これが東大の授業ですか。

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  • Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784327410636

感想・レビュー・書評

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  • 佐藤先生は日米のポップカルチャー、特に、音楽文化を中心としたユニークな研究で知られる方です。一方で、1993年から始まった東大の英語の授業改革を率いたことでも有名で、本書は、この改革の12年間の歴史を、当事者の視点で振り返ったものです。

    東大の英語授業の改革。それは、1年生と2年生の授業を対象に、統一教材による一斉方式の授業を導入するというものでした。教材づくりの中心を担ったのは、翻訳家として有名な柴田元幸先生と佐藤先生。この二人が中心になって、学生の知的好奇心を掻き立てる、平易だけど濃い内容の読み物を選び、読み物に関連した映像を使ったリスニング用ビデオを自主制作した上で、授業後のケアも含め、1学年3,600人の学生を相手に授業を回す仕組みをつくりあげていったのです。

    この改革は、日本の英語教育に対する一つの挑戦でした。同時に、大学における教育制度そのものに対する挑戦でもありました。当然、学内からの抵抗・反発はあったし、大学という官僚組織の仕組みに無知な学者先生による無茶と無理に満ちた改革は、大混乱を引き起こします。しかし、柴田先生と佐藤先生が中心になったチームは、「愛と馬力とひたむきさ」でこの混乱を引き受け、それまでの大学では起こり得なかったであろう奇蹟的な恊働成果を生み出すのです。

    ただし、全ての革命がそうであるように、栄光の日々は長くは続きません。中心メンバーが教材づくりにのめり込むほどに周囲とは距離ができていき、属人的で超人的な努力に頼った仕組みは、限界を露呈します。年月を経るごとに当初の思惑とはずれていき、形は残ったけれど、熱気は薄れていった。それが英語の授業改革の辿った道でした。最初に柴田先生が抜け、佐藤先生も抜けたところで、授業の内容も運営スタイルも決定的に変質したようです。

    その過程を綴った本書は、いわば栄光と挫折に満ちた革命の記録です。少数精鋭のチームで教材を作りあげるモノづくりの喜びとグルーブ感に満ちた序盤から、運動の限界が露呈し、希望が失望へと転落していく中盤へ、そして、再び教育へと向かう自分を取り戻し、今後の教育の可能性を論じる終盤へと、佐藤先生の内面の変化に合わせて、本書のトーンも目まぐるしく変わっていきます。

    この「革命の記録」は多くのことを教えてくれます。何かを変えるには「混乱をかぶって必死になる」誰かが必要なこと。モノづくりの作業にはバラバラだった個人を結びつける効果があること。教育を成立させるには学生と教師、学生同士、教師同士の関係構築=「愛の文法」のデザインが必要なこと。何を教えるかと共に、教師の生き様そのものがが問われるのが教育という営みであること。

    これらは、教育機関のみならず、企業経営の現場においても、家庭の毎日においても通用することばかりではないでしょうか。誰もが逃れることのできない教育という大問題に対して大きな気付きを与えてくれる一冊です。是非、読んでみて下さい。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    むずかしい教材なら簡単にできる。やさしくて意味のないものも簡単にできる。しかし、平易で内容の濃い教材は、よほど気合を入れないとつくれない。

    「議論する」から「ものを作る」への移行が、必然的に、「委員会のようなもの」を「バンドのようなもの」へ変えつつあった。ちょっと不埒な喩えを使うと、レノン=マッカートニーがバンバン曲を書き、ジョージとリンゴは、1曲2曲は提供しても、基本的にはバックを支えるという全体性が――バンドにつきものの仲間割れなども含みつつ――起動しつつあった。

    今にして思えば、大学という職場に珍しいことが起こったのである。リーダーが出現し、明確な理念が立ち上がり、その価値を押し立てることが仕事の目的になっていった。

    一人では山をのぼり切れない登山者は、手を引いたり背中を押したりすることが必要なのであって、「山というものは、かくかくしかじか」と講義をたれても仕方がないのだ。

    結果を出そうとして動いてみるとよくわかる。東大駒場は――いやこの際「日本の大学は」と言ってしまおう――こと教育に関して、その質や効果を高めるための十分に組織的かつ結果志向的な活動を、何十年もの間、ほぼ完全に放棄していた。入試で選抜した学生のそれぞれにきちんと単位認定をする――まあ、それだけでも大仕事ではあるけれども――そういう事務的なことさえ滞りなく行なわれていれば、力が伸びたのなんだのと、それ以上面倒な話にはしないのが良識というもんだよ…みたいな智慧というか愚鈍というか、ともかく不活性のなかで安定するような制度と意識がはびこっていた。

    ①分担主義:物事は順番に、平等に
    ②極小主義:負担はふやさず。
    ③聖域主義:ひとさまの授業に口出しするなんて…
    ④形式主義:格好がつけば、やったのと同じである。

    「わたしは、ここまではやりたい」と誰かが決意しても、「あなたがなさるのはかまいませんが、次の方の番のときに、サービスが低下したと学生に見られるのはよろしくないのではないでしょうか」。こうしてローテーションは、Low-tationとなる。

    教師たちの高い能力が、日常の授業へ注がれるシステムをつくるには、大学内にどんな条件を整備していけばいいのか。そこを問いたい。わたしたち自身の心のなかにどんな思考回路を活性化していったら、これまでとは別の展開が生まれうるのか。そこからきちんと考えていきたい。
    これは計り知れないほどの損益がからむ問題である。東大だけではない。全国から何万という優秀な青年男女が「一流」と呼ばれる大学に目を輝かせて入ってくるのに、その彼らにターゲットを合わせた学力の鍛錬が、現在の日本ではまったく組織されていないも同然なのだ。

    後知恵で言うわけだが、「混乱をかぶって必死になる」ことが結果につながる。教育という営みには、どうもそういう性質がある。

    それまで”紳士的”な相互不干渉のしきたりのなかで「隣は何をする人ぞ」状態だった教師各自の方法・手法が、理想のクラスづくりという大きな議論の枠のなかでぶつかり合い、実際の作業にとりかかるなかで鍛えられていった。
    8人のチームから生み出された教師間の新しい関係性。それは、想像もしていなかった忙しさをみんなで通過していくなかで軋轢を生みながらも強められ、さらに、精確さを美学とする嘱託事務員を組み込むことで、持続する生命力を獲得した。その新しい関係性に名前を与えよと言われたら、わたしは臆せず「愛」と答える。
    なにも精神論をぶとうってわけじゃない。実用的なレベルで、企画を崩壊から救うための、一番手軽で有効な手だてが「学生を愛する心」だったということだ。あまりに大きなタスクの圧力で、利己心が音を上げた、と言ってもよい。

    歴史とは変化の累積ですが、変化は痛みを伴います。痛みを通して人は学び、人が学ばないところに歴史の歩みはありません。しかし本音をいえば、人間は変わりたくない。それまでの社会で培ってきた自己尊厳とそれを護り合う関係の形式が崩されることに、人は最大限の抵抗をするものです。

    わたしたちが論じているのは学校教育なのです。恐れやあこがれ、生理的嫌悪、そういったものをみんなが抱えたなかで日々営まれている、教師と学生、学生同士、教師同士が複雑に絡み合うコミュニケーションなのです。

    問題は、どのようにつながるのか。教室での直接のコミュニケ―ションと、ネット空間での補講、いろんなサイトでいつでも出会えるナマの英語、それらをどうリンクしていくのか。それは「愛の文法」をデザインすることにほかなりません。

    わたしたちは、彼らの関心を掘り起こすどのような授業を提供しているか。この問題は、人文学者として、いかに現代を生きているのかという問題と別ではない。生きざまの問題なのだから、みんなで共通の答えを出すことは結局のところできない。

    学力の崩壊を嘆く前に、たまには相手の土俵で知的交流をやる必要があるんです。今の学生は、好戦的な観念をぶつけ合う文芸の知は苦手でも、自分自身の快感からスタートする<音楽の知>はぐっと充実してきているんです。

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    ●[2]編集後記

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    昨年から大学や大学院で教える機会が増えました。特別講義のような形なので、きちんとしたコミットができているわけではないですが、それでも若い学生達と向き合う機会はとても刺激的です。

    昔から言われていたことですが、日本の大学の教室というのは、バンバン質問や発言が飛び交うような双方向的なものではなくて、どうしても教師からの一方的な授業の形式になってしまうところが多いようです。そんなにいくつも経験しているわけではないですが、今でもその雰囲気は変わらないな、というのが大学の授業に関わってみて思うことです。

    慣れた先生達からは「質問が出るだけでも奇蹟ですよ」と言われるし、実際に、「何か質問ありますか?」と聞いても、手を挙げるのは留学生ばかり。そういう雰囲気を見ていると、こんなに覇気がなくて日本の若者は大丈夫だろうか?と正直思ってしまいます。

    でも、「今の学生はこんなもの」と思ってしまっていいのか、というと、やっぱりそうではないと思うのです。学生達だってできれば授業に参加したいはず。でも、参加できない、或いは、したくなくなるような雰囲気を、多分、教師の側が作ってしまっている。

    何を教えるか、の前に、どう学生達と関係を結ぶか、が問われているということだと思います。そのためには学生側の土俵に立って知的交流をする覚悟とデザインが必要です。慣れない先生業をやってみて反省させられ、気付かされたのはそのことでした。

  •  大学の授業の舞台裏をのぞくような感じで、実に面白かった。しかも、東大の授業ということでたいへん興味をそそられた。大学という組織に巣くう病理のようなものも伝わってきた。やや奇をてらった題名だが、読み物としても楽しめたし、最後の文学論をはじめ、大学教育について深く考えさせられる内容であった。

  • 「英Iだりぃー」と思ってる東大生は是非読んでみるといい1冊。

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著者プロフィール

東京大学卒業、東京大学大学院修了
東京大学教授
日本アメリカ文学会、日本アメリカ学会所属
日米友好基金賞受賞『ラバーソウルの弾みかた』
主な著書
『ラバーソウルの弾みかた』(ちくま学芸文庫)
『佐藤くんと柴田くん』(白水社)
『J−POP進化論』(平凡社新書)

「1993年 『マルコムXワールド』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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