- Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334751296
作品紹介・あらすじ
世間から軽蔑され虫けらのように扱われた男は、自分を笑った世界を笑い返すため、自意識という「地下室」に潜る。世の中を怒り、憎み、攻撃し、そして後悔の念からもがき苦しむ、中年の元小官吏のモノローグ。終わりのない絶望と戦う人間の姿が、ここにある。
感想・レビュー・書評
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「俺は病んでいる・・・ねじけた根性の男だ」で始まる非常に暗い小説。小説は2部に分かれ、Ⅰ部の「地下室」はモノローグで主人公のねじれた人生観がくどく語られ、Ⅱ部の「ぼた雪に寄せて」では主人公を「ひどく苦し」めている思い出が語られます。
Ⅰ部は難解で矛盾だらけ(ただ、注意深く読むと論理的一貫性があるのかもしれません)の一見戯言ですが、Ⅱ部で描かれるのは、一転、ほとんどコメディのようなねじれた男の3つの思い出。261ページの中編小説ですが、Ⅱ部に不思議な面白さがあり、一気読みでした。
主人公は40歳の元小役人。遠い親戚から6,000ルーブルの遺産が入ったため、退職して地下室に引き篭もっています。
「自尊心」が非常に高く、19世紀の知性が高度に発達したと自己評価している主人公は、何物にも、虫けらにさえもなりえなかったと考えています。主人公が批判するのは屈託なく率直で実際に行動を起こす「やり手タイプ」。そして、「やり手タイプ」も自然法則には勝てず、合理主義一点張りである点を猛烈に批判し「愚か者」と断定します。
自己については「冷ややかなおぞましい絶望と希望が相半ばした状態や、心痛のあまりやけを起こして我が身を地下室に40年間も生きながら埋葬してしまうことやこうした懸命に創り上げた、それでいてどこか疑わしい己の絶体絶命状態や、内面に流れ込んだまま満たされぬ願望のあらゆる毒素。激しく動揺したかと思うと永遠に揺るぎない決心をし、その一分後には再び後悔の念に苛まれるという、こうした熱病状態の中にこそ、さっき俺が言ったあの奇妙な快楽の核心があるのだ」と難解な分析を行います。
このあたりで挫折しそうになりましたが、訳者の安岡治子さんの解説は良きガイドになりました。特に7章以降に展開される「水晶宮」の理論の意味は解説がなければ読み取れなかったと思います。
16年前の苦痛の思い出を描くII部は、ほとんどコメディで3つのエピソードからなります。
①将校との個人的な心理戦争
②裕福な同窓生たちとの空回りの闘争
③娼婦リーザに挑んだ戦い(?)と敗北
上記のエピソードは主人公のくどいほどの心理描写とともに描かれます。時間をおいてもう一度Ⅰ部を読むと、Ⅰ部の意味がある程度は理解できるような気もします。
以上、難解であると同時に面白い小説。ただ、ドストエフスキーの世界を未経験だと辛いかもしれません。また、大昔に読んだ『人間失格』を思い出し、また読んでみたくなりました。
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肥大する自己意識。ちっぽけであると分かっていると同時に、どこか偉大であると信じている自己の存在意義。結局、極悪にも、善良にもなりきれずに世界を恨む。人間の普遍的な自己意識と世界との関わりの間で揺れ動く悩みは時代や場所が変わっても色褪せずに多くの人々の心に問いかけ、また、慰めてくれている。
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実に、実に久しぶりのドストエフスキーさん。
「罪と罰」「悪霊」「白痴」「貧しき人々」「虐げられた人々」「カラマーゾフの兄弟」。
以上の作品を新潮文庫で読んだのは、中学生か高校生のとき。もう25年くらい前のお話です。
そのときのことを正直に述べると、「良く判らん。でも、時折、恐ろしく面白い。そして、読み終わった時に、面白かった!と思った」。
それからずいぶん時間が経って。19世紀ロシアの事情とか、キリスト教、ロシア正教的なこととか、ロシアの貴族階級、社会制度のこととか。
そういうことが判らないと、ホントに隅から隅まで楽しめる訳がないんだな、と。
なんだけど、そういうのを差し引いても面白いから、翻訳が何十年も売れているんでしょう。もう、100年になりますか。
さて、「地下室の手記」。
本当は、新訳で「罪と罰」とか読み直したいなあ、と思っていたんです。
けれども、同時に、「読んだことない本を読みたいなあ」という思いもあって、妥協点がこの本になりました。
1864年発表だそうです。ちなみに、明治維新が1868年です。たしか。
ドストエフスキーさんが、金持ちの若き息子で、理想に燃えるやや社会主義的な小説家だった時代がありまして。
それで警察につかまって、死刑になって。でも土壇場で恩赦になってシベリアで4年、働いて。
そこから復帰して、再び小説家デビューします。
そんな、再デビュー後、間もない小説です。
この後に、「罪と罰」とか、超ド級の小説を書いていくことになります。
そういう、「後記の、ほんまにすごかったドストエフスキーさんの、精神のエッセンスが詰まっている」と、研究家の人たちから言われるのが、この「地下室の手記」だそうです。
いやあ、凄かった。
主人公は、「40代の、小役人」。
何ていうか、貧民という階層ではないのだけど、ホワイトカラーでインテリ、という層の中では、貧しい。
そして、独身。独り暮らし。
性格は気難しく、孤独。友人はほぼ、いない。体格も貧弱で、ブ男。
でも、インテリで、色んなことを考えている。そして、プライドが高い。でも人前で上手くふるまえない。
恥をかくのが怖い。孤独も怖い。貧乏も怖い。人から見下されるのは嫌だ。
そして、他人に対して、優しくない。常に威張りたがる。
まあつまり、かなりイヤな奴。
ポイントは、イヤな奴なだけではなくて、哀れな男。惨めな勤め人。
そして、この男が、どうやらちょっとした小銭を相続したんですね。
だから、もうとにかく、外の実社会に出るのが嫌になっちゃった。
地下室に籠ります。こもって妄想します。自分を認めない世界を呪詛します。罵倒します。
自分を見下した人々を、自分が見下せる人々を、強い物、勝利者、恵まれた人々を、非難、批判、論難、侮辱します。
そしてそれを延々と書き付けます。
そして返す刀で自己嫌悪します。後悔します。
そしてそれも、延々と書き付けます。
もう、これで判りますね。そうです。これって、永遠不変の人間臭さなんですね。
ま、今で言えば引きこもり。ネット生活ですね。
それって、大なり小なり、誰でも抱いている気持ちですよね。
僕たちはみんな、誰しもが自分の「地下室」を多少なり抱えて生きている訳です。
主人公は、そういう、イヤで惨めな男なんですけど、
同時に、まるで小説家のドストエフスキーさん自身かのように、
一方で非常に知性がある。学がある。高い高い自意識がある。そこで、この小説の味噌としては、その主人公の自意識を、膿をいじってつぶすように、ねちねちと苛めて自己告白させます。
これぁ、すごい迫力です。
で、じゃあ何の話題をしているのか、というと、前半、三分の一くらいまでは、正直哲学的というか、恐らく当時の哲学的命題についての議論が多いです。
19世紀ロシア西欧のそうした意識をはっきり判るのは難しいのですが、
「2×2は、4である」という言葉に代表される、理性というか、科学というか。
そこから敷衍して、人間の合理性、啓蒙性みたいな考え方。
それに対して、ドストエフスキーさんが、いや、違った主人公が。「人間そんなわけぁ、ないでしょう」という主張を繰り広げます。
このあたりについては解説を読むと、やはりドストエフスキーさんとしては、キリスト教(ロシア正教?)というものがやっぱり大事だよね、というパスカル的な話をしたかったそうです。
なんだけど検閲とかで、削られちゃったそう。まあ、その辺はいまひとつピンと来ません。
それはさておいて。後半になると、まず小説の時間が、
「40代の主人公が回想する、昔の話。主人公が30代?20代の頃かな?」という時間になります。
この後半は、割と、物語になっています。
主人公は、貧しく惨めでかっこつけてばかり。
その上、楽しい趣味も喜びもなく。女性にもてないし。妄想はしても単調な日々。結局、恐らくは今の日本で言うところの性風俗に人に隠れて通い詰めています。
で。友人たちとの社交で、しくじって、惨めでみっともない思いをします。
もう、ここのところの心理描写が、エグくて、スゴくて、読ませます。
誰でもありえる、惨めな心の動き。仲間になりたくて、でも面倒で、尊厳は保ちたくて、うまくやりたくて、やれなくて惨めで、孤立して不安で、みたいな…。
そんな主人公が、性風俗の売春宿?の若い娼婦に、なんだかカッコつけて説教たれます。
いや、説教というのではなくて…自らの思想を述べるというか。俺は凄いんだぞ的なことを言う。
その引き合いで、むしゃくしゃした気分で、その娼婦を辱めて貶めるようなことを言う。
なんだけど、その娼婦に恋してもいる。
で、いろいろあってその娼婦が自宅に来る。
で、混乱しちゃって、結局その女性を受け入れることができない。侮辱しちゃうような別れ方をする。
で、そうした直後に大後悔。雪の街に出て探すけど、もう見つからない、という。
いや、これは、凄い小説ですね。
ブンガク史的な、というか、物語歴史的な意味で言うと、もう、これは確実に一里塚、記念碑、金字塔ですね。
太宰治だって誰だって、もう、この心理的な描写に比べたら、真似事だけで弱いのでは?と思ってしまいます。
また、解説に書いてあって面白かったのは、ウディ・アレンが、この作品のパロディを書いている、という。
確かに、これ、ちょっと乾いて諧謔味を増せば、ウディ・アレンなんですよ。
というか、ひょっとしたら、もともとの「地下室の手記」を書いたドストエフスキーの想いとしては、誇張して笑えるでしょ?という思いがあったのかもしれませんね。
ただ、翻訳してブンガクとして謹上されると、諧謔味はなくなりますね。
もっと言えば、ラスト、娼婦のリーザを辱めて、自分の部屋から追い出しちゃう主人公。
でも後悔して、すぐに雪の街に追いかけていく主人公。
ここは読んでいるときから、「ああ、これって”ブロードウェイのダニー・ローズ”の最後の場面に似ているなあ」と思いました。
(映画の方は、それでもって心温まるラストになるんですけどね)
宗教とか、大家族制とか、身分制度とか、農村の閉鎖性とか。
そういうものが、徐々に、都会でもって消費でもって、貨幣経済で情報で新聞で社交で自由で個人で…というものに襲い掛かられていきます。
そうすると、やっぱり個人なんですね。なんだけど、淋しいんですね。なんだけど、プライドを肥大させていくと、こもっちゃうんですね。
そして、どうしてそうなるかというと、賢くなったからなんですね。知性が高くなるからなんですね。理性を持つからなんですね。自意識ですね。
そういうことが、きっと西欧を筆頭に、19世紀くらいから起こる訳です。
そこで先頭切って、ドストエフスキーさんはその救いの無さの濃厚な人間ドラマを書いちゃったんですね。
この本の中で、主人公は「実際の生活」とか「人生」とか、そういうものに憧れています。
つまりは、実際の恋愛。尊厳ある幸せな友情、交際。やりがいのある仕事。興奮するような快活な遊び。レジャー。そんなようなことです。
同時に、自分がもうそういうものは得られないと絶望しています。
そして、そういうモノゴトに、嫌悪と憎悪も持っています。
言葉はともかく、2014年現在の日本で言うところの、「リア充」「非リア充」みたいな考え方。
もう、150年くらい前に、ドストエフスキーさんが、言ってるんですね。
で、だからって、安易な解決も救いも何にもありません。
でも、面白いですね。ドロドロの人間ドラマ。葛藤。
そして、どこかしら、自分の姿をチラっと鏡で見せられたような。そんな、ハッとしちゃう感じ。ドキッとしちゃう感じ。
いやあ、これはタマラないですね。
濃厚ブルーチーズを食べたような。
苦いけど、旨い。
脱帽。パチパチ。
いつも通り、光文社古典新訳文庫。読み易かったです。-
忘れもしない、大学3年のゼミの夏合宿の課題の中の1冊がこの『地下室の手記』でした。
夏合宿自体が、本と酒の日々(朝から晩まで一升瓶を囲んで...忘れもしない、大学3年のゼミの夏合宿の課題の中の1冊がこの『地下室の手記』でした。
夏合宿自体が、本と酒の日々(朝から晩まで一升瓶を囲んで本の内容の討論をする)、なんていうのが初めてだったので、「読んだ」より、「飲んだ」という印象のほうが強く、いまだに同レベルのゼミ友と話をすると、本の内容は覚えていない、というオチになります。
情けない話で申し訳ない。
でも、ドストエフスキーは読み直したい作家です。2014/07/23 -
一度読んでも、ほんとにしばらくするとキレイさっぱり忘れますからねー それがもったいなくて、ブクログを重宝しています。一度読んでも、ほんとにしばらくするとキレイさっぱり忘れますからねー それがもったいなくて、ブクログを重宝しています。2014/07/23
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口語調で語られる盛大な妄想。
大げさではあるが多少歪んだ考えを持つ人物なら考えるであろう納得性があるが、話は様々なところに飛び読みにくい。 -
主人公は、自意識過剰で妄想癖があり、人を征服することが愛だとのたまう、救い用のない駄目人間でサド気質がある。しかし、主人公は自分がダメ人間であることに気づいているのにも関わらず、欠点を修正するどころか、逆に拍車をかけるように、欠点の上から欠点を重ね続けているので、マゾ気質な面も持ちわせている。そんな彼が若かりし頃の独白における行動は、滑稽で笑える。しかし、勿論主人公ほどではないが、過剰な自意識の覗く瞬間が私にも多少なりともあるので、共感した部分があったのも事実だ。
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とても他人事とは思えない、悲惨な物語でした。今この瞬間、一体どれほど多くの地下室の住人が、日本はもちろん世界中に存在するのでしょうか? 推測するに、インターネットの世界で見かける、異常に自己顕示欲が強くて無意味に悪意を振り撒く人々や、突然無関係の他人に襲い掛かるタイプの犯罪者達等は、この地下室の住人にあたるのではないかと思います。プライドだけは高いのに、現実には何事もできず、疎外され、嘲笑を浴び、傷付き果てて、対象のはっきりしない憎しみを抱いており、なんでもいいから復讐をしたい、恨みを晴らしたい、と思っている…。彼らのような人々は、一体どうすれば救われるのでしょう? 確かに、傲慢という点で彼らには罪がありますが、だからと言っていつまでも苦しみ続けなければならないというほどの罪だとは私には思えません。少なくとも、他人を傷付け始めるまでは。けれど、誰かが彼らに近寄り、「私だけは味方だよ」と言ったところで、きっと彼らは信じないし、そもそもそんな誰かはまず現れないでしょう。なにしろ、そういった誰かが現れなかったからこそ、彼らは地下室へ潜ったのですから。本当に悲しいことですが、もしも彼らが地下室から出る方法があるとすれば、それは彼らが自分から地上へ向かう決心をする以外にないのではないでしょうか。そんなことができるなら、誰も地下室になんか入らないでしょうけど…。
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正直、一度読み終えた時点では、つまらなかった。人間のネガティブな部分が全開でとても暗い小説なのですが、誰しもがこんな部分を抱えて生きているのかと思うと、少し気が楽になれた部分もある。
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読んでいるうちに自分がどこを読んでいるのか分からなくなり、
面倒くさくなって「ふざけんな!!」と本を投げ出したくなったけど、
後半の小説部分に入ったら、
そのあまりの自意識過剰ぶりに笑ってしまう。
と同時に、
「いやいやあるよ、こういう感じ」と共感さえしてしまうありさま。
あたし……まさかまさかの地下室の住人か?
なんて恐れたりしたけど、
なんのことはない。みんな、そうですとも。
ただ、これにドップリつかってすがるかって言われると、
そうでもない。
ロシア版「人間失格」と聞いたこともあります。
分かる。気もする。
けど、この本もそうだし、
「人間失格」もそう言ってると思うけれど、
ドストエフスキーと太宰治も分かり合うということはない。
そういうことは、ありえない。
私はそれが良いと思うけど、やっぱし切ないんだろうかね。