自分であるとはどんなことか: 完・自己組織システムの倫理学

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  • Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326153282

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  • 比較的独立性の高い論考が8章に分けて収められている。社会システムを通しての他者との呼応が成立する以前に、「本当の私」と呼ばれるようなものがあるはずだ、という考えのどこが間違っているのかを考察することが、本書の最重要テーマとなっている。こうした観点からなされる本書の永井均批判は説得的だが、著者自身の社会システム論における「私」の社会的構成に関する議論は、おおまかな見取り図の提示にとどまっている。

    クリプキが指摘したように、どんな行動の仕方であっても規則にかなっているように解釈することができる。だが著者は、ここで問題になっているのは、「解釈するのとは違う仕方で、規則にしたがう」ことなのだと言う。私たちは、相手の動きの規則性を帰納的に解釈することによって、相手がどのような行為をおこなっているのかを解釈してはいない。私たちは、いちいち意識しているわけではないが、自分の振舞いがどのような行為として受け取られるかを予期しており、しかも相手もまた、私の抱いているそうした予期を察知して、それに応じようと思っていることをも予期している。むろんこうした予期が裏切られることもあるが、その場合でも私たちは、行為を主題化する行為(つまりメタ行為)を、それ自体新たな一階の行為として遂行することができる。著者は、自己と他者との間で成り立っている、こうした予期の共軛的関係を基礎に置いて、議論を進めてゆく。

    著者は、自己と他者との間のこうした共軛的関係によって、はじめて「私」が成立すると主張する。著者はまず、現象論的な立場や現象学の身体論の立場が抱える問題を指摘する。すなわち、現象論の立場では、「外界の現れ方の変化が、世界の側の変化によるのか・身体の移動のせいなのか、を区別できない」。またキネステーゼを基礎に置く現象学的身体論の立場では、「世界はつねにココへと現れ、そのココもまた、世界の中で一つの位置を占める」ということが理解できない。つまり前者の立場では、「あそこに木がある」ということと「あそこに木が見えている」ということの区別がなく、後者の立場では、「ここから木が見える」ということと「私が木を見ている」ということの区別がない。その上で著者は、「ソコなるあなた-にとっての-ソコなるあなた」としてココなる「私」が成立するという、著者自身の社会システム論の立場において、これらの問題が解決されると主張するとともに、そうした他者との共軛的関係以前に、あるいは社会システムの外部に、「ほんとうの私」があるはずだ、という考え方が成り立たないことを示そうとしている。

  • 最初の方、めっちゃふんふん!て思った!
    …あとはやっぱ哲学書。ワカリマセンでした…(;;)

    メモあり

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著者プロフィール

1946年 埼玉県浦和市生まれ
[現職]専修大学文学部教授
[著書]『権力とはどんな力か』勁草書房,1991。『自分であるとはどんなことか』勁草書房,1997。『所有という神話―市場経済の倫理学』岩波書店,2004。『責任って何?』講談社,2005。『善と悪』岩波書店,2006。他多数

「2008年 『職業と仕事…働くって何?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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