のゴーギャンのほうが我慢できる。というのもゴーギャンの内面を語り手がなんやかやと類推してくれるのだ。ストリックランドはだれの介入も受け付けない鉱物のような存在だったが、本書のコケは梅毒でボロボロになりながら絵をかき曲がったことをやる、どうしようもない奴ながらも一人の人間だった。振る舞いが一緒でも、心中が測れる人物には耐えられる。
語り手が主人公たちに語りかける形で、当然ながら読み手に話しかけていたんだなと今さら気付く。声が聞こえる本だから、600ページが長すぎなかったんだということにも。 -
自らの意思を徹底して貫くという生き方は、どうしようもなく苦しいものだ。
意思を貫き自分の理想とする楽園へと突き進む道のり、それはまさに地獄の道である。
楽園への道とは、地獄なのだ。地獄が楽園へと誘ってくれるのだ。
そう考えると、楽園と地獄は表裏一体なのかもしれない。 -
直訳は「次の角の楽園」だそうだ。どうしてこのタイトルにしなかったんだろう。子供の遊びみたいに、無邪気に、でも必死に「楽園」を求めるフローラとゴーギャンの物語。
章ごとに入れ替わる二人の伝説は、ストーリーとしてではなく、魂のレベルでどこかリンクしているように思えて凄まじい。しかも二人称小説。これがノーベル賞作家か。そりゃ村上さん無理だよ。
地名や人名の固有名詞が多くてたまについていけなくなるけど、どんな壮大な物語も、結局は一人の人間自身の自分語りから始まるのだなと思わされる。次の角を曲がれば、楽園がある、曲がったら、さらにその次の角。生きることは苦しくて、つらくて、ややこしいことばっかりだけど、そうやって目の前の壁を乗り越え続けてたら、ある種の世界観とか縁とか作品とか、切り開いて来たなりの足跡が続いていて、後の時代の人たちが、そこに何かしらの価値を見出してくれる、かもしれない。でもそんな評価が欲しいわけじゃないストイックなわれわれは、結局は自分を満たしてくれる何かを見つけるまで、戦い続けるしかないんだよなと思わされる。
きっと楽園なんて、最初からなかったんだよね、フロリータ。それでも次の角を曲がるまで、描くしかなかったんだよね、コケ。 -
記録
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人生の物語の中に深く跳び込み、作中人物たちをぎゅうっと抱きしめたくなった。このような衝動にかられるのは、主要な二人の①追求②衝動(痙攣/陶酔/奪還)③幻滅のサイクルが全頁を通じて統一したハーモニーを与えてくれたからだと思う。「自然のままに」「あらゆることに大胆に挑戦する」ときに、生命は進行し、ゆらめき、めぐり逢う人や物と融合し、遠くから届く楽園の光は存続することを教えてくれ、感動とともに、生命力を充実させてくれた。ゴーギャンの絵は彼の熱情の有り様をそのまま映し出しており、芸術的痙攣の感触が掌に残っている。