- Amazon.co.jp ・本 (350ページ)
- / ISBN・EAN: 9784326152797
感想・レビュー・書評
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著者の第一論文集。第二論文集の『無根拠からの出発』と同時に刊行された。本書に収められた10篇の論文を通じて、現象学と分析哲学を架橋することがめざされている。
著者は本書の前半で、ストローソンの「人格」概念を紹介している。私たちは、他者の物理的行動を観察して、そこから彼の意識を推論しているのではなく、彼の「人格的振舞い」を見ることで、「彼は怒っている」ということを端的に理解している。ストローソンの「人格」概念はこうした理解の場面に位置づくものだ。彼が顔をこわばらせて私を睨みつけているとき、そうした彼の振舞いは、ウィトゲンシュタインの用語でいえば「彼は怒っている」というための「規準」なのであって、そうした彼の行動の背後に存在するはずの、私には接近できない意識状態の「兆候」なのではない。
著者はこうしたストローソンの議論を踏まえながら、他者の発現した命題を、彼の意識の特権的な規準とするのではなく、身体的振舞いとともに公共的な振舞いの一つとして考えるべきだとしている。これは、人格を単なる述語帰属の対象と見るのではなく、「語る主体」として、すなわち、自己および他者に述語帰属をおこなう主体として捉えなおすことを意味している。
こうして著者の議論は、メルロ=ポンティの間身体性や後期ウィトゲンシュタインの言語ゲームの問題圏に接続されることになる。私たちは言語行為的実践の〈場〉に生まれ、公共的な言語行為の〈場〉に参与している。それは、私たちが〈場〉の中で他者に対して語りかけることで、みずからの主張の妥当性要求をおこなうと同時に、みずからを他者の評価のまなざしの下に位置づけているということを意味している。
その上で著者は、言語行為を含む社会的実践の〈場〉は、超越論的性格と自然誌的性格をあわせ持つと指摘し、そこでは、アーペルやハーバーマスの提唱する超越論的語用論において考えられている「論弁的合理性」ではなく、「生活世界的合理性」が機能していると述べる。この「生活世界的合理性」は、歴史的に形成されたものが超越論的性格を有していることを意味しており、著者はこれを、クリプキによる固有名についての因果説の議論になぞらえて説明しようと試みている。詳細をみるコメント0件をすべて表示