悪霊 (別巻) (光文社古典新訳文庫 Aト 1-14)

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  • Amazon.co.jp ・本 (363ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752453

作品紹介・あらすじ

「スタヴローギンの告白」として知られる『悪霊』第2巻「チーホンのもとで」には、3つの異稿が残されている。本書ではそのすべてを訳出した。さらに近年のドストエフスキー研究のいちじるしい進化=深化をふまえ、精密で画期的な解説を加えた。テクストのちがいが示すものは何か。

感想・レビュー・書評

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  • まず、この別巻をきまじめに頭から読んでいくと三度も繰り返し「チーホンのもとで」だけを読み返すことになるので、だいぶくたびれてしまう(苦笑)

    よほどの「悪霊」研究家か、この章がとりわけ好きな人でなければ、相違部分だけに注力して読んでいったほうがいいかもしれない……

    しかし、この巻じたいは「チーホンのもとで」の初稿、ドストエフスキー校正版、アンナ版、三つの版の微妙に違う部分が読め、地の文やセリフの細かな修正も比較できて面白い。

    中でも興味を引いたのはマトリョーシャとスタヴローギンの、少女陵辱を思わせる描写の違い。

    アンナ版と他二版(ドストエフスキー自身の手によるもの)では明らかな違いがあり、初稿では明らかに一線を超えた感があるけれども、ドストエフスキー校ではキス止まりとも取れる表現になり、アンナ版ではまるまるすっ飛ばされている。

    アンナ版ではカットされたマトリョーシャの陵辱部分が「当局の検閲中でその場に存在しない」という"物語上の設定"になっていて、物語の流れが突然すっ飛ばされてしまう不自然さを回避している。

    このアンナ版のトリッキーな試みを高く評価するかどうかというところだと思う。

    ただやはり完成度でいっても、物語としての好みでも初稿のほうがいいというのが私の感想。
    いつ何が起きてもおかしくないほどのスタヴローギンの不安定さ、ぎらつく悪意が垣間見えるし、何よりドストエフスキーが素のまま書いたという信頼がある。

    ドストエフスキー校正版は当局の圧力との闘いで出さざるを得なかった、ある意味で「妥協案」ともいえるし、勢いが弱まっている気がする。

    そしてアンナ版はやはりアンナ夫人による「私(アンナ)が後世に残したかった理想の『悪霊』」という恣意が働いているという疑いが、終始拭い去れなかった。

  • マニアックではあるけど、ドストエフスキーの苦悩の過程はよくわかる。人物の造形を変えて受け入れられやすくする努力はもちろんのこと、とても些細な部分にもそれぞれの版で修正が入っているところに作家の作業、こだわりを感じる。

  • 文学
    古典

  • はっきりいってつまらない。内容が難しいとか登場人物がわかりづらいとか、そういった理解を阻む要素はあるけれども、それを抜きにして考えても単純におもしろくない。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』も、おなじように哲学的で難解な内容や、わかりにくい人物関係を含んでいるが、この2作品を読んだときは難しくもおもしろさを感じて、やっぱりドストエフスキーは凄い、と思ったものである。本作の場合はどうか。いつまで経っても恋愛だの活動だののいざこざが終わらず、そうこうしているうちに火事が起きてバタバタと人が死ぬのである。徹底的に私小説であればまだ楽しめるのだろうが、こういう「内輪」の話がいつまでもダラダラと続いているだけでは読んでもぜんぜんおもしろくない。むろん、わたし自身に読む能力が欠如しているという問題点はあるだろう。ただ、それでも先に挙げた2作は難しいなりにも楽しめたのに、本作にはそれがないので、やはり作品の問題ではないかと思う。世界的文豪の作品をこう称するのは気が引けるが、長いだけであんまり優れているとも思えない、悪い見本のような作品だと思う。

  • はたして『悪霊』とは、なんのことを指すのだろうか。
    ここ数日それに思いを馳せていた。





    何とも不完全燃焼で、しかしただ手放すには惜しい。
    それでしつこくもまた手を出してみた。
    賛否両論の亀山訳。逆にいろいろな意味でおもしろそうなのだが、はてさて。
    とりあえずは少し物語を振り返ってみるために新潮文庫版の裏のあらすじを引用してみる。


    【1861年の農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り、秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。
    聖書に、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いたものである。】
    (江川卓訳 新潮文庫『悪霊』 上巻)


    本書『悪霊』には色々な要素が出てくる。もとよりドストエフスキーの作品には強烈な個性を持ち合わせた登場人物が出てくるのが常だ。
    今回もそれは変わりないのだが、特に目立つのはここに書かれているような革命思想だ。
    その代表的な存在であるピヨートルの一言を引用してみよう。


    【「教育なんていらないし、科学もたくさんだ!科学なんぞなくたって、千年くらいは物質に不足しませんからね、それより服従を組織しなくちゃ。この世界に不足しているのはただ一つ―――服従のみですよ。教育熱なんぞはもう貴族的な欲望です。家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますしね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。つまり、飲酒、中傷、密告を盛んにして、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺してしまう。いっさいを一つの分母で通分する――つまり、完全な平等です。」】
    (江川卓訳 新潮文庫版『悪霊』下巻)


    いやはや、ソ連成立を控えた帝政ロシア時代末期のダイナミズムを存分に感じさせてもらえる一言だな。
    とはいえこれはそれを超えた現在の私だから言える一言で、この時代にこういったキャラクターを作り出すのはすごいことだと思う。まるで現在の社会からみてのその思想の位置づけの特に醜い部分を上手くあぶり出しているようだともいえる。
    ともかく、ピヨートルの革命組織は破壊的で、おまけに内情があまりにもお粗末なのだ。
    この物語は、題材になっているのがネチャ-エフ事件という実際の出来事で、ピヨートルの組織もそれと同じように内ゲバの悲劇を持つ。その犠牲となるのが、スラブ主義を唱えるシャートフ、その事件の濡れ衣を着るのが無神論者のニヒリストであるキリーロフだ。
    正直この三者の言葉だけでも漁っていて飽きないほどにおもしろい。特にキリーロフに関しては個人的には非常に興味深いと感じているのだが、きりがないのでほりさげはやめておく。
    で、ここにピヨートルの実父であり、欧州的自由主義思想の持ち主であるステパン氏が加わると、当時のロシアの混乱状況に生まれた象徴的な思想を授かったキャラクターが勢揃いとなる。
    しかし、この目白押しな登場人物達なのだが、最後にはほとんどがある種の破滅を迎える。ドストエフスキーはそういったものが抱える内情と現実を強烈に暴き、批判しているのだ。
    大筋の流れはそんなものなのだが、その大本の軸を成す者がある。
    ここで、もう一度あらすじの引用を行なおう。


    【 ドストエフスキーは、組織の結束を図るため転向者を殺害した“ネチャーエフ事件”を素材に、組織を背後で動かす悪魔的超人スタヴローギンを創造した。悪徳と虚無の中にしか生きられずついには自ら命を絶つスタヴローギンは、世界文学が生んだ最も深刻な人間像であり“ロシア的”なものの悲劇性を結晶させた本書は、ドストエフスキーの思想的文学的探求の頂点に位置する大作である。】
    (江川卓訳 『悪霊』新潮文庫 下巻)


    いや、すっかり内容の話じゃなくなっている。おまけに。背景を教えてくれるのはいいが、オチをドストレートに書かかれちゃったのには驚いた。正直私は買った直後うかつにもこれに目を通してしまい。結末を知ってしまった。
    いや、これだけはもの申したい。スタヴローギンの自殺の下りは抜こうよ。ホントに、新潮さん。
    まぁそれはさておき、物語の出だしはステパン氏が物語の主人公かとすら思えるが、彼ではない。いや多くの人がこの物語を賞賛する理由はこのスタヴローギンなのだ。
    新潮版の下巻の感想ではくささしってもらったが、その要となる“スタヴローギンの告白”の章についての掘り下げを本書では行なっている。
    この章の題材はスタヴローギンの罪の告白なのだが、少女を汚し、死に追いやるというセンセーショナルな内容が故に物語の中で成立することが非常に困難で、この物語自体の成立にすら危機を及ぼした。
    本書ではそれにまつわる経緯や代表的な三つの原稿(初稿版、ドストエフスキー校正版、アンナ(ドストエフスキー夫人)版)を翻訳した内容が記されている。
    物語を深めて吟味したいという人間には非常におもしろい内容だった。
    特に興味深いのはアンナ版だろう。これは、原稿の自体が下手をすればアンナ以外の人物からの手入れがあるやもしれないという疑惑を抱えたものなのだが、アンナ版は表現が直接的なので内容がかなり分かりやすい。
    わかりやすい引用を一つ行なおう。


    【この文書は、思うに、病のしわざ、この人物に取りついた悪魔のしわざである。はげしいいたみに苦しんでいる人間がベッドのうえでのたうちまわり、ほんの一瞬でも楽になれる姿勢を見いだそうと願う姿に似ている。楽になれないまでも、せめて一分はそれまでの苦しみを別の苦しみに置きかえたい。そこではもう、その姿勢の美しさとか合理性といったことは、むろん関係なくなる。この文書の基本的な思想――それは、罰を受け入れたいという、恐ろしいまでの、偽らざる欲求、十字架の欲求、前民衆の前で罰を受けたいという欲求である。ところが、この十字架の欲求がなんと、十字架を信じない人間のうちに生じたのだった。(以下略)】
    (第2部第9章 アンナ版)


    この文書は、要となるスタヴローギンが公表しようとしている告白文書の直前に挿入される。ちなみに他の稿にはこの部分にあたる文章は全くない。
    内容を見ていただいたらわかるが、なんとまぁわかりやすい解説的文書。あまりにも直接的に内容の暗示を行っているので多少退屈には成るが、読み解く上の鍵を十二分にくれる。
    告白の内容は、スタヴローギンが悪徳の一貫としてとある少女:マトリューシャを汚し、死に追いやると言うもので、それ自体は彼の悪意に満ちた人生の中ではそう驚くべき出来事ではない。


    【『(前略)そのとき、お茶の席につき、彼らとおしゃべりをしながら、生まれて初めて自分について厳しき定義づけることができた。つまり、自分は悪と善の違いがわからないし、感じてもいない。感覚を失ってしまっただけではなく、悪も善も存在しない(そのことも私には心地よかった)、あるのは迷信だけで、私はどんな迷信からも自由になれるが、もしもその自由が得られたなら、わたしは破滅する。(以下略)】
    (第2部第9章 アンナ版)


    この通りに少女の死後、彼自体も上記の引用の考えしか抱いていない。それはいつも通りに、だ。しかし、それが時間の経過、そしてある夢の後に彼に重くのしかかりはじめる。それも、”悪霊”としてだ。
    しかし善悪を判断する感覚に慣れない彼はそれを、お得意のニヒリズムのもとに隠し通してしまおうとするが、ごまかそうとすればするほど重みは増し、それに苦しむ。それ故に彼は評判高い元大司教のチホンの元にやってくる。
    だが、それはキリスト教的な告悔により許されることを望むためではなく、自分の犯した罪の内容を記した文書をばらまき周囲に知られることによって告白したいという望みを告げるためにだ。
    それによって周囲から侮蔑される痛みをいとわずに、分かりやすい罰がおりればいいとすら彼は考えているのだ。何よりも一人でその重荷を背負い、悪霊に悩まされることに彼は耐えられないでいるのだ。
    しかし、スタヴローギンのそうしたマゾヒズム的に罰を望む姿に対してチホンはこう言い放つ。


    【「法的に、あなたはほとんど無傷といっていい、でも何よりもまず人からそこのところを突かれ、あざ笑われる。誤解も生まれるでしょうね。告白の真意などだれが理解します?
    そう、わざと理解したがらないかもしれませんよ。何しろ、そういう偉業というのはひとから怖れられ、不安をもって迎えられるからです。その偉業を理由に、人々はあなたを憎み、復讐もする。なぜなら、俗世界が愛するのは自分の汚れですし、その汚れが乱されるのを好まないからです。そのために、いち早く偉業を滑稽なものに変えてしまおうとするのです。滑稽さなら、まず第一に、彼らの持っているものすべて滅ぼせるからです」』
    (第2部第9章 アンナ版)


    チホンは彼の望むとおりの罰は与えられないだろうと言い放つ。
    このチホン、カラ兄で言うならばゾシマ的なポジションにいる人間なのだが、聖職者の割にはリアリストな面も持つ。
    ここで出てくる主要な4人のキャラクターに象徴される思想とはまた別途の、一般民衆を巣くうひとつの姿を浮き彫りにしてくれる。それは無関心とも、無感動ともとれる思想の欠如である。
    スタヴローギンの告白は、彼の求めているような方法で人々には受け取られない。彼らはその告白によって己をも顧みなくてはならないという現実を感じとり、逆に目を背けるだろう。そして、彼らはスタヴローギンの罪を滑稽なおもちゃにとすり替えるため、告白された内容の表面をなぞるだけで、彼をただ嘲笑する。愚かな告白者だと、当然にそれにはスタヴローギンが、求めるような許しも理解も伴わない。
    そのチホンの指摘にスタヴローギンはわずかな希望すらも失い、さらに絶望を深め、ニヒリズムの仮面を完全に被ってしまう。チホンは完全にスタヴローギンを理解するが、信仰の道を諭すのみで、スタヴローギンがそれに救われる訳がないのだ。
    まあこの二人の問答のおもしろさだ。
    いやあっぱれ。
    さて、告白の章をこう読み解いてみて、改めて物語の全体を眺めてみたい。
    要となる聖書の引用を行おう。




    【そこなる山べに、おびただしき豚の群れ、飼われありしかば、悪霊ども、その豚に入ることを許せと願えり。イエス許したもう。悪霊ども、人より出でて豚に入りたれば、その群れ、崖より湖に駆けくだりて溺る。牧者ども、起こりしことを見るや、逃げ行きて町にも村にも告げたり。人びと、起こりしことを見んとて、出でてイエスのもとに来たり、悪霊の離れし人の、衣服をつけ、心もたしかにて、イエスの足もとに坐しおるを見て懼れあえり。悪霊に憑かれたる人の癒えしさまを見し者、これを彼らに告げたり。】
    (ルカによる福音書 第8章32節-36節)



    ユダヤ人にとって豚とは不浄の存在だ。それを所有しているものたちとはユダヤの民以外の者であり、彼らにとってはそれは富の象徴であった。
    悪霊はその富の中に身を宿し、進んで死んでみせる。それを目の当たりにした町のものにどんな感情を呼び起こすことだろう。
    悪魔を宿したものは救われるが彼らの富はそれとひきかえに奪われたのだ。
    これは悪魔の行う、最後の仕返しとも言える。
    癒された人は悪霊からは解放されたが、しかしどうだ。イエスが悪魔に豚に入ることを許したのは”人の救いは、例え財産を失っても何にもかえがたいものである“と言う教えを含む。神と富とに仕える事は出来ないのだ。この説は言い換えれば裕福さや財産の所有が、人の命よりも価値があるという教えなのだ。まるで現代劇ではよく聞くはなしだが、イエスの時代からそう言った誘惑は人々を捉えていたのだ。


    ”どんなに小さな者であっても、どんな富よりも価値は高くそれは尊い。”

    しかし、この教えはユダヤ以外の民=異教徒達には理解されない。
    悪霊が祓われたものが、正気に戻っても、町の人たちは彼らが救われた事に対して無関心だ。むしろ悪魔の力を持たず危害を与えなくなった彼らは豚に象徴する財産を奪われた町の者にとって憎しみの格好の的となるだろう。悪魔の行為を最後のあがき、と捉えたままにである。
    イエスの行った許しの根底は理解されず、さらなる憎しみを呼ぶだけとなり、彼らはイエスにすら「去れ」という。
    逆の見方をすれば、豚に身を宿した悪魔はイエスに対する畏敬の結果の改心をし、教えを示したとも言えるが、それは結局理解されないのだ。



    この逸話は物語の中核をなす。
    私はこの解釈についていろいろと考えていた。はたしてこの中でスタヴローギンが何に当たるのか。
    新潮版のあらすじの通りにスタヴローギンとは当時のロシア社会の体現なのだ。それも先に挙げた4人のキャラクターたちを特徴付けるロシアを取り巻く象徴的な思想を吸収した結晶なのだ。彼はロシアの未来の兆しすら本来は持つものなのだ。
    ところがその彼の結末とは何か。
    上記の悪魔のような、示すための行為を行っても誰をもそれに目を向けないと言われる。
    なぜか、そこに信仰がないからだ。
    こう書くとゴリゴリのキリスト教称賛小説だと言っているように聞こえるがそれもまた少し違う。
    確かにドスト先生の著作をいくつか読んできてキリスト教の、それも神の不在、いや存否の問答の多さは目につく。しかしそれは少し違うのだ。また引用しよう。



    【「完全な無神論者は、完全な信仰にいたる一歩手前の段階に立っていますがね(その最後の一段を飛び越えるかどうか)、無関心な人間は、おろかしい恐怖心のほかに、どんな信仰ももっておりません」】
    (初稿版)


    これはスタヴローギンとチホンの対話の一説だ。
    救いを待つスタヴローギンに対するチホンの慰みの言葉ともとれる。
    そして、もうひとつ。


    【「アーメンである方 誠実で真実な証人 神の創造された万物の源である方が 次のように言われる。
    <わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない むしろ冷たいか熱いかどちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく なまぬるいので わたしはあなたを口から吐きだそうとしている。あなたは、「わたしは金持ちだ、。満ち足りている。何一つ必要なものはない」と言っているが 自分が惨めな者 哀れな者、貧しい者、目の見えない者 裸の者であることがわかっていない……>」 】
    (ヨハネの黙示禄 第3章14節-22節)


    スタヴローギンはこれを中庸批判ととる。
    熱さや冷たさのどちらかにつけばこそ、その対局を真に見つめることをするはずだ、と。
    ただ、これは先に言ったように信仰の話ではないのだ。
    私はこれにさらに、ステパン先生の一言を添えたい。


    【「ぼくにとって不死が欠かせないのは、神が不正を行うのを望まず、またぼくの胸の中にひとたび燃え上がった神への愛の火をまったく消し去ることを望まれないという理由によるものです。愛より尊いものがあるでしょうか?愛は存在よりも高く、愛は存在の輝ける頂点です。だとしたら、存在が愛に従わないなどということがありうるでしょうか?もしぼくが神を愛し、自分の愛に喜びをおぼえているとするなら――神がぼくの存在をも、ぼくの愛をも消し去って、ぼくらを無に変えてしまうなどということがありうるでしょうか?もし神が存在するとすれば、このぼくも不死なのです。コレガ・ボクノ・シンコウコクハクデス」】
    (江川訳 新潮文庫『悪霊』下巻)



    ドストエフスキーが神の存否にここまで執着する理由は何かと、ながらくいまいちわからずにいたが、ここでようやく見えてきた。
    それはキリスト教やイエスという次元のはなしではなく、そこに代表されるような道徳や倫理がこの人の作品の中では神とつながるのだ。
    それは、もしかしたらキリスト教社会の中では当然なものかも知れないが、万の神の国の住人である私にはわかりずらい。倫理観の成立の規範が全く違うのだ。
    混乱期に種々の思想がロシア全体を揺さぶり、脅かす。それに汚染され、感化されつつも、行き着く場所には破滅が見え隠れする。それはなぜか。そこには無神論がゆえに倫理や道徳が失われているからだ。




    スタヴローギンは最後には正気のまま自害する。
    罪の告白により悪霊のような改心と犠牲を見せようとも、それは否定されるばかりだ。
    それもそうだ。彼は悪霊そのものではないのだ。確かに数々の悪徳におぼれた悪魔的な人間であるが、彼はとりつかれた存在なのだ。
    彼は悪霊から癒される人に成るはずだったのだ。
    あの逸話でイエスは癒された人が「ともに連れて行ってください、」と願ってもそれを否定し、残るようにと言う。彼に対して侮蔑や憎しみがなお残されているこの地で、教えを人々に伝えなさいと言う。そうして己の罪を悔い、反省して、しかし神の道を伝える人として生きてゆきなさいというのだ。
    だが、それがスタヴローギンにできるか。
    できないだろう。彼は当時のロシアの混乱の象徴なのだ。ならば信仰の道を選ぶのではぬるい。
    告白の章でチホンが指摘したように、文書を公表することで起こった様々な出来事の上に多くの死骸が横たわることとなった悲劇の末に、彼はマトリューショが与えた罪の痛みにより疲弊し、だが神を不在にしたまま”まともな精神”で死ぬのだ。
    そうして道徳なき当時のロシアの結晶が迎える悲劇の象徴と彼はされるのだ。



    いやはや私の読み解きは少し聖書に食い込みすぎてしまっているな。
    こうできあがって見てみると、悪魔の改心にも読み取れるんだな。種々の思想という不浄なる豚に乗り込み、しかし死を持って道徳の不在の悲劇を示すまともな精神を持ったロシアの悲劇。
    そうななれば、おろかにならず読み取ってあげるのがこちらの正しい対処だろう。
    こう結論づけて多少は満足できた。
    私の読み解きでは、不足な部分も多いだろうが、しかし掘れば掘るほどおもしろい本なのだ。
    話がほとんど『悪霊』の全体に及んでしまったが、重ねて言うが本書は読み解く上でのヒントを存分にくれたと思う。その意味で私にはよかったと思う。

  • 『永遠のロストナンバー』という宿命を持ち続けるドストエフスキーの『悪霊』の中にある「チーホンのもとで」の中にある『スタヴローギンの告白』ここでは世界初の試みとして現存する3つの告白を収録しております。

    「<告白>のない『悪霊』は丸屋根のない正教寺院である」

    これはロシアを代表するドストエフスキー学者の一人であるユーリー・カリャーキンの言葉です。『永遠のロストナンバー』という宿命を持ち続ける“スタヴローギンの告白”を含んだ『チーホンのもとで』。これは小説『悪霊』の劇中で重要なクライマックスのひとつとして第2部9章、もしくは第3部1章に収録される予定ではありましたが、掲載誌である『ロシア報知』編集長のカトコフからあまりにも内容がインモラルであるという理由からNGが出て、その後1年以上にもわたって両者の間であらゆる綱引きが行われた末に結局はドストエフスキー側の敗北に終わるという結果となり、都合100年近くの間、現在我々が目にすることが出来る状態での悪霊を目にすることは無かったという運命を持ったものでございます。

    本書では世界初の試みとして3つのヴァージョンの『告白』を訳出し、一冊にまとめたものです。それは『初稿版』『ドストエフスキー版』『アンナ版』です。それぞれ説明をすると


    ・初稿版…ドストエフスキーが『ロシア報知』に送った最初の原稿を活字に組んだものであり、原書出版のさい、そのプリント(初稿ゲラ)では、誤植などのごく初歩的な誤りの修正のほか、いっさい手が加えられていない。初稿版における「チーホンのもとで」は第2部9章として位置づけられている。
    ・ドストエフスキー版…ドストエフスキーが初稿ゲラに赤字を加えた版にいくつかの段階での直しが含まれている可能性がある。ドストエフスキーはこれを第3部1章として位置づけていた。
    ・アンナ版…アンナ・ドストエフスカヤが筆写したもの。筆写された時期は特定できないが、初稿版、ドストエフスキー校版との間に重大な変更が見られる。1,2において欠落しているプリントの15枚目が復元されているのが大きな特色だが夫人が終わりの筆者を断念している。
    (本書より引用・抜粋)

    内容の流れを簡単に分けると3節で成り立っており、


    ・スタヴローギンが『告白』を携えてチーホン僧正のところへ行き、そこでの対話。
    ・チーホン僧正が『告白』を黙読する。
    ・『告白』を読み終えたチーホン僧正とスタヴローギンとの対話


    です。『告白』の特徴は「スタヴローギンより」で始まりその「より」という言葉の使い方は江川卓先生によると『~からの福音書』という使い方だそうで、聖書の福音書になぞらえて自らのおぞましい悪行の数々を語るという構図を後で知ったときはあまりの恐ろしさに言葉もありませんでした。書かれている文章は原語となっているロシア語でも訳出するのは本当に大変だったそうで、亀山教授いわく『あいまいかつ舌ったらずな表現/頻繁に用いられる副詞./回りくどい表現/同語反復/意味不明な言い回し/明らかな事実誤認』という言葉のオンパレードらしく、訳出するのは本当に苦労したのだそうです。

    内容を簡単にまとめてみると


    1.4つの『罪』の告白―ペンナイフの紛失とマトリョーシャへの折檻。35ルーブル窃盗事件。マトリョーシャ陵辱。マリヤ・レビャートキナとの結婚。
    2.世界遍歴の物語
    3.黄金時代の夢
    4.『告白』発表の意図


    です。その中でもハイライトでは『14歳の少女(ヴァージョンによって年齢が違う)を自身のあまりの退屈さに陵辱して、その上に彼女を自殺にまで追いやってしまったはいいものの、事あるごとに出てくる彼女の幽霊に悩まされ続けている』という箇所でしょう。それを読み終えた後に展開されるスタヴローギンとチーホン僧正の息詰まるようなやり取りは本当にスリリングなものでありました。

    全体を一度通して読んでみると、構図そのものはあまり変わらないといえば変わらないのですが、細部のディティールに当時、ドストエフスキーと『ロシア報知』側との鬼気迫るような攻防が構成を表す太字の箇所から感じることが出来るのです。スタヴローギンがペテルブルクで放蕩生活を送っていたときに重ねた悪行の数々は先述しましたが、35ルーブル入った給料袋を盗んで飲み代に使って後日、持ち主の役人から問い詰められてもシラを切りとおしたり、その3日後にマトリョーシャを陵辱した後、彼女がしきりにうわごとで
    「恐ろしい」
    「神様を殺してしまった」
    という言葉には彼自身が恐怖を感じ、後日、マトリョーシャが絶望の末、スタヴローギンのところに行って、小さなこぶしを振り上げ、顎をしゃくりあげたあとに彼女が縊死を遂げるまでの描写は何度読んでも恐ろしいものです。「黙過」という言葉をこの小説で知ることが出来ましたが、それを象徴する出来事のひとつだと思います。

    さらにスタヴローギンは自分に夢中になっているマリヤ・レビャートキナとの結婚を決意する際にも、《酒盛りのあとの飲み比べ》や
    「かのスタヴローギンがこんなくずみたいな女と結婚するというアイデアが神経をくすぐった」
    という恐ろしいことを言うのです。立会人となったのはピョートル。レビャートキン。プロコル・マーロフ(故人)。キリーロフで、ここで彼はこの事実を他言無用とするのです。その後、帰省するもスタヴローギンは気候を起こし、放逐されるのです。

    その後、彼は聖アトス山→エジプト→スイス→アイスランド→ゲッチンゲン大学で聴講生となる→パリ→スイスというまさに「魂の遍歴」をし、彼が「黄金時代」と称する『アキスとガラテア』を見たりするのですが、得られたものは何も無く、大きな徒労だけが彼を包むのです。最後のほうにも女性を死なせた話や決闘で二人の命を奪ったこと。さらには一人の命を毒殺で奪ったことが記されており、これを公開する意図があるとほのめかし、『告白』は終わります。ここまで書いていて本当に疲れました。

    これを1時間かけてチーホンは読み終えた後、スタヴローギンと対話をするのです。チーホンが『懺悔に見せかけた挑戦』と『告白』を断じ、
    「汚辱のためにわざと費やされた、大きな無為の力」
    といい、対するスタヴローギンも
    「あらいざらい真実を言いましょうか。ぼくはね、あなたに許してほしいんですよ。あなたのほかもう一人、いや、二人ぐらいのひとにはね」
    と揺れ動く複雑な心理を表します。さらには
    「自分で自分を許したいんです。これが最大の目的、目的のすべてです!」
    とまで言うのです。

    チーホンはスタヴローギンに修行を勧め、さらには『告白』の公開の延期を示唆します。しかし、最後のほうにはチーホンが
    「(中略)新しい犯罪に身を投げ出してしまう。それも文書の公表を逃れるためだけに」
    (ここはヴァージョンによって表現が違う)
    というようになり、対するスタヴローギンも
    「この、いまいましい心理学者め!」
    と吐き捨ててチーホンの暗室を去り、決裂してしまうのです。

    アンナ版以外には最後まで記されているのですが、そこに至るプロセスが「微妙に」違うのです。前述しましたが、この「微妙さ」が重要なのです。しかし、ここまで自分がこの「告白」に固執したのはなぜなのでしょう。それは恐らく「内なるスタヴローギン」を出してみたかった。その理由に負うところが大きいのかもしれません。

  • 難しかったです。

  • 新書・文庫  983||ドス

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フョードル・ミハイロヴィチドストエフスキーの作品

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