- Amazon.co.jp ・本 (493ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309709819
作品紹介・あらすじ
「荒地」からまっすぐ天空へ、さらに遥か大海へ、隠された光りと声を再発見する言葉の壮大な試み。戦後の焦土に刻まれた鮮烈な第一歩。歿後十二年(十三回忌)を迎え、ますます輝きを増す詩人・田村隆一待望の全集、第一巻ついに刊行。
感想・レビュー・書評
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詩歌
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この人の詩がすきだ。ぜんぶそろえたいが高い笑。五本の指に入る詩人。
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田村隆一の詩を初めてまとめて読んだ。『緑の思想』の表題作の、青くてとがった力強さがかっこいい。「不定形の猫」が収録されている『新年の手紙』のほうが変化があって飽きないけれど。
後半の、同人誌時代を振り返る文章や詩論は難しかった。単語が滑ってしまって頭に入らないのは、詩は小説とはまったく別ジャンルのアートということなのか、単に自分が経験値が低いせいなのか。登場する詩人をピックアップするくらいしかできなかったけれど、それらの詩人の作品を読んだ後で再読したら、また違うかもしれない。 -
「きみは言葉を信じない
雪の上にも血のにおいがついていて
どんなに遠くへはなれてしまっても
ぼくにはわかる
きみは撃鉄を引く!
ぼくは言葉のなかで死ぬ」
(田村隆一『細い線』より)
戦後、もっとも孤高な男の詩だ。
この詩の一部分だけで、彼がいかに繊細で
言葉に魂を委ねてきたか想像がつくと思う。
詩句の表すものが事実ではないからといって、それらは直ちにまったくの虚構へ還らない。
表現された事柄は理解可能な、ありふれた事象なのだ。詩句は不特定多数の、しかし私たち誰にでも理解しうる、何らかの、ありうべき可能的世界である。クワインは可能的世界のなかでは様々な可能的なものはその細部が明確ではないから、相互に区別されず、それらが自身と同一であるのかどうかさえ判定できない具合になっているという。
彼が心血を注いできた詩的言語の特有性はどこにあるのか。単に一般的、可能的なものを表す以上に詩的言語はどのような特性を持っているのか。
詩のなかの語句は、「きみ」も「ぼく」も「撃鉄」も「言葉」も、当のそれらのものを語のなかへ呼ぶのであり、今は不在のそれらのものをその不在の遥けき遠さを奪わずに現在のなかへ呼び引き寄せる。ハイデガーがリルケ論で語っているように、今は不在のものを現在へ呼び出し心の内部空間のうちにまざまざと現出せしめるのだ。
想像が詩的世界を創るのではない。
むしろ、語句によって不在の真っ只中で現在せしめられた世界の開示性のなかへと連れ拐われるのだ。
そこに生きる個人それぞれの生の営みと痕跡が、そのなかに深く刻み込まれた世界であり存在なのだ。そうした意味でそれはある世界という場のなかで各自の生の軌跡を付き纏わせたものであり、詩人は全ての孤独を引き連れていく。
詩的言語はこの生と世界的存在の真実の開示性を見事に髣髴せしめ、現出せしめるところにその特色を有する。
詩がこのような働きをするのはなぜか。詩人も読み手も共にその生と世界内存在をもう一度、ありありと反芻し、追憶に襲われたり或いは愛のような憎しみのような感情を抱いた各自の原体験を増幅した形で、もう一度生き直し、こうして生を見つめ直すためだ。飛び散る儚い生の体験を、結晶化し、繋ぎ止め、それらを増幅した姿で反芻しながら生き直し、生きる勇気と喜びを得んがためである。
詩人とは言葉で真実を見えるようにさせる人だ。言葉の技法と才智、天賦の能力と知性、そうした天稟豊かな者が詩人なのだ。
田村隆一もまたそうした一人であり、恍惚のなかで本質を見つめ直し、新たに生を生き直す喜びと勇気と慰めを与えてきたのだ。 -
「空から小鳥が墜ちてくる 誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために 野はある」と。。。
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2011/04/16 黒沢tweetで知る<br />ニュース新書の長田弘以来、詩に関心