ものがわかるということ (単行本)

著者 :
  • 祥伝社
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784396617639

作品紹介・あらすじ

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  • 「ものがわかるということ」養老孟司著|日刊ゲンダイDIGITAL
    https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/319993

    s-book.net Library Service
    https://www.sun.s-book.net/slib/slib_detail?isbn=9784396617639

  •  著作をあまり読んだことがないながら、なぜか昔から惹かれる養老先生。見た目や雰囲気がまず好みということもあります(笑)
    想像していたより、結構ばっさりはっきり物を言われる方だと今回知りました。勝手に親近感を抱いています…

    気になったところをいくつか。
    ○知るとは自分が変わること

    ○ああすればこうなるが前提になっていたら、知ることが難しい。

    ○万事を「日常言語の世界」で済ませたいと思う人は文系に向いていて、そこから出ることに抵抗のない人は理系に向いている。

    ○心は自分だけのものと思っている人が多いが、心とは共通性そのものです。
    心に個性はありません。他人に理解できないことを理解し、感じられないことを感じている人がいたら、それは病気です。
    他人に通じない考えを自分が持っていても意味がない。どうしてこんな当たり前の常識が通らないのか。心の個性があるなんて思っているから、若い人が大変な労力を使うわけです。自分は人とは違う、個性がある、そういうことを証明しようとする。空回りするに決まっています。

     この四つめの考え方にはハッとさせられました。個性とはその人の身体そのものであり、心ではないとおっしゃってます。完全には理解できていませんが、この考え方は現代人にとってとても意義があるように思えます。


    全体を通して、とても納得がいく部分と、確かにそうだなと思った直後に、よくわからない所に飛んでしまう部分とありました。
    あまり上手く纏まってなくて、養老先生が話したことをさっと書き取りまとめたのかなという印象。それでも、先生がぶつぶつと何となく話すことが、一般人にとっては参考になり、気づきがある。そんな考え方があるんだとハッとしたり、この面倒くさい時代にそこまで言ってしまうんだという驚きと尊敬が入り混ざった思いがありました。

    結局わかるということは、里山に行くなどして自然の中で動き、身体を使いながら感覚を大切に、対象を観察するということだとおっしゃっているのかなと思いました。先生が虫を観察するように。そして、わかろうとするほど、わからないことがどんどん増えると。

    この本でも触れられている少子化の問題ですが、政府は異次元の少子化対策と言っているけれど、何だか実際的外れなことしてるなぁと個人的に思っていました。どうして子供を持たなくていい、または一人で十分と思う人が増えているのか、国が考えていることは少しズレてるのでは?と感じていました。
    お金がかかるから、仕事との両立が大変だから、などを問題点にして、子育てにかかるお金をもっと国から出しましょう、保育園の送り迎えが楽になるようにしましょう、父親の育休をもっと取りやすくしましょう…
    私が子育てして感じたのと違っている。確かに、子育てがあまりに大変で、近所を散歩しているおじさんとかを見ると、「そんな余裕があるならちょっと手伝ってください」と声をかけたくて仕方なかったことすらありました。もうこれ以上頑張れない、無理だ、と、子供と保護施設のようなものに飛び込もうかとも思ったこともあります。この大変さは、こういった類の政策でどうにかなるものではないと思う。
    今の政府のとっている対策では、ただでさえ横暴に、わがままに、自己中になってきた現代人の、若い、子のいる親は、子がいるだけでなんか偉くなった気にさえなり、際限なく要望を言い出しそうだなと、そういう風潮だと、子への思いの質も変わって来そうな気さえして空恐ろしくなります。

    養老先生は、(ここだけ切り取って紹介すると誤解を招きそうで心配だけれど、)子供はノイズそのものだと言っています。結婚はノイズと生涯を共にするようなものだととも。先生がそう思っているのではなく、現代の脳化社会、情報化社会の実情として、そうなっていると。私が上手く言葉にしてまとめられない、(もしくは言葉にしてバッシングを受けるのが怖いだけかもしれない…)少子化の問題の根本に、先生の言われていることは近い気がしました。

  • とても面白かったです。
    こういうかたのお話しを直に聞く機会は全くありませんが
    本にしてもらうとじっくり伝わってきて良いものですね。

    〈やらなきゃいけないことをやり続けると、型が身につく。何かが身についたら、自分は変わります。(略)
    千日回峰行をする前と後で、本人がどこかしら変わる。それだけのことですが、人生とは「それだけのこと」に満ちています。私は30年、解剖をやりましたが、それも「それだけのこと」です。
    「それだけのこと」を続けていくと、自分は変わる。そうやって変わる自分を創っていく。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではありません。それが大した作品にならなくたって、仕方ない。そもそも誰が「大した作品」かどうかを判断するんでしょうか。(略)
    「変わった」自分はいままでとは「違った」世界を見ます。自分が変われば、世界全体が微妙にずれて見える。大げさに言うなら、世界全体が違ってきます。だから「面白い」のです〉

    〈前提が違うことを前提にすれば、
    つき合うハードルは下がります〉

    〈手入れは毎日しないと意味がありません。
    毎日、手入れをするには何が必要か。
    現代人が嫌う「努力・辛抱・根性」です〉

  • 「ものがわかるということ」タイトルに釘付けになり、手に取った本。
     「哲学」と言う言葉を思う時に、私は何故か養老孟司氏の顔がフッと浮かぶ。

     Googleさんが教えてくれる哲学の定義は「人生のあり方、原理を理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。」

     冒頭の映画の話は本当によくわかる。同じ映像を2日間で、10回見ろと言われたら、7回目でもう嫌だという気持ちになると書かれている。私の場合、7回まで行けない気がする。毎日、同じ日常と思っているが、本人は変化している例を映画で教えてくれた。

     「近代自我」という言葉を初めて聞いた。多くの情報にさらされ、概念だけが生きて呼吸しているだけで刷り込まれていく。

     自分の中にアンカーを下ろし続けられるのは、身体が密接に関わって共にあること。

     「アイコンタクト」「ボディランゲージ」。言葉以外にも、私達は様々な伝達手段を持つ。だけど、コミュニケーションが格段に進歩しただろうか?
    相変わらず、数えきれないほどの本が書店の棚に並ぶ。自分探しの旅を止めようとしない人も続出している。

     自分を創り出すのに「哲学」が必要なのかもしれない。人は「思考」し、「思索」するのだから。
    それが人間に生まれた醍醐味だと私は思っている。
     そして養老氏のメッセージは「あなたの感覚を信じる。あなたが経験の中で自力で掴み取ったものを信じる。」ということかも。
      
     

     

  • ご本人も書いておられますが、体系的にまとめられた本というよりは、「なんかぶつぶつ言って」いる本笑
    考え方も納得できるところと、疑問に思うところとあった
    ただ、江戸時代に外国人が日本の子どもは幸せそうだと言ったという話から、現在の子どもたちが「子どもの人生は、大人になるための予備期間になってしまいました。『将来』という言葉で子どもの人生を縛って、子どもの時代を犠牲にしてしまうのです。」という部分はなるほどなあと考えさせられた

  • 正直なところ、何を伝えたいのか分からないというのが感想です。結局、理性で判断しているうちは、何も分からないよということかな。

    「人疲れしている人は、人間でないものを相手にすればいい。生身の人間を相手にするから疑心暗鬼になる。」この一文、人疲れ気味の私には刺さりました。著者のように、「対物の世界」に入り込めるような趣味が欲しいです。

    本書の何処かにもありましたが、養老孟司という元解剖学者のおじいちゃんが何かぶつぶつ言っている。そんな本でした。

  • 『こういう観察に決まった方法はありません。やってみるしかない。ところが、「虫を見てみたら?」と若い人に言うと、「そうしたらどうなりますか?」と尋ねてくる。「やってみなきゃわかんないだろう」と言うと、「そんな無責任な」と言われます。答えが見えないことを言うと無責任になる。でも、あらかじめ答えがわかっていることなんて、ちっとも面白くありません』―『第五章 自然の中で育つ、自然と共鳴する』

    養老先生の著書はいつもだいたい同じことが書いてある。もちろん、変化してるものはある。年を経るごとに徐々に言葉は柔らかくなってきたようにも思うし、伝えようとする熱量のようなものは言葉の後ろに後退した。分からなかったらそれで仕方がない、という雰囲気がむしろ強くなった。でもその一見つっけんどんな言葉とは裏腹に、言い残しておきたいという思いのようなものも見え隠れする。そこには自分が経験してきたことを後進に伝えることの難しさが表れているのだと、いささか歳をとった自分は理解するけれど、厄介なことにそれが伝えたい当の相手の若い人には分からない。もちろん、そんなジレンマのような思いは今に始まったことではなく、昔から先達も経験してきた思いであるだろう。そんな思いが宿った先人の言葉をふと差し出すのもまた最近の養老節の一つではある。言葉に託された人の思いに意識が向かうということは、身体性、あるいは自然に共鳴することの重要性を唱えつつ、養老孟司という人のどうしようもなく理が勝つ癖なのだ。あとがきにもあるように、この稀有な知識人の「わかりたい」という特徴なのだと思う。もっとも最近の養老先生は「わからない」ことの大切さも強調するのだけれども。

    個人的には、橋本治が展開する理屈というものにもどこか養老孟司と被るところがあるなと聞いていた。片やどこまでも言葉の人である橋本治と、解剖にしろ虫にしろ自然を扱う人である養老孟司ではあるけれど、世の中(自然)は移ろい易いものだという認識で一致していて、そのくせいつも代わり映えしないように見えるのはそれを見ている人の癖であって、そんな人こそ自然同様扱いにくいものだということをよく心得ていた人だと思っていた。二人の対談(「話せばわかる」に収録)のタイトルが「身体感覚を信じる」であるというのもこの二人が世界を同じような視点で見つめていたことの表れかなと思う。二人の年齢差は約十歳。もし橋本治が生きていたら、やっぱり「なんでこんなこと自分がやらなくちゃいけないんだろう」と言いながら、養老先生と同じように後から来る人に一言二言言わずにはいられないという著書をもっと残したんじゃないかなと思うと残念至極。だから養老先生にはもう少し世の中のことに関しても「分からなくなる手前まで」のところを「そんなもんです」と切り上げる前に橋本さんのように語って欲しいとも思ったりする。でもそんな暇はねえんだよ、と言われるのだろうな。

    『私の好き嫌いとは関係なく、すでに世の中は存在している。だったら、とりあえず受け入れるしかありません。それが大前提です。自分の責任で、自分の好みで、世の中が成り立っているわけじゃない。生まれてきたら、もうそこには世の中があった。言い方を換えれば、私たちは全員、世の中に遅刻してきています。世の中を生きていくということは、その中に巻き込まれていくことです。だったらうまく巻き込まれていくしかありません。内田樹さんは、このことをサッカーにたとえて、うまい表現をしています』―『第二章 「自分がわかる」のウソ/嫌いなことを好きだと思ってやるのが面白い』

    「生まれてきたら、もうそこには世の中があった」「世の中に遅刻してきています」という言葉を読んで、ああレヴィナスの話みたいだな、と思ったら内田樹の名前が出てきた。内田先生も、流石は合気道場の主宰者だけに、身体性を常日頃強調する御人の一人だけれど、教育ということに関してもこの二人の言うことは似ている。それを要約して言うなら「敎育とは(時間・労力と知識の)等価交換ではなく、やってみて初めて理解(伝授)されるもの」という考えだ。古典芸能で言うところの「型」を学ぶことの意義と合い通ずる考えでもあると思うけれど、その地道な努力を「何かのため」という構図でしか理解し得ない現代人への警鐘も二人の言葉には含まれていることが多い。型も型を覚えることが目的ではなく、型を身に付けた後に見えてくるもの(変化した自分)を知るために鍛錬する。結局、起承転結じゃなくて序破急、型より入りて型を出る守破離が大切ということになるのだけど、まあ、今時そんな地味な話を力説したところで若い人には響かないというのも自分自身の経験からも嫌というほど判ってはいる。けれど言い続けないといけないことなんだろうね。きっとだから養老先生も内田先生も同じような話を何度も何度も繰り返し語るのだろう。

  • タイトルにある、「ものがわかるということ」が、いったいどういうことなのかわからない、ということがわかります。
    というと、謎かけや禅問答のようでピンときませんが、A=Bというような単純な式で表すことができるような簡単な事象はないということ、またそのように単純化できることがらだけに囚われていると人間が貧相になると筆者が考えている(のだろうとおもわれる)ことはわかる気がします。

    筆者が無類の虫好きであることや、自然に触れることの大切さを強調してきたことは周知のことですし、その意義や理由についても紙面が割かれています。
    いずれにしても、「頭でわかった気になる」のではなく、「わからなくても当たり前」くらいの心構えを持ちながら、実際に体験すること(まさに「実験」すること)が必要なのだなあ、と改めて感じさせてくれる本です。

    筆者の文体は皮肉やユーモアを含みながら読みやすく、この本は「考える」ことについてのエッセイではありますが、「考えること」や「現代社会」に疲れた人にも優しく寄り添ってくれる本だと思います。

  • 「わかる」ということを、脳科学的に教えてくれると思いきや、「そんなのはわからない」から始まり、養老さん節で人生論が進んでいきます。
    「私の好き嫌いと関係なく、すでに世の中は存在している。好きなことをやりたければ、やらなくちゃいけないことを好きになるしかない」、「不自由な暮らしをすれば、本当に必要なものは大して多くない」など、近代的・都会的な暮らしや思考を、考え直す良いきっかけとなりました。「わかる」の根本は、共鳴というのも好きな考え方です。

  • 読み終わった時に、自然の中へ出掛けたいなという気持ちが湧いてきました。
    現代がどういった時代なのか、社会なのか、深く頷きながら読みました。

     ・情報は変わらない。変化していくのは自分自身。
     ・人生は、”ああすれば、こうなる”わけにはいかない
     ・求められる個性
     ・自分は「創る」もの、「探す」ものではない
     ・正解はないのに、あるという前提に
     ・通じない事の方が大量に存在している
     ・SNSに身体、感覚は無い
      「同じ」を作り、「違い」は認めない

    自然の中で過ごして身体(五感)で感じとることが大切。
    1ページづつゆっくりとめくって読みたくなる1冊でした。

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著者プロフィール

養老 孟司(ようろう・たけし):1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士(解剖学)。『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。『バカの壁』(新潮社)で毎日出版文化賞特別賞受賞。同書は450万部を超えるベストセラー。対談、共著、講演録を含め、著書は200冊近い。近著に『養老先生、病院へ行く』『養老先生、再び病院へ行く』(中川恵一共著、エクスナレッジ)『〈自分〉を知りたい君たちへ 読書の壁』(毎日新聞出版)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など。

「2023年 『ヒトの幸福とはなにか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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