沖田総司

著者 :
  • 新人物往来社
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レビュー : 67
  • Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784404028136

感想・レビュー・書評

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  • まさに沖田ファンによる沖田ファンのための小説。
    本当に「こうあってほしい」素敵な沖田が読めます。

    これについては、一般教養でとってた大学の講義のレポートの題材にもしたくらい、お気に入り作品でした。というわけで、レビューは提出したレポートそのまま(笑)たまには真面目なのもいいかと。

    読まれる方は続きへ。

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    大内美予子『沖田総司』研究
    「武士道を越えた若き真の武士」

    『沖田総司』は、大内美予子の長編歴史小説である。
    幕末に、京都守護職松平容保の下で働いた剣客集団「新選組」の若き隊士、沖田総司の晩年5年間を描いた物語である。

    天才的な剣技で薩摩や長州の不逞浪士を斬り、活躍していた沖田が、池田屋事変をきっかけに労咳を病んでいることが分かる。沖田のそれまでの人の生死やいのちに対する考え方が変わっていく過程をさまざまな出来事や葛藤を通して描写される。

     新選組自体、史実に残る集団であるが、局長近藤勇や土方歳三などに比べると、この物語の主人公である沖田総司は謎に包まれている部分が大きい。歴史の事件の流れや有名な史実は子母澤寛『新選組始末記』に沿っているが、作者が史料の「沖田総司書簡」を見たときに「けなげで、悲壮で、人間的な手紙」だと感じ、この青年を描きたいと思ったということもあり、歴史への興味よりは、若くして散った沖田総司の人物を丁寧に描写していくことを目的としているので創作のエピソードが多分に含まれている。

    この物語では、沖田総司の剣客として天才的な姿というものはあまり描かれない。迫り来る「死」に対する沖田の心情を軸にひとつひとつの事件やエピソードが描かれている。それでも物語全体が暗くならないのは、沖田総司の明るく優しい性格設定によるものだと思われる。

    発病当時「武士として死にたい」と病を療養せず剣を持ち、ひたすらに闘っていた沖田の姿が、それでも生き続け、病めば病むほどに人間らしくなっていく。それは武士の美学とはかけ離れていくものであったが、彼の姿は武士としても鮮やかに映るのである。そこがこの物語の核である。

     この物語は罹患した沖田の死までの5年間を追ったものであるから、作中の沖田のいのちに対する考え方の変遷が重要になる。そこから、徐々に主題に迫っていきたい。

    沖田は、労咳であれども、余命2年と告げられても、剣士として生きることを選ぶ。医者の療養の勧めも断り、まわりに労咳であることを悟られないように、今までと同じであるように振舞う。「病の昂ずる前に剣士として闘って死ねばいいのだ」という独白に象徴されるその姿は、彼が武士道を貫こうとしている姿勢であるように思える。

    ところが、小りんと10年先の話をしたときに、そこにはもう自分がいないことを思い知る。「生きたい」「たった二年の生命」「短すぎる」沖田は自分の内にある本音に気づく。「生きたい」と思うこと、それはどんなときでも死を覚悟していなければならない武士にあるまじきことだ。これは彼の貫こうとしている武士道に反するものである。

    沖田がそんな自分を許せなかったのであろうことが、ひとつの事件に表れている。兄のように慕っていた山南敬助の隊脱走の際、その追捕を命じられるが、彼を逃がして自身がその責を負って切腹しようとするのである。(山南に真意を悟られ失敗に終わる、山南は脱走の咎で切腹)他人想いの沖田の優しさがそうさせたとも言えるのだが、沖田はこう述べる。

    「さっさと自分の身の始末をつけてしまいたかっただけかも知れないのです」
    「もうたくさんです!だんだん死に近づいていく自分を眺めていることなど!」
    「私は言い訳の立つ死を求めているだけなのに……それを勇気のように取られるのは堪えられないのです」

    山南はそれに対し「沖田君。人間は所詮弱いものだ。迷ったり苦しんだりは誰でもする……それを乗り越えることが勇気なのだ。君は勇気を持って生きてくれ」と語る。この山南の「勇気」という言葉は、ゆくゆくの沖田を支える伏線として書かれている。物語の終盤に沖田は「勇気」という言葉を口にしている。「勇気」それこそが、沖田の最期の生き方になるのである。

     しかし、この時点での沖田はまだ武士としての生き方、死に方にこだわっている。沖田を想い、真剣に療養を促す、女医・環との会話でもこう述べる。

    「自分の生きて行くところは新選組しかない。そこを離れて、徒に薬餌に親しみ、ふとんの上で、十年、二十年、生き延びてみたところで、それが男の生き方として、どんな意義があるというのだろう」
    「私は、剣士であることを止めるわけにはいかない。貴女が大切にさせようとしている生命は、私にとって斬るか、斬られるか、一瞬の剣の下に投げ出すためのものなんだ。そしてこの生命が続く限り、別な人間の死を積み重ねていく……」

    それを普段強気な環が沖田の頬を打ち、涙をこぼす。そこで沖田は自分の考えの安易さに思い至り、「君は生きろ」と言った山南の言葉を思い出すのである。まだ自分に出来ることを探し、実戦での突きを完璧な術にすることを思い立つ。「剣士としてこの答えを得ることが、生きたという証ではあるまいか」という希望を見出す。安易で投げやりな死への逃走から、死へ向かいつつもどう生きるかに目を向けだしたのだといえるだろう。

     しかし、沖田の病状悪化と共に、新選組は動乱の波の中で風向きが悪くなる。薩長軍に圧され賊軍となっていく戦の中で、あまりにもの多くの仲間の死は、沖田の心を変化させていく。自分とは違い、余命が残されているはずの人間が死に、ふとんの上で少ない余命を残すだけの人間が生き残る。多くの同志の死に悲しみ、沖田はひとり自刃しようとする。「『死』は安らぎとして彼を誘った」のである。切腹を試みる前の段落が彼の心情を良く表している。

     武士が古来死を選ぶとすれば、切腹という手段のほかはあるまい。古来、彼らはそういう死によって何らかの意思を表明しようとした。あるいは、死の驕りすら征服しようとする行為であったかも知れぬ。だが総司の場合、ただ生の果てなる無なるものを獲得したいに過ぎなかった。人は、武士が病み衰えて死を待つより、自刃を選ぶことを、潔しとして見てくれるかもしれない。

     ひとり自刃しようとしたのは、介錯人が刀を振り下ろすまでに、力尽きながら生を断ち切れない見苦しさを人目にさらしたくないからなのである。生き悶える姿は武士として見っとも無い。沖田はここでやはりまた「武士道」を持ち出すのである。しかしこの切腹の試みは彼が兄のように慕う土方歳三に必死に止められて終わる。「今は、土方のために、死も諦めなければならないもののひとつだと総司は覚ったのである」と自刃未遂の場面は締められる。実は、この一文は深い意味を持つのではないか。今まで沖田の中では、「武士道」という目に見えない精神に沿っていのちや生死について考えていた。それが、土方という人間、目の前に存在するもののために「生きよう」と思っているのである。これも終盤の沖田に影響を与えていると考えられる。
     
     以上を見て分かるように、ここまでの沖田の心は、ひとつひとつの出来事に敏感に揺れ動く。「武士として死にたい」「生きたい」の間を行きつ戻りつしている。沖田がいのちや死に対しての考え方を揺らがせてきたのは、「武士でありたい」という「生きていたい」という気持ちが常に混在していたからであろう。

     「武士でありたい」というのは、彼自身が武士の精神を持っていたいという生き方の理想だったのかもしれない。西洋で言うところのノブレス・オブリージュの精神に近かったのかもしれない。そこははっきりとは描かれなかったが、沖田は「武士道」に走りきることが出来ず、彼の中には常に「生きたい」という気持ちがあった。彼が武士道に順ずる人間であるならば、「生きたい」という考えが頭をもたげることも無かっただろう。潔く散ることも出来たはずだ。

     しかし、終盤にその沖田の心の波は止まる。それはなぜかと言えば、「勇気」を持ったからなのである。終盤の沖田は、ある種透明感を持って読者の目に映る。病が進行しすぎて新選組を離れ養生するのであるが、そこでの沖田は死を間近にして生き生き見える。姉のお光に甘える姿も見られる。死に対する考え方も変化している。沖田は床を抜け出し、足元の花々を眺めながら野を歩いている最中に覚るのだ。
     
     総司は自分が今までこういうものに、ついぞ目を止めたことがなかったのに気づいた。

     侍の子が足元に目を落として歩くなどということはすべきでない、と教えられたからでもあるが、これまでの自分にとって、道というものは、出発点と目的地があるのみで、路傍のものには、わき目もふらず通りすぎてしまっていた。……来年、この土手にたんぽぽはまた咲くであろう。だが、自分はそれを見ることはあるまい……そんな考えは総司の頭の中で何の感傷にもつながりはしなかった。ただ、そういう認識があるに過ぎない。
    今、ここにたんぽぽが咲いているそれだけで満足だった。

     侍の子として「武士道」を貫くあまりに見過ごしてきたものに、そのとき沖田は目を向け始めていたのである。まっすぐな性格ゆえに逸れることを知らなかった「武士道」が、違ったものとして彼の目に映り始めるのである。土方との別れの場面で沖田は土方に告げる。

    「この手に剣を握ることができなくなったら、もう生命など不要のものだと思っていました」
    「だけど、こうしてどの指も、自分の思いのままに動くのは、生命が通っているからですよね。これほど巧緻で美しいものが、またとあるでしょうか」
    「人間は生きようとすることが本当の勇気だと思えて来たのです」

     それはかつて山南が言った「勇気」であったかもしれない。だが、彼がかつて「生き悶える見苦しさ」を武士として嫌ったように彼のここでの発言は「武士道」の対極に存在するかのように思える。しかし、沖田はもう「武士道」を越えたところにいた。「どんな死にも甘んじようとする果敢さ」は、彼が本当に生命というものに向き合うことが出来た証だったのであろう。

     最後、クライマックスともなる沖田の最期は非常に独特で象徴的に描かれる。死の影に満たされる病室で、生あるものを、と連れられた小鳥を沖田は可愛がる。庭先に現れた黒猫から小鳥を守らねばならないと思い、もう力も残されていない腕で剣を抜くのである。しかし、斬れない。総司は、朦朧とする意識の下で医者であり、友人である石崎に、小鳥を逃がすよう頼むのである。

    「あの猫、また来てるかな?」
    「小鳥はもういないのに……」

     この部分は「はっとするほど明るい声で言った」と描写される。これが、沖田総司とこの物語の最期である。

     この「小鳥」は沖田自身を象徴しているのだ。小鳥は、鳥籠から飛び出し、黒猫という闘いの象徴である敵から自由になる。沖田は死ぬことで、闘いから自由になる。もはや戦場で武士として死ぬことが出来ない彼は、生き続けなければならない。生き続けるということはすなわち闘わねばならないことを示していたのだ。明るい声で言ったのは、沖田が自分を武士たらしめていた全てから解放された喜びだったのかもしれない。

     生きようとする勇気で最期まで闘えた満足だったのかもしれない。
    実際に伝えられる歴史では、小鳥が沖田の部屋に連れてこられるというエピソードは存在しない。ただ、沖田は庭に現れた黒猫を斬ろうと剣を向けるも、黒猫はまったく反応せず、自分にはもう力がないことを知り、死を覚ったというものである。

     小鳥のエピソードは、ここまで大内氏が描いてきた、「武士道」と「生への執着」という両極端の思いに揺れながら悩みぬいてきた沖田の辿りついた先であることを示しているのだろう。作者大内氏の思いは、場面が前後するが、石崎の思いとして本文中に述べられているように思える。

     この最後まで闘うために在ったような、沖田総司という青年の生涯を、彼は感動をもって見つめていた。それは人間の持つ矛盾を超越した、生命そのものの尊厳を彼の前に現出してくれているように思われたからである。

     この物語は、敗者の物語にありがちな、単なる滅びの美学ではなく、最期まで戦い抜いた勇気ある人間のひとつの歴史なのである。新選組を新選組たらしめたものは、三百年の泰平の世に温んでいた幕末にはもう存在しなかったといっても過言ではない武士道の精神であった。

     とくに、すでに見たように沖田はその武士道に対して強い思いを持っていた。それは彼の真っ直ぐな性格がそうさせたのかもしれないし、「花は桜木、人は武士」のように、散り際の美しさ、潔さを讃える美学が染み付いていたのかもしれない。

     彼は戦の中で華々しく死んだわけではない。武士として、あるまじき畳の上での地味な死に方である。しかし、彼の死がもたらす印象は、「武士道」を貫き通した武士の姿である。死に方よりも生き方にこだわった若き武士。戦い続けた武士の姿である。それは、もとから存在した借り物の「武士道」に順じて死んだのではなく、彼自身が見つけた答えである「武士道」を貫いて死んでいったからなのであろう。

     この物語は『沖田総司』という題名であるが、原題は『落木の碑』であったという。「かつて茂らせた青葉たちが、この世にあったことの記念碑のように立ち尽くす。もう、落ちた葉のことを、思い出す人も語るものもいなくなったとしても」という意味合いが込められている。展示会で「沖田総司の書簡」を見て、「学徒動員」を思い出すような戦争時代を過ごしている作者の記憶や、体験もこの物語には潜んでいるのだろう。

  • 「馬鹿野郎!なんで病気になんかなっちまったんだ!」に号泣。細かやな人間描写がすごく綺麗で、何かが悲しい。個人的には土方と沖田の係わり合いが好き。

  • 2016/05/27-06/09

  • 「沖田総司」大内美予子◆沖田の知名度が今ほど高くなかった頃に書かれた長編小説。あくまで彼中心で、他の隊士にはあまり焦点が当たりません。彼を描いた作品の中では有名らしくアマゾンでも高評価ですが、なんとなく私には合わず…。終盤はお光姉さんの登場機会が多く、良い姉さんだなぁとしみじみ。

  • 井上芳雄さんの朗読活劇をきっかけに読みました。当たり前ですが、ところどころで井上さんの朗読と重なりました。
    「沖田総司」さんに会いたくなりました。

  • 2010

  • こんな弱い総司は初めて読んだ。普通総司は元気一杯で病なんて気にしなかったりのイメージが多かったけど、怖くて涙したり、どの作品よりも人間ぽかった。近藤さんの影がほんとに薄い…。

  • 高校時代に読んだ本。最近偶然とあるブログで書評を見つけて、もう一度読み返したくなった。

    この本の沖田が一番好きです。

  • 新選組 沖田総司が主人公。
    繊細で心やさしいけれど、剣に対しては一途という、よくある沖田総司のイメージそのまま。
    せつない最期でした。

  • 沖田総司の本をたくさん読んできたけど、これが一番好き!
    女性の作者なので心情描写がやさしく、とても共感できた。
    ほんわか総司^^

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