- Amazon.co.jp ・本 (364ページ)
- / ISBN・EAN: 9784314011877
作品紹介・あらすじ
世界20カ国で刊行、日本でも大きな話題を呼んだ『ぼくはお金を使わずに生きることにした』著者の新たな挑戦!
グローバル化する世界においてテクノロジーとは、最高のテクノロジーの持ち主らにのみ利益をもたらすのだ。
お金を使わない生活実験で知られる著者が、今度は電気、水道、ガス、テレビ、電動工具、時計、インターネット、携帯電話といった、現代社会のテクノロジーをいっさい使用せずに、小農場に恋人らと建てた小屋で自給自足の生活をすることにした。敷地内には、誰でも予約なしで泊まれる無料の宿泊所兼イベントスペース兼もぐり酒場〈ザ・ハッピー・ピッグ〉もある。
泉の水を汲み、野草を摘み、ロケットストーブで調理をする。マス釣りをし、鹿を解体してその命を丸ごと自分の中に取り込む。コンポストトイレを作り、堆肥で畑の野菜を育てる。贈与経済の中で地域社会の人たちと豊かに暮らす1年間が、アイルランドの自然の美しさとともに、著者一流のユーモラスな文章で詩情豊かに綴られる。
究極の生活から見えてきたものとは──
《Irish Independent, BOOK OF THE YEAR 2019》
〈本書より〉
二〇代はじめの自分をふりかえると、自尊心の源はおもに「かせいだカネがどれだけ多いか」であった。(略)最近では「必要とするカネがどれだけ少ないか」が自尊心の源になっていることに気づく。
六か月前に現代生活の気散じを排した生活をはじめたとき、自分がどんな反応を示すかに興味があった。活発すぎるぼくの心は退屈してしまうだろうか。時間の進みかたを遅く感じるようになるだろうか。もし時間がゆっくり進むのだとしたら、それを楽しめるだろうか、それともつらく感じるだろうか。
実際には不思議な経験をしている。一日一日は以前よりもくつろげて、焦りやストレスをおぼえることなく過ぎていく一方で、四季の循環はこれまでになく速く感じられる。ぼくらはみな、自分の時間にあれこれの用事を詰めこんでいながら、いちばん大事な問いについて考え忘れているのではないか。貴重ないまの時間を何についやすのが最善か、という問いである。
ときどき自分に言いきかせなければならない。ガスコンロ、ダイヤル、ボタン、スイッチの代価を支払うためにいやな仕事を我慢する苦痛など、恋しくもないはずだ、と。人は忘れっぽい生き物である。
テクノユートピア主義者は、何事もAIまかせにしようと考えるが、将来がどうなろうとも、ぼくは、自分がどのような暮らしを望むか承知している。いつなんどきでも、人工知能(アーティフィシャル・インテリジェンス)より自然の叡智(ナチュラル・インテリジェンス)を選びたい。
ピーナッツバター、バナナ、天日干しのドライトマトなど、アイルランドでは自給不可能なごちそうを懐かしく思うときもあるが、それもごくたまにの話だ。それに、広い世界でどんな危機や大変動が起きようとも、自分自身と隣人や愛する人のための食卓をととのえる方法を知っていれば、本当の安心感が得られる。
感想・レビュー・書評
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アイルランドのほぼ高齢者しか住んでいないような村で、電気の使用をはじめ、水道・ガスといったテクノロジーを断った一年間の自給自足の生活の試みを描く。助走期間にあたる序章につづき、冬から秋にかけての四季とともに移りゆく四章で体験と思索を綴り、これに、著者の幼少期から現在にいたるまでの回想と、アイルランド南西部のグレート・ブラスケット島にまつわるエピソードを織り交ぜる。ゲスト以外の共同生活者は、パートナーであるカースティという女性一人のみ。
このような暮らしは一念発起によって突然はじまったわけではなく、本書の舞台となる農場には数年前からすでに移住していたようだ。また、約10年前の第一作にあたる『ぼくはお金を使わずに暮らしはじめた』の試みや、ビーガンとして活動していた過去もあり、本書の試みもそのような著者の来し方の延長線上にあるものといえる。
スローライフに興味がある読者のためのハウツー本のような性格ではない。テクノロジーを使わないための具体的な方法を体系的に紹介するわけではなく、詳細は細切れに少しずつ織り込まれている。もともと既に農場での暮らしや第一作の経験の土台があり、TVのリアリティー番組のように都会人がいきなり隠遁生活を開始するようなギャップはない。現在の自給自足生活と著者の思想の遍歴を重ねた随想が主で、産業文明に依存した近代的な人間の生きかたへの疑問を表明する。
『ウォールデン 森の生活』のソローによる影響が大きく、たびたびソローの言葉が引用される。自然礼賛と文明批判はそのまま踏襲し、グローバル化や技術の進歩によりソローの時代よりもはるかに分業や大量生産が顕著になった現代において改めて自給自足を体験した、現代版の『森の生活』ともいえる。
唐突な試みではなく著者のこれまでの活動が土台になっているために、本書を通して基本的に著者の内面が大きく揺らぐことはなく安定している。目を引くようなハプニングが描かれるでもなく、テクノロジーを使わない生活こそ著者が求める真の生き方だという確信を淡々と深めていく過程は、読み物として淡泊ではある。ただ、それも、著者の生き方の表れといえるのかもしれない。
本書にあるような「スローライフ」「シンプルライフ」と呼ばれる生活は実はかなり複雑なもので、むしろ都市における生活のほうが単純なのだという指摘は新鮮で、的を射たものと思えた。第一作を読んでからにすべきだったかもという心残りはある。 -
読んでいるこちらまで、自然と向き合う気持ちになる。
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国民が、「全土に屋根をかけることができれば、素晴らしい国なんだが」とこぼすアイルランドの辺鄙な農村で、"カネなし・電気なし"生活を実践した一年の記録。
水はけの悪い泥炭地に足を取られながら、時計ともグレゴリオ暦ともおさらばし、鳥のさえずりや朝の光で、時間や季節を感じとる。
電動鋸を使えば15分で終えられる作業を、「手道具に操を立てる」と誓った著者は、丸一日かけて手鋸1本で作業をやり終え、満足感を覚える。
それでも自然と内から湧き上がってくる効率化の欲求を押し留め、いくらでも時間をかけていいんだと言い聞かす。
『ポツンと一軒家』だけでなく、半ば自給自足の田舎の農村風景にも、育苗ポットやビニールハウス、肥料袋などプラスチックは溢れているが、著者はそれらも徹底的に遠ざける。
もとはステロイド注射を打つほど重度の花粉症患者だが、舗道の割れ目に生えているオオバコが効くと知り、"天然の薬局"として積極的に利用する。
露天風呂の熱い湯に浸かりながら、どうしてこの良さに最初に気づけなかったかと悔しがる場面には、"そうだろう"とニヤリとさせられた。
プラグを抜き、あらゆる産業文明からリタイアし、アジールに逃げ込んだつもりでも、容赦のないグローバル化と都市化の波は、著者が生活する村にも襲いかかる。
生活するのにカネを使わなくても、預金残高は着実に目減りし(アイルランドでは少額口座ほど維持手数料がかかる!)、唯一の通信手段である両親や友人に出す手紙に貼る切手も容赦なく値上げされて、一月の切手代が捨てたはずの携帯電話の通信量と変わらなくなる。
読後は何とも言えぬ不思議な感慨に陥る。
丁寧にビニールカバーに包まれ、製本されたこの本は何なんだと。
ただ著者のような境界上の人々がいなければ、実は複雑な「シンプルライフ」の実相が見えてこないのも事実だし、複雑だと感じている我々の現代生活のほうが驚くほど単純であることに気づかせてもくれないだろう。
いっしょに共同生活を営む、放浪癖のあるダンサーの彼女は、フラフープの名人で、明るく快活、地元のパブの人気者なのだが、時折ふさぎ込んだ様子を見せるようになる。
心乱され、信念だけではどうにもならぬ歯がゆさも感じてしまった。 -
アンプラグな自然での生活を通じて、産業文明を炙り出す表現が良い気付きになった。
何をもって人間らしいかは分からないし、人間らしいのが良いのかも分からないが、著者が自分をしっかりと感じて暮らしているのがよく分かった。 -
〈本から〉
tHE WAY HOME: Tales from a life without technology
以前、ぼくは、太陽の位置で時間を正確に当てられるのを自慢していたのに、今となってはその特技がうっとおしてたまらない。一生のうちに1日だけでいいから、物事をありのままに見てみたい。そんな、いわくいい難い衝動に駆られるのだ。
スギナにはケイ素(シリカ)が豊富に含まれており、鍋磨きにはうってつけなのだ。ケイ素は人間の体にも必要で、頭髪・皮膚・爪・歯に重要だから、細かく刻んで讃良に入れたりもする。
オオバコは天然の抗ヒスタミン剤
いつなんどきでも、人工知能より自然の叡智を選びたい。
アルド・レオポルド
「斧を手にして」
根に土のかたまりがついてない苗木を植える場合は、「スリットプランティング」と呼ばれる手法を使う。地面に突き刺したシャベルを前方に押して切れ目を作ったら、その開口部に苗木を入れてから、土寄せして安定させる。 -
すごいな,とは思った.
素敵だな,とも思った.
限りなく環境に溶け込んで生きていく中で考察される様々に共感も感じた.
しかし…残念ながらまだ僕には全く別世界の話から脱することはなかった.
テクノロジーに空恐ろしさ,薄気味悪さは感じながらも,原始生活に近い所へ戻ることは,今のところ苦痛と恐怖でしかない.
同じことはできなくても,今の暮らしを見直すきっかけの一つくらいにはなるかな? -
文明の利器から離れ、テクノロジーを削ぎ落とした生活でしか見えないものがあるのだろう。本当の贅沢や心豊かな生活も。蜜蝋で作った蝋燭、りんごを手で搾って作るシードル、湖で釣ったニジマス、一年ぶりに入る熱い湯をはったバスタブ…。羨ましくはあるが、私は煩悩にまみれた俗世間で自分が今置かれている環境の中でその恩恵に預かれることをありがたく享受しよう。
著者のマークが恋人のカースティから別れを告げられる手紙を受け取った場面が本当に切なかった。マークの気持ちもわかるし、カースティの気持ちもわかる(ような気がする)。後の文章の中に「どんなに手ごたえの大きい暮らしも、愛がなければ、時に物足りなさを感じてしまう。愛こそが、周囲のあらゆるものや人のなかの美に、日々気づかせてくれるのだ。」とあり、これにも深く頷いた。
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シンプルライフとは何か。
田舎に引っ越して就農する。
都会から離れた暮らしを”シンプルライフ”とひとくくりにできるのか。
その暮らしはシンプルか?
お金を使わずに生きる実験をした作者は10年後、電気プラグを抜いた生活を始めた。
電気はなく、上下水道もなく、移動手段も徒歩ばかり。
その中から見つけたものは、人間が生きる手段からあまりにも現代社会がかけ離れているということ。
食べ物を得るには季節ごとに違った仕事がある。
薪を集め、魚を釣り、時には交通事故死した鹿を解体する。
それは世捨て人ではなく、むしろ人と人とのつながりが強くなくては生きていけない。
テクノロジーがなくても、コミュニティで生きていく。
むしろ都会の生活のほうがシンプルライフではないか。
決まった時間に起きて会社へ行き、定められた時間を働き、家に帰って寝る。
ただその繰り返しはシンプルだが、それはライフなのか。