- Amazon.co.jp ・本 (183ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334032166
感想・レビュー・書評
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_僕は「食を考えるに当たって、「欲望」だの「本能」といった、それ以上の分析を可能性を排除した乱暴な概念を避けてきました。(p19)
本書は食に潜む諸問題を精神科医という職業に根ざした臨床談に加えて、風土や民俗、そして大部分を「絵本」の「物語」から読み解く一見ユニークな切り口をとっている。そこが慧眼でもあり、一方で論の脆弱性を孕みながらも、なんとなく本棚から外せない理由になっている。
序章。『赤ずきん』『ぐりとぐら』『三びきのこぶた』『わたしのおふねマギーB』などの子どもたちの興味をくすぐり目を輝かせる絵本には往々にして食の風景がその中心に描かれる。その意味、必然性、効果を子ども「だまし」と片付けずに、推理小説の探偵よろしく丹念に検証していく。
食することとはつまり生命の営みであることは等しく疑いようのない共有であるが、「食べさせる役」「食べさせられる役」を物語の中に配置することによって「死と再生」「善と悪」などの対立関係の端緒が掴めるということである。
第二章。柳田國男の民俗学をはじめとして、霊長類学、宗教学を引き合いに文化の中に息づく食事のありよう(「食べる」「食ふ」「いただく」が使い分けられる状況、神・人間間の機能、コミュニティ内での機能など)を紐解く。物語側の見地にも『おおかみと七ひきのこやぎ』『うらしまたろう』『100まんびきのねこ』とレパートリーに彩りが加えられていく。「共食」から「個食」への変遷における両者のせめぎあいは、現代の法制統治の重要事項である私と公の権力関係(公共の福祉)をなぞるようでもある。ただ、この辺りで唐突に連呼される「愛」や語り口調の奔放さ、特に注釈のない漢字の恣意的に感じられる使い分けや癖(ひとごととは言えないが…)が次第に目立ち、ぼんやりとばらけた印象になってくる。
第三章および終章。既に見てきた物語論を補助線として、いわゆる精神科の関与する食のニ大症例「拒食症」と「過食症」のクリアカットを自身の臨床経験から試みている。
(…)患者自身の食事ときたらクッキー三枚と牛乳一杯だの、リンゴを半分といったものなのに、彼女たちは、せっせと料理に励み、バターや砂糖をふんだんに使ったケーキを焼いては、病院に運んできて、医者相手にその材料や作り方の講釈を長々とし、その上で、自分の目のまえで食べるようにとさかんにすすめるのです。(p108)
上記の過食症の症例に対し著者は『食わず女房』という古典を引きながら「食の攻撃性」の発露と捉え、「食べ物攻撃はお断りです」と対応することで乗り切ったと語っている。これが実際効果的で、当該患者達も以後落ち着いていったとのことであるが、新書という枠によるものかいくぶん論拠に乏しく、それならばこちらも直感的に述べさせて頂くなら「食の攻撃性」ではなく「共食願望」(共食い、ではない)なのではと異を挟みたくなる論調であった。また、90年代に入り拒食や過食が「多重人格」ブームを経て「うつ病」に変化したのは、習慣化した個食が人々のセルフイメージをも二つに分離させてしまったからで(食べる身体の自分と俯瞰する本当の自分)、その潮流が現在まで続いているのは時代の要請のように結論付けているが、確かに一時流行った「自分探し」だの「自己同一性(アイデンティティ)」に戸惑い模索するような気風は影を潜め、「本音と建前」のように、諦観の中にも自由な選択という可能性を読み取ることも可能であろう。しかし、実際その中で我々は充分に幸せなのだろうか。本書刊行が2003年とおよそ10年前なので個々人の選択如何で社会秩序も安定する、それで足りるという着地も致し方ないと言えなくもないが、例えば社会学者の宮台真司は『制服少女たちの選択』などで援助交際する女子高生たちに軽やかで自由な生き様を見出すも、時代とともに病み、精神科へ流れていく彼女たちを認めその言説の限界性を省みている。
「絆」「コミュニティ」「孤独死」…現代、人々の繋がりを意識させる言葉には事欠かない。一日の中でソーシャルメディアにログインしない者がどれだけいるだろうか。宗教の問題も半端に棚上げされ、世界規模では悪化の一途を辿ってさえいる。いま私達に残された試みがあるとすれば、ケーキを秘密の戸棚に隠すことでも、正確に等分することでもなく、その味につい
て語り合うことではないか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ヒューマニズムにみちた眼差しが大好きな大平健先生の著作。「食」を中心テーマに据え、絵本に見られる「食べる/食べられる」関係を考察することで、摂食障害の時代の変遷やうつ病について考えていく。
個人的には、他の著作に比べると物足りなかった。少し筆が滑りすぎているというか…。特に食=性について踏み込まないのは片手落ち。現在も、食にまつわる言葉は性にも援用されているのだが…。
食べ物を贈る=愛を贈る、愛する前に愛するにふさわしいものなど選べないとの指摘には普遍性がある。 -
人の身体は食べたものでできている。
何を食べたか、どう食べたかで、心も変わる。
前半は絵本の根本的な理りは「食」に由来していることを説いています。
「食う」「食われる」は攻撃性、「食べる」「食べさせる」は共同性、という関係に納得しました。そして「食う」存在は「食べさせる」存在を攻撃できない、というくだりに驚きました。
後半は、精神病の流行り廃りは「食」を前提とした「身体の自分(実体)」と「本当の自分(思念)」との葛藤に由来していると。
『豊かさの精神病理』のほうがおもしろく感じたのですが、「そうか!」と思った部分はたくさんありました。 -
37915
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フロイトが「性」を基に精神を解釈した如く、「食」から人間の精神を解いてみる試み....と思って読みはじめたけど、ちょっと期待はずれ。期待自体が間違っていたようで、子ども向け絵本を素材にした、食と精神の関係性考察は示唆に富むかも。後半はやや哲学めいた感もあり、読みながら「ソフィーの世界」が頭をよぎった。
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途中で読むのを断念した。
導入は面白く興味を惹かれたものの、実際の中身はうーんと言わざるを得ないものだった。 -
絵本や童話のお話から、食にまつわる蘊蓄を述べていて、著者の精神病理シリーズ(『やさしさの精神病理』『豊かさの精神病理』等)の中では一番面白くありませんでした。
特筆すべきは食に関わる精神病理、つまり過食症や拒食症等には流行り廃りがあることでしょうか。
僕の身近に過食嘔吐の人がいて、もう10年くらいになりますが、やはりその人もピークは過ぎて、随分快方に向かっています(完治はしていません)。
時間の経過が症状を緩和させているのかなぁと思います。満たされない愛情からくる精神疾患(あくまで定説です)は、時間が経つうちに環境が変わり、精神的にある程度安定してきた、のだと思います。
症状回復には個人差があるのは分かりますが、気になるのは爆発的に広がった初期段階。全国的に一斉に広がったことは偶然だと片付けるには無理があり、社会的な構造の歪みがもたらした病気だという気がしてなりません。言わば『ロストラブジェネレーション(愛情喪失世代)』でしょうか。これは自殺統計から調べてみると、何かが見えてきそうで興味深いです。
心と体の分離状態については池谷裕二や甲野善紀が示唆的です。著者とは違ったアプローチで心と体(著者的に言えば『本当の自分』と『体の自分』)を解説しているます。総じて、最近は心にばかり目を向けがちで、体をなおざりにしている、と。もっと体を見つめた方が良いのかも知れません。
日常に刺激を与えるという考え方は良いですね。ルーティンワークが過ぎると無意味なものになってしまいますから。
そこで開眼的アプローチですが、『自分は運が良い』と暗示をかけることで、日常の彩りが良くなります。ポジティブシンキングは暗示から(笑)
本書の構成は食にまつわる絵本や童話のお話が殆どなので、個人的にはあまり面白くありませんでした。が、拒食症や過食症の歴史的変遷が面白く、そのことをもう少し深く知りたかったです。僕の評価はAにします。 -
可もなく不可もなし。
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おもしろかった
食という
とても日常的なことから
精神分析、人間関係へと話はひろがってゆく!
全部で4章あるこの本の半分は第1章で
絵本の中の「食」
というタイトルでとてもココロに残るものだった
料理は一種の錬金術であるということ
ヘンゼルとグレーテルと
3匹のこぶたは
ネグレクトという状況は同じであるのに
まったく心境や背景が違っていることに気づかされる!
そして著者がいう
昔話では一般に
名前で区別されていない主人公は何人いてもひとり
の原則!これは目からウロコ。。。
3匹のぶた
のように名前分けされていなければ
違えど同じ
つまり1人はワラで1人は小枝で1人はレンガで
ではなく
ワラでやってみたらダメ、小枝もダメ、ならばレンガ
という試行錯誤の結果だということなのです
狼と7匹のこやぎについても
6回負けても最後に勝てればOK
と同じことなのである
そしてそれを子供という生き物は勝手に理解しているということ!
こどもってすげー!
そんなことも感じさせる一冊でした
おもしろかった