- Amazon.co.jp ・本 (300ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334913748
感想・レビュー・書評
-
『私たちの人生のピークって、やっぱり十代の半ばだったのかしらね』。
長い人生を生きているといろんなことがあります。”神童”という言葉があるように、幼くして周囲を驚かせるような才能を見せる子供たちがいます。その一方で”十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人”ということわざがある通り、親の期待も早々にそんな幼少期をピークとして、あとは『平凡に埋没し』た人生を送る、そんな人はたくさんいると思います。
人によって価値観は多種多様です。生きることに何を重視するかも人それぞれです。”神童”と言われ、世の中で騒がれている瞬間を自身のピークと本人が思っているかどうかもそもそもわかりません。そこには、自分自身の納得感というものが必要なのだと思います。
しかし一方で、『平凡に埋没し』た人生を送れば送るほどに、自分の人生には何が『いちばんいいのだろう』、自分は人生に何を求めているのだろう、そんな思いに苛まれます。そんな瞬間には、
『私たちの人生のピークって、やっぱり十代の半ばだったのかしらね』。
そんな風に過去を懐かしむ感情が生まれるのは自然なことなのかもしれません。
さて、ここにそんな風に自分たちの『人生のピーク』のことを『三人で集うたび』に口にする三十代の女性が主人公となる物語があります。『もう二十年近く前の話なんか、いつまでもしてないでよ』と別の主人公はちいさく笑います。この作品はそんな三十代の女性三人が主人公となる物語。そんな女性たちが『四十歳になるまでに、またぱあっと脚光を浴びるようなことがないかしら』と思う物語。そしてそれは、そんな女性たちが葛藤と苦悩の先に『自分たちの進むべき方向を見つけ』ていく物語です。
『着色していたイラストレーションの画像を閉じ、メールを開く』と井坂麻友美(いさか まゆみ)からの新着メールに気づいたのは主人公の一人・井出ちづる。イッちゃんの『帰国祝いにランチ』をしようというその内容に『楽しみにしてます』と返事を出した ちづるは、かつて蟹を取り寄せた店からのDMに気づきます。『あのころは夫の寿士(ひさし)は毎日八時には帰ってきていた』と思い出すちづるは、夫の『寿士は浮気をしている。信じがたいことだが、それは真実だ』と思います。相手は『同じ事務所で働く、新藤ほのか』『二十五歳』、その情報を『無防備な』寿士の携帯や手帳から知ります。『帰りは十二時過ぎだし、土日も』『仕事があるといって出かけていく』寿士に真実を問うことなく『自分の気持ちがよくわからな』いと感じる ちづる。そんな ちづるは『十五歳からずっとつきあっている二人の友人の顔』を思い出し、『私たちがずっといっしょにいるのはなんでだろう』とも思います。そして、二人と約束した日がやってきて『目当ての中華料理屋』に赴いた ちづるはモロッコから帰国した草部伊都子(くさべ いつこ)と、娘のルナを『芸能人にしようと思』っていると話す井坂麻友美と再会しました。そんな席で麻友美が『三人で集うたび口にする例のせりふを、ぽつりと言』います。『私たちの人生のピークって、やっぱり十代の半ばだったのかしらね』というそのせりふ。かつて『短大まで続く一貫教育の女子校』に通っていた三人は、同じクラスとなって親しくなり伊豆高原に旅行に赴きました。そんな夜に見た『ライブ・エイドの生放送』をきっかけにバンドを組み、コンテストにも出場しますがあえなく落選。しかし、『タレント事務所の人間に声をかけられ』、『「ディズィ」という名』でデビューしますが、校則により『学校を退学処分にな』ってしまいます。その後、しばらく活動するも活動停止を余儀なくされた三人は、それぞれの道を経て今を生きています。そして今年、三十五歳になった三人は、『四十歳になるまでに何かしなくてはと思うものの、その「何か」のとっかかりすら見つけられない』という焦りの中を生きています。そんな三人が自分を『閉じこめてい』たものに気づいていく物語が始まりました。
八つの章から構成されたこの作品。〈あとがき〉に書かれている通り、”二〇一七年の暮れに、仕事場の大掃除をしていたら”、”タイトルもついているけれど記憶にない校正刷りが出てきた”という経緯から、この作品がかつて雑誌「VERY」に連載していた自身の小説だったことが判明したといういわくつきの作品のようです。そんな小説を一度はだめだと思って全体的に校正しようとした角田さんですが、”ひと月に三十本近い締め切り”の忙しさの中で放置、今回陽の目を見たという出版経緯を辿ることが興味深く記されています。そして、最終的に”彼女たちよりずっと大人になった私がなおすわけにはいかない”という判断によりそのまま出版されたようでもあります。
以上、なかなかに興味深い出自を辿るこの作品は、角田さんが”彼女たち”と書く三十五歳を迎えた三人の女性が主人公となり、章によって三人の主人公それぞれに視点を切り替えつつ描かれていきます。そんな主人公の三人をまずはご紹介しましょう。
・井出ちづる: 夫の寿士は、25歳で会社の同僚・新藤ほのかと浮気をしている。ちづるはそのことを知るも、特に指摘をしていない。『雑誌のコラムや投稿欄』に挿画を描く『イラストのお仕事』をしている。
・草部伊都子: 独身。母親・芙巳子は有名な翻訳家。『ライター業』をしていたが専門学校に入り『カメラマン』にもなる。直近でモロッコに三ヶ月の撮影に訪れた。写真集を出版することがきっかけで宮本恭市と知り合い肉体関係にある。
・井坂麻友美: 娘のルナを『芸能人にしよう』と、スクールに通わせる。夫の賢太郎は麻友美がバンドを組んでいた時のファンであり、今も麻友美に『恋をしている』。『リバイバル大作戦』という番組に出場したいと望んでいる。
そんな三人はかつて15歳だった時に『ディズィ』というバンドを組み、『ワンマンじゃなかったけど、武道館にも出たことある』という過去を持ちます。『三流アイドルに毛が生えた程度』とはいうもののスポットライトを浴びた時期を持つ三人は、校則により『学校を退学処分にな』り、人気も三年ほどで下降、活動停止となりそれぞれの道を歩んで今日に至ります。そんなバンドの活動終了後も雑誌のモデルをしていた麻友美は、三人で集まりを持つとお決まりのせりふを口にします。
『私たちの人生のピークって、やっぱり十代の半ばだったのかしらね』。
物語は、そんな華やかな過去を十代に経験した後、『平凡に埋没し』た日々を送る三人の今を生活感豊かに描いていきます。それぞれにそれぞれの悩みを抱えながら三十五歳の今を生きる主人公たち。
そんな三人は『平凡に埋没し』た人生の中で前に進めずにいます。夫の寿士が年下の同僚と浮気をしていることを知っているにも関わらず、ちづるは『あの不安と再度闘うことがこわい』、『物理的にひとりになることがこわい』という思いに苛まれ『寿士に解決を迫ることができ』ず悶々とした日々を送っています。有名な翻訳家の母親を持ち、幼い頃からそんな母親の指示に従って『母の言うことはすべて真実だと思って』生きてきた伊都子は、『過去につまずいた箇所すべてに、母の間違った言葉があった』ことに思い至り、『母の真実と違うことをすればするほど、自分は幸福になる』と思うも仕事のパートナーとなった恭市の真実に迫れずにいます。そして、娘のルナを『芸能人にしよう』と奔走する麻友美は『日々の雑事に追われるだけで時間がどんどんたっていく』中に焦りの思いを募らせ、『四十歳になるまでに何かしなくては』と思うも『「何か」のとっかかりすら見つけられないこと』に前に進めずにいます。
角田さんの作品では三十代の女性がこの作品同様に人生の中で前に進めずに立ち止まって思い悩むシチュエーションの物語に傑作が多いように思います。『私には何もないのだ。本当に何もない』と37歳の主人公・ハナのモヤモヤとした感情が描かれる「薄闇シルエット」、『私はいつ大人になるんだろう』とかつて大学時代を共に過ごしたもののいつまでも大人になりきれない大人たちのわちゃわちゃした物語が描かれる「三月の招待状」、そして『私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう』、『なんのために私たちは歳を重ねるんだろう』と35歳の小夜子が思い悩む様が描かれる「対岸の彼女」といった物語たち。そんなそれぞれの物語には、三十代という、自在に冒険できる青春時代を過ぎ去り、少しずつ自分の人生の有り様がはっきりしてくる、社会の中で自分の立ち位置が定まってくる、そんな年代を生きる女性の葛藤と苦悩が描かれていました。角田さんの王道とも言える三十代を生きる女性の葛藤と苦悩に光を当てるこの作品。そこには、他の作品同様にモヤモヤとした感情に取り憑かれ、前に進むことのできない主人公たちの日常が描かれています。しかし、この「銀の空」という作品には一味違う読後が待っています。それが、結末に向けてまさかの展開を辿る主人公たちの大胆不敵な行動に伴う結果がもたらすものです。ちづる、伊都子、そして麻友美の三人はバンドの活動停止後も定期的に会う場を持ち続けていました。しかし、
『いつのころからか、集まっても私たちは当たり障りのないことしか話さなくなった。かつてのように胸の内を隅々まで見せ合うようなことはしなくなった』。
というようにそんな場を持つ意味がなくなってきていることに気づいてもいます。そこに、
『それなのに会い続けているのはなんでだろう』。
そんな漠然とした疑問が湧き上がるのは当然のことです。三人が集まるのは、『人生のピーク』を共にした、そんな残照を懐かしむ感情を抱いていたからなのだと思います。私たちは、長い人生の中で誰しも『人生のピーク』が連続することなどありません。”人生山あり、谷あり”と言われる通り、生きれば生きるほどに深い谷へと堕ちていく、そんな時間も経験することがあります。そんな時間には、かつて山の頂上から見た素晴らしい眺めが懐かしくもなりますし、そんな眺めを思い出してノスタルジーな感情に浸りたくもなります。今が『平凡に埋没し』た人生であれば、それをなんとかしたい、輝かせたい、そんな風に思うのは当然のことでしょう。角田さんがそんな鬱屈とした日々を送る三人に与えたのは、再び三人が同じ時間を共にする、そんな時間を共有したことをきっかけに、それぞれの主人公たちが再び前を向くためのきっかけを得る物語でした。鬱屈とした主人公たちが再び前を向く瞬間を見る物語。『自分たちの進むべき方向を見つけ』た主人公たちの輝く未来を感じる物語。
『何ひとつ持っていないとしても、ひとりきりだとしても、それでも私たちはだいじょうぶなのだ』。
そんな思いの先に続いていく未来。角田さんが” 仕事場の大掃除”の中に偶然にも発見したことをきっかけに刊行されたこの作品。角田さんの作品の王道とも言える三十代の女性の葛藤と苦悩をテーマにしたこの作品。長い人生の中で『人生のピーク』と感じる時間は決して長くは続かないものです。しかし、そこからが本当の人生の始まりでもあります。きっとくる次のピーク、生きている限りきっと訪れる人生の新たな頂へ向けて歩む主人公たち。そんな主人公たちに幸あれ!そんな風に感じた角田さんの王道の作品らしさを強く感じさせる素晴らしい作品でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読み始めて んん
と引っかかるような違和感がするな
とおもったら 14年間も眠っていた作品だそうで
それも掲載誌はVERYでした
なんとなく 時代が違うように感じるのは
そこか と納得
しかし とても懐かしいような気持ちになりました
3人ともに 表面上は友達なんですが
腹の底から語り合うことは もうできず
分かりえることはありません
しかし 伊都子の母親が亡くなるとき
3人は 昔の自分に戻って
心通じ合うことができました
それがとても 格好よくうらやましかった -
雑誌「VERY」2005年7月号から2007年6月号掲載。
改題のみ、加筆修正なし。
大掃除をしていたらひょっこり出てきたけど
角田さん自身も忘れていたものだったそう。
面白かったけど、共感すること全く無し。
でも「これから海の綺麗な季節になるから
たくさん見に行きたい!」と思いました。
そしてそのうち一回位は母を連れて行きたい。
ただし箱根駅伝の日は駄目です。
この登場人物が、今は50歳になっているはず。
「その彼女たちをいつか書いてみたい」と角田さん。
よろしくお願いします。 -
15歳でバンドデビューした3人の仲良しは、解散を経て35歳になった。既婚/未婚、子なし/子あり、それぞれ状況は異なるものの、何か満たされない思いを抱いてもがいている。夫の不倫を知りつつも嫉妬すら感じないちづる、有名人な母親の呪縛に苦しむ伊都子、一人娘を芸能人にするべく奔走する麻友美。
友達だからこその互いに対する嫉妬、つい張ってしまいがちな見栄、苦しい胸の内を話してしまいたい衝動、でも言えないという葛藤。一つ一つの感情の揺れが生々しく、手に取るようにわかる。あぁ、2000年代中盤の角田ワールドだと懐かしくなった。この後発表される、あの作品やこの作品に繋がるなと思わせる部分があちこちに散らばっている。それらの作品群は、精度を上げて濃く深く、完成度も高いものとなっていくが、個人的には過渡期の「何にもなれない」迷走がリアルな作風が好きだったりする。
連載終了後、直そうと思ったきり忘れられていたという本作。実は私も、その存在を忘れていた。2000年代中盤、角田さんがVERYに「銀の夜の船」(改題前)という連載をしていると知り「VERYに!どんな小説だろう。それはいずれ読みたい!」と思ったきり忘却の彼方だったのだ。長い時を経て陽の目を見ることができて本当によかったと思う。そして、手を入れることなく当時の空気感そのままに発表されて、これまたよかったと思う。確かに物足りない部分がなくはない…手を入れたら更に読みごたえのあるものになっただろうが、バージョンアップ前の角田作品の「隙」みたいなものが個人的にはツボなのだ。(勿論最新の作品も好きですよ!)
自分の連載作品を忘れてしまうなんてあるんかいなと思ったけど、確かにあの頃の角田さんはホントに仕事量がすごくて、私も追うのに必死だったもんな~。また、知られざる未発表作がぽろっと現れないかしら。「あの頃」の角田さんに会うのはなかなか楽しい体験だ。それは同時に、「あの頃」の自分を思い出すことでもあるのだ。 -
女子校時代にバンドを組んでいた3人の35歳になった現実は…。
3人3様で、それぞれが今に向き合えてなく自分の現実を直視できていない。
若い女と浮気をしてる夫をもつイラストレーターのちづる。
早くに結婚して幼い子どもに夢を託す麻由美。
著名翻訳家を母にもつ伊都子。
彼女たちが、伊都子の母を看取った後それぞれ自分と向きあうこととなる。
誰もが人と比べて自分はどうなんだろう…と思うことがあるだろう。
特にこの年齢だと結婚しているか、いないか。
夫にも不満はないのか。
子どもは、思い通りに育っているのか。
仕事に不満はないのか、やりがいがあるのか。
いろいろ果てなく思うことはあるだろう。
だが自分の人生、一度きり。
後悔してもいいではないか、と。
-
3人のそれぞれの気持ちが良くわかる。
10代と違って歳を重ねてくると、自分で生きている。みたいな充足感が感じられない時の方が多かった気がする。
高校時代の親友と定期的に会うのは悪くはないのだろうけど、戻れるはずのない「あの頃」につい縋ってしまっているのではないか?だから私はあまり好きではない。
ラスト、3人は距離を置くことになって、いよいよ自分を生きるスタートラインに立てて、良かったのだと思う。
がんばれ3人。 -
文中に「携帯のフラップ」という言葉が出てきて「お、そういう頃の話しか」と思いつつ読み。
そして皆さん書かれてるあとがきを読んで「なるほどそういうことなのか」と納得。
ちょっとだめで内面がぐずぐずな女性を書いたら本当にビカイチだなとしみじみ堪能。登場人物達の個性の書き分け、人間性の発露、関係性の妙、どれもさすがとしか言えない凄腕をやはり感じます。
しかし一番グッと来たのは、後書きかもしれない…。
自分の書いた作品を忘れるほどの多忙って凄まじい。作家の方々は時々「作品は書き上げたらもう自分を離れる。一人歩きをする」というようなことをおっしゃいますが、ここまで離れてしまうこともあるんだなと衝撃を受けました。
そしてそれはもう作品を書き上げた当時から15、6年も経った今の自分では「直しはできない、やるなら書き直しになる」というほどの離れっぷり。
確かに自分の書いたものなのに忘れたことで新たな発見もできた、不思議な感覚を得たというそのことがまた新たな作品を生むかも、と期待もされます。
最後に、宮下先生がとってもナイスでした。 -
申し訳ないが、全く面白くない。
読んでいて終始睡魔に襲われ、飛ばし読み。 -
自分と同年代の少し住む世界の違う女性たちですが、いつしか感情移入してしまいました。3人ともいろいろあるけど、頑張って逞しく生きてほしい。